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'''加賀型戦艦'''(かががたせんかん)は{{Sfn|決定版、日本の戦艦|2010|pp=75a-77|ps=「加賀」型戦艦}}、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[八八艦隊]]計画で考案した[[戦艦]]<ref name="海軍制度8巻201">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]、p.201〔 ◎戰艦加賀及土佐命名ノ件 大正七年五月十五日(達七六)軍備補充費ヲ以テ大正七年度製造ニ着手スヘキ戰艦二隻左ノ通命名セラル 大正七年度着手戰艦二隻 第一隻 <ruby><rb>加</rb><rt>カ</rt></ruby><ruby><rb>賀</rb><rt>ガ</rt></ruby> 第二隻 <ruby><rb>土</rb><rt>ト</rt></ruby><ruby><rb>佐</rb><rt>サ</rt></ruby> 〕</ref><ref name="海軍制度8巻58">[[#海軍制度沿革(巻8、1940)]]、p.58〔 大正七年五月十五日(達七七)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄「陸奥」ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ 〕</ref>。[[長門型戦艦]]の拡大改良型である<ref>[[#福井戦艦物語弐]]、177-179頁〔 栄光の日なき未成戦艦 〕</ref>。 |
2021年9月18日 (土) 07:14時点における版
加賀型戦艦 | |
---|---|
基本情報 | |
種別 | 戦艦 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
建造数 | 2隻 |
前級 | 長門型戦艦 |
次級 | 天城型巡洋戦艦 |
要目 (計画) | |
常備排水量 |
39,900英トン[1] または39,930英トン[2] 加賀完成予定 39,967.0英トン[3] 39,979トン[要出典] |
全長 | 768 ft 0 in (234.09 m)[1] |
水線長 | 760 ft 0 in (231.65 m)[1] |
垂線間長 | 715 ft 0 in (217.93 m)[1] |
最大幅 |
102 ft 10 in (31.34 m)(水線下)[4][注釈 1] 32.3メートル[要出典] |
水線幅 | 100 ft 0 in (30.48 m)[1] |
深さ |
50.62 ft 0 in (15.43 m)[1] または 51 ft 10 in (15.80 m)[4] |
吃水 | 30 ft 9 in (9.37 m)[1] |
ボイラー | ロ号艦本式缶 重油専焼8基、同混焼4基[1] |
主機 |
加賀:ブラウン・カーチス式ギアード・タービン(高低圧[1])4基[5] 土佐:三菱パーソンズ式ギアード・タービン(高低圧[1])4基[5] |
推進器 | 4軸 x 210rpm[1] |
出力 | 91,000馬力[1] |
速力 | 26.5ノット[1] または28.3ノット[6] |
航続距離 | 8,000カイリ / 14ノット[1] |
燃料 | 重油 3,600トン、石炭 1,700トン[1] |
乗員 | 1,370名[7] |
兵装 |
45口径三年式41cm連装砲5基[5] 50口径三年式14cm単装砲20基[5] 40口径三年式8cm単装高角砲4基[5] (45口径十年式12cm高角砲4基に変更)[5] 61センチ水上魚雷発射管8門[5] |
装甲 |
舷側:11インチVC鋼(傾斜15度)[1] 甲板:2.5インチNVNC鋼+1.5インチHT鋼[1] 隔壁:11インチから9インチ[4] 砲塔:12インチから9インチ[4] 司令塔:14インチ[4] |
搭載艇 | 12隻[7] |
加賀型戦艦(かががたせんかん)は[8]、日本海軍が八八艦隊計画で考案した戦艦[9][10]。長門型戦艦の拡大改良型である[11]。
なお土佐の方が起工が早かった事から『土佐型戦艦』と呼称されることもある[12]。
同型艦2隻(加賀、土佐)ともワシントン海軍軍縮条約により建造中止となった[13][14]。
標的艦として実験に使用したあと処分する予定だったが[15]、空母改造予定の天城型巡洋戦艦「天城」が関東大震災で損傷・廃棄されたため[16]、代艦として「加賀」は航空母艦に改装された[17][18]。
「土佐」は進水後に予定どおり標的艦として使用され[19]、1925年(大正14年)2月9日に自沈処分となった[20]
概要
加賀型は高速戦艦とも呼ぶべき戦艦であり[19]、八八艦隊計画の長門型に次ぐ第3番艦(加賀)、第4番艦(土佐)として計画された[注釈 2]。 先行2隻(長門、陸奥)では完全に取り入れる事が出来無かったユトランド沖海戦の戦訓を長門型以上に徹底して取り入れるため、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している[22]。
