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「マッカートニー (アルバム)」の版間の差分

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2021年9月6日 (月) 09:20時点における版

『マッカートニー』
ポール・マッカートニースタジオ・アルバム
リリース
録音 1969年12月 (1969-12) - 1970年3月 (1970-3)
ジャンル ロック
時間
レーベル アップル/EMI
プロデュース ポール・マッカートニー
専門評論家によるレビュー
  • All Music Guide 星4 / 5 link
ポール・マッカートニー アルバム 年表
  • マッカートニー
  • (1970年 (1970)
  • ラム(ポール&リンダ・マッカートニー)
  • (1971年 (1971)
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マッカートニー』(英語: McCartney)は、1970年に発表されたポール・マッカートニーの初のソロアルバム。邦題は、『ポール・マッカートニー』と、フルネーム表記となっている。

ジャケットは、写真家としても活動していた妻リンダ・マッカートニーによるもの。表ジャケットはドレンチェリーの写真で、裏ジャケットには生まれて間もない長女メアリーを抱いたマッカートニーの写真が飾られている。

解説

アルバム『アビイ・ロード』のリリースを直前に迎えた1969年9月20日、アメリカ・キャピトル・レコードとの契約書にサインをするためアップル社に集まったビートルズの4人だったが、ジョン・レノンが「もうグループは終わりってことだ。俺は抜ける。」と脱退の意思を明らかにした。マネージャーのアラン・クラインによって本発言は伏せられたが、それ以降ジョン以外の3人による『レット・イット・ビー』の追加録音(1970年1月3日-1月4日)等が行われたのみで、グループの活動は停止。ジョンはプラスティック・オノ・バンドとしての活動を主に行い、ジョージ・ハリスンデラニー&ボニーのツアーに参加するなど、各自ソロ活動を開始していった。

ポールは、ジョンの脱退宣言後、ビートルズの「解散」という事態に直面して精神的に疲弊し、スコットランドキンタイア岬の自宅農場で暫くの間、引きこもる生活を送ることとなる。[1]。ポールは無精ひげを剃らず、一日中ベッドに横たわり、酒に溺れ、一時はヘロインにまで手を出した[2]。だが、ポールは妻リンダ・マッカートニーの支えもありようやく立ち直り、初となるソロアルバムの制作を始める。ロンドンへ戻ると、1969年末に自宅に4トラックの機材を導入し、翌年初め頃から本格的にレコーディングを開始した。大部分は前述の通り、自宅でのレコーディングとなったが、一部はロンドンのモーガン・スタジオで行われた。また、「エヴリナイト」、「恋することのもどかしさ」、「男はとっても寂しいもの」はビリー・マーティンという偽名を使用し、EMI第2スタジオでレコーディングされている[3]

全楽器をポールが一人で演奏し、リンダは一部の曲のバック・ヴォーカルに加え、「クリーン・アクロア」の呼吸音を担当。完成後、ポールは『レット・イット・ビー』よりも早急に自身のアルバムを発売するよう、ビートルズのマネージャーを担当していたクラインに要求したという。しかし、クラインは『レット・イット・ビー』の発売を優先させるため、本作の発売日を遅らせようと試みる。しかし、ポールにはその気は無く、クラインの意を汲んで来たリンゴ・スターを激しい口調で追い返してしまう。ポールの思いを知ったリンゴの説得でクラインらは『レット・イット・ビー』発売1か月前のリリースを許可する。また、同年4月10日にマスコミ用に配布されたサンプル版に添付した質疑応答でポールは「ビートルズの活動休止の原因は、個人的、ビジネス上、及び音楽的な意見の相違によるもの」、「ジョンとの共作活動が復活することはない」とビートルズ脱退を表明し、その1週間後の4月17日に本作が発売された。アメリカでは4月20日に発売された(日本では6月25日発売)。ポールより前にビートルズを脱退していたジョンは、アルバム発売と合わせて発表されたポールの脱退宣言を「ポールはNo.1のPRマンだ」と皮肉交じりに攻撃し、以後数年に渡って関係が悪化することとなる。

このアルバムは全英2位、アメリカの「ビルボード」誌では、3週連続最高位第1位を獲得し、1970年度年間ランキング第27位、「キャッシュボックス」誌でも、3週連続最高位第1位を獲得し、1970年度年間ランキング第9位を獲得、アメリカだけで200万枚以上のセールスを記録している(日本では、オリコンチャートで最高13位)。商業的には成功するが、シンプルな音作りであることと、収録曲の約半分をインストゥルメンタル・ナンバーが占めていることなどから、当時のマスコミからは酷評する声も少なくなかった。しかし、マッカートニーならではの美しいメロディは随所に散りばめられており、彼のパーソナルな部分を垣間見ることの出来る作品として、また、宅録が定着した現在では、その先駆的作品としても再評価されている。

