コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「アーロン・シーリー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
28行目: 28行目:
* [[テキサス・レンジャーズ]] (1998 - 1999)
* [[テキサス・レンジャーズ]] (1998 - 1999)
* [[シアトル・マリナーズ]] (2000 - 2001)
* [[シアトル・マリナーズ]] (2000 - 2001)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|アナハイム・エンゼルス]] (2002 - 2004)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]] (2002 - 2004)
* シアトル・マリナーズ (2005)
* シアトル・マリナーズ (2005)
* [[ロサンゼルス・ドジャース]] (2006)
* [[ロサンゼルス・ドジャース]] (2006)
56行目: 56行目:


=== エンゼルス時代 ===
=== エンゼルス時代 ===
2001年12月に[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|アナハイム・エンゼルス]]と契約。{{by|2002年}}は終盤に右肩痛で離脱したが<ref>この怪我のためポストシーズンに登板できず、代わりに[[フランシスコ・ロドリゲス]]がメンバー登録された。</ref>、ほぼ1年間先発ローテーションを守って8勝を挙げ、ワイルドカードでのポストシーズン進出に貢献した。
2001年12月に[[ロサンゼルス・エンゼルス|アナハイム・エンゼルス]]と契約。{{by|2002年}}は終盤に右肩痛で離脱したが<ref>この怪我のためポストシーズンに登板できず、代わりに[[フランシスコ・ロドリゲス]]がメンバー登録された。</ref>、ほぼ1年間先発ローテーションを守って8勝を挙げ、ワイルドカードでのポストシーズン進出に貢献した。


=== マリナーズ復帰 ===
=== マリナーズ復帰 ===

2021年9月12日 (日) 00:02時点における版

アーロン・シーリー
Aaron Sele
メッツでの現役時代(2007年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミネソタ州ヘネピン郡ゴールデンバレー英語版
生年月日 (1970-06-25) 1970年6月25日(54歳)
身長
体重
6' 5" =約195.6 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 MLBドラフト1巡目(全体23位)でボストン・レッドソックスから指名
初出場 1993年6月23日
最終出場 2007年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

アーロン・ヘルマー・シーリーAaron Helmer Sele, 1970年6月25日 - )は、アメリカ合衆国ミネソタ州ヘネピン郡ゴールデンバレー英語版出身(ワシントン州キトサップ郡ポールスボー英語版育ち)の元プロ野球選手投手)。右投右打。現在は、MLBマイアミ・マーリンズのスカウトを務める。

経歴

プロ入り前

高校卒業時の1988年MLBドラフト37巡目(全体961位)でミネソタ・ツインズから指名されるが契約せず、ワシントン州立大学に進学した。大学時代の1990年に第19回日米大学野球選手権に出場している[1]

プロ入りとレッドソックス時代

1991年MLBドラフト1巡目(全体23位)でボストン・レッドソックスから指名され、プロ入り。1993年6月23日のツインズ戦で先発してメジャーデビューし、この試合で初登板初勝利を飾った。そこから先発ローテーションに定着して球団史上48年ぶりとなる6連勝デビューとセンセーションを巻き起こし、最終的に7勝2敗・防御率2.74の成績を残してスポーティングニュース紙によるアメリカンリーグ最優秀新人投手に選出された[2]1995年開幕投手を任され、1997年に初の二桁勝利(チーム最多の13勝)を記録した。

レンジャーズ時代

1997年11月6日ジム・レイリッツ英語版デーモン・ビュフォード英語版とのトレードで、マーク・ブランデンバーグ英語版ビル・ハセルマン英語版と共にテキサス・レンジャーズへ移籍した。1998年最多勝のタイトルこそ同僚のリック・ヘリングに譲るも、自己最多の19勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。また、オールスターにも初選出された。翌1999年も18勝を挙げる活躍を見せた。

マリナーズ時代

FAとなったシーリーは、2000年1月7日ボルチモア・オリオールズと契約したが、身体検査をパスできず正式契約には至らなかった。その隙をついて1月10日シアトル・マリナーズが2年契約をまとめ、就任したばかりのパット・ギリックGM(当時) は「天から贈り物が降ってきた」と表現した[3]。同年は17勝を挙げてポストシーズン進出に貢献し、2年ぶりにオールスター選出もされた。チームが116勝した翌2001年も15勝を挙げ、5年連続二桁勝利を達成した。だが、レンジャーズ時代から勝てなかったポストシーズンではまたしても勝ち星を挙げることができず0勝3敗、防御率5.00を喫し、これが原因となってオフにFAとなった際も球団は引き留めなかった。

エンゼルス時代

2001年12月にアナハイム・エンゼルスと契約。2002年は終盤に右肩痛で離脱したが[4]、ほぼ1年間先発ローテーションを守って8勝を挙げ、ワイルドカードでのポストシーズン進出に貢献した。

マリナーズ復帰

2005年にマイナー契約でマリナーズに復帰。メジャー昇格するが、6勝12敗、防御率5.66と低迷して7月末に自由契約となった。マリナーズ退団後はレンジャーズ傘下(当時)のAAA級オクラホマ・レッドホークスでプレーした。

ドジャース時代

2006年ロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。主にロングリリーフやスポット先発で起用され、8勝を挙げた。

メッツ時代

2007年ニューヨーク・メッツへ移籍して全てリリーフとして34試合に登板。この年限りで引退した。

引退後

引退後はドジャースで傘下マイナーの投手コーチ、スペシャルアシスタント、スカウトを歴任した。2017年11月からはマイアミ・マーリンズのスカウトを務めている[5]

投球スタイル

制球の良さが最大の持ち味で、テンポの良い投球で打たせるタイプのグラウンドボールピッチャー。決め球はカーブ

詳細情報

記録

背番号

  • 36(1993年 - 1995年)
  • 26(1996年 - 1997年)
  • 30(1998年 - 2001年、2005年、2007年)
  • 34(2002年 - 2004年)
  • 41(2006年)

代表歴

脚注

  1. ^ 第19回 日米大学野球選手権(2018年10月19日閲覧)
  2. ^ 「アーロン・シーリー」『パンチョ伊東のメジャー・リーグMLB選手名鑑2000』ベースボール・マガジン社 113頁
  3. ^ 「アーロン・シーリー」『マリナーズ地区優勝&ポストシーズン展望号』ベースボール・マガジン社 68頁
  4. ^ この怪我のためポストシーズンに登板できず、代わりにフランシスコ・ロドリゲスがメンバー登録された。
  5. ^ Joe Frisaro (2017年11月14日). “Marlins may be seeking impact bat for Stanton” (英語). MLB.com. 2018年10月19日閲覧。

関連項目

外部リンク