長門型では舷側の装甲帯の上部装甲はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていた。これに対し加賀型では舷側の装甲帯の装甲厚(10-11吋/インチ[23])は上部〜下部ともに完全に同一になっている[24]。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている[24]。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した[24]。さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している[19]。砲塔12インチ・砲塔天井6インチ[23]、遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチもあり、建造時は世界最強の防御を持っていた[19]。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3.5インチである[19]。水線下には、日本海軍艦艇初のバルジを装着した[19]。
攻撃力の面では、長門型が41センチ砲4基8門であったのに対して[25]、加賀型は1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲を10門搭載する重武装となっている[26]。長門型の砲塔と形状が若干異なり、仰角は増しているが(長門型は仰角30度俯角5度、加賀型は仰角35度俯角3度)、砲塔の側面装甲は若干減らされている[27]。
速力の面では、長門型より新式で91,000馬力を発揮する新式機関を搭載した[19]。これにより長門型より船体規模、排水量が大幅に増加して39,979トンになったにも関わらず、長門型の21基より少ない12基で26.5ktの高速を維持できる見込みであった[23]。缶数が減少した事により、煙突は長門型の2本から1本になった[19]。
艦歴
加賀
1917年(大正6年)6月21日特別召集の第39回帝国議会で、戦艦3隻(陸奥、加賀、土佐)と巡洋戦艦2隻(天城、赤城)の予算が承認された(7月20日交付)[24]。 1918年(大正7年)5月15日、日本海軍は八八艦隊第3番艦(仮称第七号戦艦)を加賀と命名する(土佐と同日付)[9][28]。同日付で2隻は『戦艦』として艦艇類別等級表に登録された[29][10]。 1920年(大正9年)7月19日、加賀は神戸川崎造船所(現・川崎重工業神戸工場)で起工[30][31]。神戸川崎造船所建造の主力艦としては、榛名・伊勢に続き3隻目である[32]。
1921年(大正10年)11月17日午前8時30分、進水[33][34]。進水式には大正天皇名代として伏見宮博恭王が臨席した[32]。また東宮武官の及川古志郎も派遣された[35]。加賀進水式から数日後の11月22日、神戸川崎造船所では天城型巡洋戦艦「愛宕」の建造がはじまった[36][37]。
1922年(大正11年)初頭、ワシントン会議で日本側は加賀型戦艦2隻(加賀、土佐)の空母改造を提案している[38]。 結局、空母に改造する艦艇は天城型巡洋戦艦2隻(天城、赤城)に変更および決定した[39]。ワシントン海軍軍縮条約により加賀型は2隻とも廃艦となり、各種兵器の実験(加賀は魚雷〈水雷爆弾〉など)の実験に使用される予定だった[19][40]。また「加賀」の主砲砲身が余ったため、主砲の装填動作不良に悩まされていた「長門」に丸ごと流用された[41]。 同年7月8日、「加賀」は川崎造船所から海軍に引き渡される[42]。7月11日、特務艦「富士」に曳航され、護衛の装甲巡洋艦「八雲」と共に神戸を出発する[43]。 7月14日、3隻(加賀、富士、八雲)は横須賀に到着した[32][44]。本艦は、そのまま横須賀で放置された[36]。「土佐」の実験予備艦であったという[36]。
1923年(大正12年)9月1日、横須賀海軍工廠で航空母艦に改造中だった天城型巡洋戦艦1番艦「天城」が関東大震災で修理不能の損傷を受け[18] 、日本海軍は「天城」の廃棄を決定する[45]。 その代艦として、横須賀に繋留されていた加賀が航空母艦に改造されることになった[46][19][47]。
1923年(大正12年)11月19日付で2隻(加賀、赤城)は、それぞれ戦艦と巡洋戦艦から空母に類別変更される[47][48]。この余波で、空母「翔鶴」(初代)が建造中止になった[46][49]。12月13日、横須賀海軍工廠で「加賀」の工事が再開する[32]。試行錯誤の末に[50]、1928年(昭和3年)3月31日、航空母艦として竣工した[51]。「加賀」は日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1934年(昭和9年)6月から1935年(昭和10年)6月の大改装で第一線級の能力を保持しつづけた[52]。1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で沈没した[53]。
土佐
『土佐』の艦名は、旅順攻囲戦で日本軍が鹵獲したロシア海軍戦艦「レトヴィザン」を改称する際、改名候補の一つに挙げられていた(実際は肥前と命名)[54][55]。
