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=== マリナーズ復帰 === |
=== マリナーズ復帰 === |
2021年9月12日 (日) 00:02時点における版
メッツでの現役時代(2007年) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ミネソタ州ヘネピン郡ゴールデンバレー |
生年月日 | 1970年6月25日(54歳) |
身長 体重 |
6' 5" =約195.6 cm 205 lb =約93 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1991年 MLBドラフト1巡目(全体23位)でボストン・レッドソックスから指名 |
初出場 | 1993年6月23日 |
最終出場 | 2007年9月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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国際大会 | |
代表チーム | アメリカ合衆国 |
この表について
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アーロン・ヘルマー・シーリー(Aaron Helmer Sele, 1970年6月25日 - )は、アメリカ合衆国・ ミネソタ州ヘネピン郡ゴールデンバレー出身(ワシントン州キトサップ郡ポールスボー育ち)の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は、MLB・マイアミ・マーリンズのスカウトを務める。
経歴
プロ入り前
高校卒業時の1988年のMLBドラフト37巡目(全体961位)でミネソタ・ツインズから指名されるが契約せず、ワシントン州立大学に進学した。大学時代の1990年に第19回日米大学野球選手権に出場している[1]。
プロ入りとレッドソックス時代
1991年のMLBドラフト1巡目(全体23位)でボストン・レッドソックスから指名され、プロ入り。1993年6月23日のツインズ戦で先発してメジャーデビューし、この試合で初登板初勝利を飾った。そこから先発ローテーションに定着して球団史上48年ぶりとなる6連勝デビューとセンセーションを巻き起こし、最終的に7勝2敗・防御率2.74の成績を残してスポーティングニュース紙によるアメリカンリーグ最優秀新人投手に選出された[2]。1995年は開幕投手を任され、1997年に初の二桁勝利(チーム最多の13勝)を記録した。
レンジャーズ時代
1997年11月6日にジム・レイリッツ、デーモン・ビュフォードとのトレードで、マーク・ブランデンバーグ、ビル・ハセルマンと共にテキサス・レンジャーズへ移籍した。1998年は最多勝のタイトルこそ同僚のリック・ヘリングに譲るも、自己最多の19勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。また、オールスターにも初選出された。翌1999年も18勝を挙げる活躍を見せた。
マリナーズ時代
FAとなったシーリーは、2000年1月7日にボルチモア・オリオールズと契約したが、身体検査をパスできず正式契約には至らなかった。その隙をついて1月10日にシアトル・マリナーズが2年契約をまとめ、就任したばかりのパット・ギリックGM(当時) は「天から贈り物が降ってきた」と表現した[3]。同年は17勝を挙げてポストシーズン進出に貢献し、2年ぶりにオールスター選出もされた。チームが116勝した翌2001年も15勝を挙げ、5年連続二桁勝利を達成した。だが、レンジャーズ時代から勝てなかったポストシーズンではまたしても勝ち星を挙げることができず0勝3敗、防御率5.00を喫し、これが原因となってオフにFAとなった際も球団は引き留めなかった。
エンゼルス時代
2001年12月にアナハイム・エンゼルスと契約。2002年は終盤に右肩痛で離脱したが[4]、ほぼ1年間先発ローテーションを守って8勝を挙げ、ワイルドカードでのポストシーズン進出に貢献した。
マリナーズ復帰
2005年にマイナー契約でマリナーズに復帰。メジャー昇格するが、6勝12敗、防御率5.66と低迷して7月末に自由契約となった。マリナーズ退団後はレンジャーズ傘下(当時)のAAA級オクラホマ・レッドホークスでプレーした。
ドジャース時代
2006年はロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。主にロングリリーフやスポット先発で起用され、8勝を挙げた。
メッツ時代
2007年はニューヨーク・メッツへ移籍して全てリリーフとして34試合に登板。この年限りで引退した。
引退後
引退後はドジャースで傘下マイナーの投手コーチ、スペシャルアシスタント、スカウトを歴任した。2017年11月からはマイアミ・マーリンズのスカウトを務めている[5]。
投球スタイル
制球の良さが最大の持ち味で、テンポの良い投球で打たせるタイプのグラウンドボールピッチャー。決め球はカーブ。
詳細情報
記録
- MLBオールスターゲーム選出:2回(1998年、2000年)
背番号
- 36(1993年 - 1995年)
- 26(1996年 - 1997年)
- 30(1998年 - 2001年、2005年、2007年)
- 34(2002年 - 2004年)
- 41(2006年)
代表歴
- 第19回日米大学野球選手権大会 アメリカ合衆国代表(1990年)
脚注
- ^ 第19回 日米大学野球選手権(2018年10月19日閲覧)
- ^ 「アーロン・シーリー」『パンチョ伊東のメジャー・リーグMLB選手名鑑2000』ベースボール・マガジン社 113頁
- ^ 「アーロン・シーリー」『マリナーズ地区優勝&ポストシーズン展望号』ベースボール・マガジン社 68頁
- ^ この怪我のためポストシーズンに登板できず、代わりにフランシスコ・ロドリゲスがメンバー登録された。
- ^ Joe Frisaro (2017年11月14日). “Marlins may be seeking impact bat for Stanton” (英語). MLB.com. 2018年10月19日閲覧。