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===その後のウトラキスト派の運命===
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その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、[[1458年]]にはラースロー5世こと[[ハプスブルク家]]の[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラフ]]の死後、プロテスタント貴族[[イジー・ス・ポジェブラト]]をボヘミア王に擁立した。[[1459年]]の{{仮リンク|エーガー条約|de|Vertrag von Eger|en|Treaty of Eger}}によって、[[ボヘミア王国]]と[[ザクセン公国]]の勢力範囲が確定された。
その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、[[1458年]]にはラースロー5世こと[[ハプスブルク家]]の[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラフ]]の死後、プロテスタント貴族[[イジー (ボヘミア王)]]をボヘミア王に擁立した。[[1459年]]の{{仮リンク|エーガー条約|de|Vertrag von Eger|en|Treaty of Eger}}によって、[[ボヘミア王国]]と[[ザクセン公国]]の勢力範囲が確定された。


ハプスブルク家を中心とする勢力は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世|フニャディ・マーチャーシュ]]を[[1469年]]にボヘミア王に擁立して互いに対立した。
ハプスブルク家を中心とする勢力は[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世|フニャディ・マーチャーシュ]]を[[1469年]]にボヘミア王に擁立して互いに対立した。

2021年5月19日 (水) 21:52時点における版

フス戦争
1419〜1434
場所中央ヨーロッパ
結果 最終的にはカトリックの勝利
衝突した勢力
フス派プロテスタントの先駆)
ターボル派
教皇領(カトリック)
神聖ローマ帝国
ハンガリー王国
ウトラキスト派チェコ語版ドイツ語版英語版

フス戦争(フスせんそう、チェコ語: Husitské válkyポーランド語: Wojny husyckieドイツ語: Hussitenkriegeイタリア語: Crociata Hussita)は、15世紀に中央ヨーロッパで起こった戦争。ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派プロテスタントの先駆)の信者(ボヘミアポーランドを中心とする)と、それを異端としたカトリック神聖ローマ帝国の間で戦われた。フス派戦争とも表記される[1]

前史

フス戦争以前のフス派の戦い

グルンヴァルトの戦いポーランド王国とともに戦うヤン・ジシュカ
中央やや右下、胴鎧をつけ右肩に振りかぶった刀を敵ドイツ騎士団兵士にむけて今まさに振り下ろそうとしている
ヤン・マテイコ画『グルンヴァルトの戦い』
プロテスタント宗教改革
迫害の歴史
神権政治
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

1410年に行われたポーランド王国リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団との戦い(グルンヴァルトの戦い)ではボヘミアから来たフス派義勇兵がヴワディスワフ2世率いるポーランド軍の援護についた。このときのチェコ人義勇兵にはヤン・ジシュカもいる。

戦闘の経過

戦争の始まり

1419年第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス戦争が始まった。ハンドキャノンポーランド語版ドイツ語版英語版や火砲の伝来により、フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いといわれる。1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した、・手銃・砲を装甲馬車Tabor)とともに活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、国民軍の原型のような軍隊を作り上げた。

フス派に対する十字軍

ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度も「フス派に対する十字軍」(イタリア語: crociata contro gli Hussiti)を組織したが、ことごとく打ち破られた(ウースチー・ナド・ラベムの戦いタチョフの戦いチェコ語版英語版)。この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌いだすとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。1427年のタチョフの戦いから後、4年間は十字軍が組織されなかった。

1431年に行われた対フス派十字軍では(Domažlicの戦いチェコ語版ドイツ語版英語版)、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。

ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争

バルト海岸までやってきたボヘミア人たち(cs、1433年)

1431年-1435年に行われた「ポーランド王国ドイツ騎士団の戦争」(Polish–Teutonic War (1431–35))では、フス派を中心にボヘミアから7000人の義勇兵がやってきてポーランド王国に味方した。1433年の北部ポーランドでの戦いにおける勝利に際しては、ボヘミア兵とポーランド兵はともに喜び、ヴィスワ川河口近くで盛大な祝宴を催し、一同大いに気勢を挙げたという。19世紀プロイセン王国の歴史家ハインリヒ・フォン・トライチュケはこのときのことを「(フス派は)神の軍についての野蛮なチェコ人の歌を歌いながら(バルト)海に挨拶し、海水を瓶に入れ、バルト海が再びスラヴのものになった記念とした」と描写し、ドイツ民族に対抗した西スラヴ民族(ポーランド人チェコ人)のこの時代の連帯を認めたのである(cs:Husitské tažení k Baltu)。

戦争の収束

ヤン・ジシュカが病没して10年後の1434年、フス派は連戦連勝だったが、ボヘミアの人口は減り農村は荒廃し戦費の調達で農民は疲弊した。このためフス派の間では内部抗争が起こり、リパニの戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派(急進派)がウトラキストチェコ語版ドイツ語版英語版という穏健派によって壊滅させられ、皆殺しになった。さらに1439年、ポーランドでは既に王が代替わりしてヴワディスワフ3世となっていたが、フス派の略奪行為に手を焼いていたポーランド王国政府はついに本格的な一斉取り締まりに乗り出し、グロトニキ(Grotniki)の戦い英語版でポーランドにおけるフス派を壊滅させた。これによってフス戦争はすべて終わった。

影響

その後のウトラキスト派の運命

その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、1458年にはラースロー5世ことハプスブルク家ラディスラフの死後、プロテスタント貴族イジー (ボヘミア王)をボヘミア王に擁立した。1459年エーガー条約ドイツ語版英語版によって、ボヘミア王国ザクセン公国の勢力範囲が確定された。

ハプスブルク家を中心とする勢力はハンガリーフニャディ・マーチャーシュ1469年にボヘミア王に擁立して互いに対立した。

1471年にイジーが死ぬと、プロテスタント貴族によってヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世の息子ヴワディスワフが迎えられ、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとしてボヘミア王に即位した。ボヘミア王を主張し続けたマーチャーシュが1490年に死ぬと、ポーランドから来たボヘミア王ヴラジスラフはハンガリー王ウラースロー2世としても即位し、ボヘミアとハンガリーの王となった。以後ボヘミア王国ではプロテスタントが認知され、しばらくの間安定した。ラヨシュ2世の治世に、モハーチの戦い1526年)でオスマン帝国に大敗し、第一次ウィーン包囲サポヤイ・ヤーノシュがオスマン帝国についたことにより、オスマン帝国領ハンガリー1541年 - 1699年)が成立し、バルカン半島の領有が確定。

三十年戦争白山の戦い1620年)でスラヴ人かつプロテスタントであったチェコ貴族が全滅させられ、ドイツ人かつカトリックであった貴族が支配者としてチェコに入ってきた。以後チェコは完全にドイツ人の支配下に入る。一部のプロテスタント貴族やその追従者は、必死で逃げ延び宗教的に寛容で当時は特にプロテスタント運動が盛んだったポーランド王国に亡命した。ニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ共同生活の兄弟団などもフス派を起源とする。

18世紀後半に入ってポーランド王国がポーランド分割によって滅亡すると、多くが新天地を求めてアメリカ合衆国など「新世界」へ移住していった。

フス戦争の戦い

フス派の戦車(Tabor
フス派の戦車、当時の再現
フス派兵士の盾(1429年)
ヤン・ジシュカ

関連作品

文献

  • "The Hussite Wars (1419–36)", Stephen Turnbull, Osprey Publishing (ISBN 1841766658)

関連項目

脚注

  1. ^ 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. 2018年1月19日閲覧。

外部リンク