八八艦隊計画における本艦(仮称第八号戦艦)[56][57]、1918年(大正7年)5月15日付で土佐と命名される(加賀と同日付)[9][28]。同日付で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録[29][9]。 1920年(大正9年)2月16日、三菱造船長崎造船所[57](現・三菱重工長崎造船所)で起工した[58]。三菱造船所建造の主力艦としては、霧島・日向に続いて3隻目となる[57]。 4月2日、皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が香取型戦艦「香取」に乗艦して長崎港に到着した(供奉艦は安芸、薩摩、海風、山風、榎)[59][60][61]。 同日午後、皇太子は三菱長崎造船所に移動すると、建造中の峯風型駆逐艦「矢風」(4月10日進水)を見学した[59][62]。続いて第一船台の「土佐」において、皇太子が最初のリベットを締める[63][59][57]。その後、皇太子は艤装工事中の球磨型軽巡洋艦「多摩」(長崎造船所で同年2月10日進水)[64]を見学し、「香取」に戻った[59][61]。 同年5月、技術供与の見返りとして、イギリスに本艦機関図面の一部を提供する[65]。
1921年(大正10年)1月上旬、ワシントン会議に出席した日本側は、加賀型2隻(加賀、土佐)の空母改造を提案する[38]。 同年12月18日午前10時30分、「土佐」は進水した[66][67]。進水命名式には伏見宮博恭王が臨席した[68][69]。加藤友三郎海軍大臣も出席した。しかし、進水の際にくす玉が割れないというアクシデントが発生し、縁起の悪さが囁かれた[70][71]。 土佐進水式後の12月19日、三菱長崎造船所では天城型巡洋戦艦「高雄」の建造が始まった[72][73]。
ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日付で日本海軍は「土佐」の建造中止を発令する[19]。同年7月31日、未完成のまま海軍に引き渡された[57]。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に製作が進められていた[71]。その後、各艦(肥前、石見、土佐、安芸、薩摩)は標的艦として処分されることになった[74]。建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(土左衛門)になった」と自嘲したという[63]。艦上では、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われた[71]。同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、装甲巡洋艦「八雲」護衛下で出港、豊後水道経由で呉へと回航された[57](当時、呉海軍工廠では天城型2番艦赤城建造中)[75][76]。
1924年(大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻(天城、愛宕、高雄)、加賀型2番艦「土佐」、紀伊型戦艦2隻(紀伊、尾張)の建造取り止めの令が通達される[77]。同日付で6隻(土佐、紀伊、尾張、天城、高雄、愛宕)は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された[78][79]。
建造中止になった八八艦隊の各艦(天城型2隻〈愛宕、高雄〉、加賀型2隻〈加賀、土佐〉、紀伊型戦艦2隻〈紀伊、尾張〉)の資材は、横須賀海軍工廠の「天城」(のち加賀)や、呉海軍工廠の「赤城」などに流用された[80]。
また1923年(大正12年)の段階で加賀型の主砲塔は10基が完成し、天城型の主砲塔は4基が完成または完成間近だった[81]。「土佐」の主砲塔のうち2基は陸軍の特殊起重機船「蜻州丸」[82]により運搬され、対馬要塞豊砲台に1基(土佐1番砲塔、1932年(昭和7年)完成)、釜山要塞張子嶝砲台に1基(土佐2番砲塔、1930年(昭和5年)完成)が運搬されて、現地で要塞砲として活用された[81]。横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、後日1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、戦艦「長門」の改装に利用されたという[83]。加賀型の41㎝砲塔は8基残っていたが、この3番砲塔をふくめ「長門」と「陸奥」の近代化改修にもちいられた[84]。搭載に際しては若干の改修が施されたという[84]。
「土佐」は1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した[85][86]。実験内容は、亀ヶ首試射場(呉港外)からの砲撃や、船体に固定した爆薬を用いた[87]。砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[88][89]新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは建造予定の1万トン級巡洋艦(妙高型重巡洋艦、高雄型重巡洋艦、最上型巡洋艦)や、後の大和型戦艦の設計にも活かされた[85][90][86]。特に四〇cm徹甲弾(距離20000m)に対する射撃では、落下角度約17度・舷側25m地点に弾着した弾頭が水中弾となって水線下約3m部分に命中、水雷防御 を貫通して機械室で炸裂、浸水3000トン・傾斜5度の被害を生じた[91][90]。