本作からはシングル・カットはなく、1971年2月発表の「アナザー・デイ」が、マッカートニーのファースト・ソロ・シングルとなった。1977年にはウイングスのライヴ録音による「恋することのもどかしさ」が、邦題を「ハートのささやき」に変更してシングル発売され、全米10位を記録している。

2011年6月14日(日本では6月22日)、「ポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション」と題してリマスター版が『マッカートニーII』と共に発表された[4]。この際には通常版の他に、未発表の「スーサイド」「ウーマン・カインド」などデモテイク7曲を収めたCDが付いたデラックス・エディション、さらにウイングス最後となった1979年のカンボジア難民救済コンサートでの演奏を含むDVDおよびリンダの未発表写真などを纏めたハードカバーブック付きのスーパー・デラックス・エディション、そしてアナログ盤(海外のみ)が発売された。

収録曲

全曲 作詞・作曲・演奏:ポール・マッカートニー

  1. ラヴリー・リンダ - The Lovely Linda
    機材のテストも兼ねて最初にレコーディングされた。ヴォーカルアコースティック・ギターベースパーカッションの代わりに本を叩いた音で構成されている。
  2. ザット・ウッド・ビー・サムシング - That Would Be Something
    当時の邦題は「きっと何かが待っている」
  3. バレンタイン・デイ - Valentine Day
    「ラヴリー・リンダ」同様に機材のテストを兼ねて録音された短いインストゥルメンタル曲。
  4. エヴリナイト - Everynight
  5. 燃ゆる太陽の如く/グラシズ - Hot As Sun/Glasses
    「燃ゆる太陽の如く」はマッカートニーが10代の時に作った曲で、グラス・ハープによる「グラシズ」(最後に挿入されている歌はフランク・シナトラに提供したものの「自殺」を意味するタイトルから拒絶された「スーサイド Suicide」という曲)とメドレーになっている[5]
  6. ジャンク - Junk
    ビートルズがインドに滞在していた時に書き始め、帰国後に完成させた。『ホワイトアルバム』の制作前に録音されたデモ・テイクが『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』に収録されている。
  7. 男はとっても寂しいもの - Man We Was Lonely
    リンダとの初のデュエット曲。
  8. ウー・ユー - Oo You
    当初はモーガン・スタジオで収録したインストゥルメンタル曲だったが、後に歌が付けられた。
  9. ママ・ミス・アメリカ - Momma Miss America
    別々の曲をメドレー仕立てで1曲にするという、その後のポールが得意とすることになる手法で作られたインストゥルメンタル曲。
  10. テディ・ボーイ - Teddy Boy
    ビートルズがインドに滞在していた時に書き始め、帰国後に完成させた。ゲット・バック・セッションで演奏されたビートルズ・バージョンは、『ザ・ビートルズ・アンソロジー3』に収録されている。
  11. シンガロング・ジャンク - Singalong Junk
    「ジャンク」のインストゥルメンタル版。
  12. 恋することのもどかしさ - Maybe I'm Amazed
    ライヴでの定番曲となり、『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』『ポール・マッカートニー・ライヴ!! 1989-1990』『バック・イン・ザ・U.S. - ライヴ2002』に収録されている。『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』発売当時の邦題は「ハートのささやき」。同じ曲に二つの邦題がつくのは極めてまれである。
  13. クリーン・アクロア - Kreen-Akrore
    ブラジルインディオに捧げたインストゥルメンタル曲。

楽器担当

備考

ビートルズが公式発表したインストゥルメンタル曲は「フライング」1曲だけだが、本作には5曲もインストがあり、実験色が強い作品となっている。

「ザット・ウッド・ビー・サムシング」「エヴリナイト」「ジャンク」の3曲は、後に『MTVアンプラグド』に出演した時に再演され、『公式海賊盤』(1991年)に収録された。この時、「ジャンク」はインストゥルメンタルで演奏された[6]。また、「エヴリナイト」は2002年のツアーでも披露されている。

映画「ザ・エージェント」(主演:トム・クルーズ)では「ママ・ミス・アメリカ」と「シンガロング・ジャンク」がBGMとして使用されている。

脚注

  1. ^ この時、一部で噂となっていた「ポール死亡説」が流布してファンは騒然、ピーター・ブラウンらアップルのスタッフは火消しに躍起する事態となった。
  2. ^ 『ポール・マッカートニー ビートルズ神話の光と影』、ロス・ベンソン著、近代映画社1993年 ISBN 4-7648-1708-X
  3. ^ この時、ビートルズが残した『ゲットバック・セッション』の録音をアルバムにまとめるため、フィル・スペクターが同じEMIスタジオでミックスダウンを行っていることをポール自身は知らなかった。
  4. ^ 発売元はヒア・ミュージック(日本ではユニバーサル・ミュージック
  5. ^ Suicideの完全版はリマスター版に収録。
  6. ^ 「シンガロング・ジャンク」ではなくクレジットは「ジャンク」
先代
Billboard 200 ナンバーワンアルバム
1970年5月23日 - 6月6日 (3週間)
次代

外部リンク