1925年(大正14年)2月2日、「土佐」は標的艦「摂津」(河内型戦艦1番艦)に曳航されて呉を出港する[92][93]。翌日佐伯港に入港[94]。仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った[93]。2月6日の自沈予定は悪天候のため中止[93]。2月8日、2隻(摂津、土佐)は佐伯を出発する[95][93]。同年2月9日、「土佐」は艦名の由来となった高知県の沖の島西方約10海里地点にて自沈した(豊後水道南方海面)[86]。自沈開始は午前1時25分、全没は午前7時頃[93]。自沈地点の水深は350フィート[93]。
長崎市の端島は、「軍艦島」の愛称を持つが、これは島を横から見た姿が(未完成状態の)土佐のシルエットに似ていた事に由来すると言われる[96]。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという[97]。
脚注
注釈
- ^ #軍艦基本計画資料Sheet2では加賀の値として水線下102.9ft(31.364m)としている。
- ^ 第四章 艦船兵器/(一)主力艦 加賀級[21] 一九一八年即ち長門級計畫後十八箇月目に戰艦加賀及び土佐の設計が完了した。兩艦は八八艦隊計畫の第三第四番艦であつて、長門級の三三,八〇〇噸に對して三九,九〇〇噸で、その要目は次の通りである。 長さ(P.P)七一五呎-〇吋 最大幅(W.L)一〇〇呎-〇吋 吃水三〇呎-九吋 排水量三九,九〇〇噸 速力 二三節 兵装{主砲 十六吋-十門 副砲 五吋半-五十門 高角砲 三吋-四門 發射管 二十一吋-八門 此の外十分なるサイド・アーマーとデッキアーマーとを有し、其の上に有力なる水雷防禦装置を有して居るが故に、速力は長門級と相等しいけれども其の他は遙かに有力であつた。/ 近代式主力艦設計の見地より見て、艦の幅の増加が必要にして且つ有利であると云ことが重要な問題となつて來たのは、丁度此の級設計中のことであつた。而して本問題は豫想より遙かに實現され得る可能性があつたのである。/ 一體船渠や造船臺(ビルヂング・バース)を長くすることは困難なことではないが、幅を増加することは根本的の變革であつて、全く改造に等しいものである。本件は船體の寸法を増加する場合攻究すべき重要なる項目の一であつて、加賀設計當時我が海軍工廠の設備に就ても、至れり盡せりの考慮が拂はれたのである。/ 一九二〇年加賀は川崎造船所にて起工せられ、土佐は長崎三菱造船所に於て建造を開始せられた。/ 是等兩艦の建造準備時機は大戰の影響による商船建造の大好況時であつた爲に、材料及び勞力の供給を得ることに多大の困難を感じた。併し乍ら此の作業を豫定通り進捗せしむる爲に、海軍竝に民間兩當時者が苦痛を忍んで最善の努力を盡したことは一通りではなかつた。顧れば苟くも此の事業に關係せしものは何人を問はず、必ずや當時に於ける造船所の惡戰苦闘の状況を偲び、今も尚ほ昂奮を覺ゆるものがあらう。斯くの如き困難ありしにも拘らず、兩艦は華府會議開催中遂に進水した(一九二一年十一月及十二月) 斯くて周知の如く會議の結果兩艦は廢棄に決し、進水直後廢棄表に登録せられたのである。米國戰艦ワシントンも亦之と同様の運命を辿つたのである。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #昭和造船史1pp.776-777
- ^ #軍艦基本計画資料Sheet2、加賀の値
- ^ #軍艦基本計画資料Sheet58
- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)p.107
- ^ a b c d e f g 阿部安雄「主要艦艇要目表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.35
- ^ #帝国海軍機関史下巻pp.351-352、大体計画要領(四四三-四四四頁)
- ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)p.1053、『建造中ノ艦船要目ニ関スル件 大正十年十一月四日(官房三七七七)(以下略)』
- ^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 75a-77「加賀」型戦艦
- ^ a b c d #海軍制度沿革(巻8、1940)、p.201〔 ◎戰艦加賀及土佐命名ノ件 大正七年五月十五日(達七六)軍備補充費ヲ以テ大正七年度製造ニ着手スヘキ戰艦二隻左ノ通命名セラル 大正七年度着手戰艦二隻 第一隻
加 賀 第二隻土 佐 〕 - ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)、p.58〔 大正七年五月十五日(達七七)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄「陸奥」ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ 〕
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加 賀 第二隻土 佐 〕 - ^ a b #達大正7年5月 p.25〔 達第七十七號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄陸奥ノ次ニ「、加賀、土佐」ヲ加フ|大正七年五月十五日 海軍大臣 加藤友三郎 〕
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- ^ #加賀回航便乗願(1) p.28〔 (ロ)七月十一日之レ迄約一週間ノ不良天候ノ後ノコトヽテ天候極メテ平穏午前五時各曳船(高砂丸仲丸元丸大正丸)ハ加賀艦側ニ來到シ午前六時解纜出港洲本冲ニ曳航ス軍艦富士仝時刻出港 〕
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- ^ #加賀回航便乗願(4) pp.35-37〔 大正十二年十一月一日 大臣 侍従長宛 曩ニ横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ナル軍艦天城ハ華府會議軍備制限條約ノ結果航空母艦ニ艦種ヲ変更工事継續ノコトニ執奏着々工事進捗略下甲板迄完成セル處去ル九月一日大震災ニ於テ天城ハ其ノ全支柱ヲ取外サレ盤木後方ニ倒レシタメ舩体ハ約四呎後退シ且ツ倒レタル盤木上ニ墜落シ之ヲ進水セシムルコト非常ニ困難トナリシノミナラズ其ノ舩体ハ全長ニ對シ約十九吋ノ屈曲ヲ生ジ工事ヲ續行スルモ舩体強度ニ著シキ弱点ヲ存スルニ至ルヲ以テ此ノ侭工事ヲ継續スルノ不利益ナル状態ニ陥リタリ然レトモ帝國海軍ノ現状ハ目下航空母艦ノ整備ヲ最モ緊要トスルヲ以テ天城今回ノ災害ニ依リ航空母艦ノ建造ヲ放棄スルコト能ハザル次第ニ有之候ニ付此ノ際天城ヲ廢棄シ其ノ代艦トシテ華府會議軍備制限條約ニ依リ廃棄スベキコトニ豫定セラレ建造工事中止中ノ戰艦加賀ヲ航空母艦(排水量二六,九〇〇トン)ニ変更シ横須賀海軍工廠ニ於テ工事再興竣工セシメ以テ帝國海軍航空母艦ノ勢力減損ヲ補填ノコトニ取計候條此ノ旨可然御執奏相成度此段申進候(終) 〕
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- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.60〔 大正十二年十一月十九日(達二二七)艦艇類別等級表中航空母艦ノ欄「翔鶴」ヲ削除ス 〕
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- ^ 大正10年12月17日(土)官報第2814号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15〔 宮廷録事(略)◎御沙汰 明十八日三菱長崎造船株式會社長崎造船所ヘ依仁親王殿下ヲ差遣ハサルヽ旨曩ニ御沙汰アラセラレタル處御都合ニ依リ博恭王殿下ヲ差遣ハサルヽコトニ御變更ノ旨更ニ御沙汰アラセラレタリ(略)◎皇族御發着 博恭王殿下ハ昨十六日御出發長崎縣下ヘ御旅行相成リタリ 〕
- ^ #昭和天皇実録三巻、545頁〔 (大正十年十二月)二十一日 水曜日 午前十時御出門、宮城に御出務になる。博恭王に御対顔になり、去る十八日の三菱造船株式会社長崎造船所における軍艦土佐進水式への御差遣につき、御復命を受けられる。(以下略)〕
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- ^ #達大正13年4月 p.9〔 達第四十一號 艦艇類別等級表中戰艦ノ欄ヨリ「土佐、紀伊、尾張」ヲ、巡洋戰艦ノ欄ヨリ「天城、高雄、愛宕」ヲ削除ス|大正十三年四月十四日 海軍大臣 村上格一 〕
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.60〔 大正十三年四月十四日(達四一)艦艇類別等級表中戰艦ノ欄ヨリ「土佐」、「紀伊」、「尾張」ヲ、巡洋戰艦ノ欄ヨリ「天城」、「高雄」、「愛宕」ヲ削除ス 〕
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- 福井静夫 著「八八艦隊計画の主力艦建造と戦艦加賀型の概要」、阿部安雄、戸高一成編 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、1993年8月。ISBN 4-7698-0654-X。
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- Ref.C05023304000「軍需2機密第324号 8.4.22 官房機密第734号訓令に依る40糎砲塔運搬に関する件」
- Ref.C05023304100「官房第734号 8.4.12 旧土佐3番砲塔運搬の件」
- Ref.C08021548600『軍艦多摩命名進水式の件(2)』。
関連項目
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 長崎ぶらぶら節(長崎で建造されていた土佐が廃艦になるくだりがある)
- 八八艦隊
- ワシントン海軍軍縮条約
- ワシントン (BB-47) - コロラド級戦艦3番艦。1924年(大正13年)11月下旬、標的艦として沈没。