「フィリップ (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
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その後、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]が推すオットー4世と[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の支持を受けたフィリップの抗争は続いたが、[[1204年]]頃から形勢はフィリップに有利となり、[[1207年]]にはほぼフィリップが勝利を収めつつあった。この形勢を観てインノケンティウスはオットーの支援から手を引き、フィリップの破門を解いてロマ王として承認した上で、[[ローマ]]で皇帝として戴冠する約束をした<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、63頁</ref>。しかし、1208年にフィリップは娘の結婚問題から[[ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン[[宮中伯]][[オットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハ|オットー8世]]{{enlink|Otto VIII. von Wittelsbach||de|a=on}}によって暗殺された。このためローマ皇帝にはオットー4世が就くことになった。 |
その後、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]が推すオットー4世と[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の支持を受けたフィリップの抗争は続いたが、[[1204年]]頃から形勢はフィリップに有利となり、[[1207年]]にはほぼフィリップが勝利を収めつつあった。この形勢を観てインノケンティウスはオットーの支援から手を引き、フィリップの破門を解いてロマ王として承認した上で、[[ローマ]]で皇帝として戴冠する約束をした<ref>カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、63頁</ref>。しかし、1208年にフィリップは娘の結婚問題から[[ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン[[宮中伯]][[オットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハ|オットー8世]]{{enlink|Otto VIII. von Wittelsbach||de|a=on}}によって暗殺された。このためローマ皇帝にはオットー4世が就くことになった。 |
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なお、[[1201年]]頃に義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス([[アレクシオス4世アンゲロス]])がフィリップの元に滞在していたが、同時期に[[第4回十字軍]]の指導者だった[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]がフィリップの元を訪れており、この時に[[コンスタンティノープル]]攻撃が計画されたと推定されている。また、内乱期に[[ボヘミア]]公[[オタカル1世]]のボヘミア王位を承認、以後ボヘミアは帝国の中でも特別な国家となっていった。 |
なお、[[1201年]]頃に義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス([[アレクシオス4世アンゲロス]])がフィリップの元に滞在していたが、同時期に[[第4回十字軍]]の指導者だった[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]がフィリップの元を訪れており、この時に[[コンスタンティノープル]]攻撃が計画されたと推定されている。また、内乱期に[[ボヘミア]]公[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]のボヘミア王位を承認、以後ボヘミアは帝国の中でも特別な国家となっていった。 |
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== 子女 == |
== 子女 == |
2021年5月19日 (水) 21:22時点における版
フィリップ Philipp | |
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ローマ王 | |
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在位 | 1198年3月8日 - 1208年6月21日 |
出生 |
1177年 パヴィア |
死去 |
1208年6月21日 神聖ローマ帝国、バンベルク |
埋葬 | 神聖ローマ帝国、シュパイアー大聖堂 |
配偶者 | イレーネー・アンゲリナ |
子女 |
ベアトリクス クニグンデ マリア エリーザベト |
家名 | ホーエンシュタウフェン家 |
王朝 | ホーエンシュタウフェン朝 |
父親 | フリードリヒ1世 |
母親 | ベアトリクス |
フィリップ・フォン・シュヴァーベン(Philipp von Schwaben, 1177年 - 1208年6月21日)はホーエンシュタウフェン朝第4代ローマ王(在位:1198年 - 1208年)。皇帝フリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの末子。ヴェルフ家の対立王オットー4世を下して事実上の皇帝となったが戴冠する前に暗殺されてしまった。
生涯
当初は聖職にあり、ヴュルツブルク司教となっていたが、1191年頃還俗して、兄のハインリヒ6世のシチリア遠征に従った。1196年にシュヴァーベン公になり、1197年に東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロスの娘でシチリア王ルッジェーロ3世妃だったイレーネー・アンゲリナと結婚した。
1197年に兄が死去すると、幼少の甥フリードリヒ2世の後見者となったが、ヴェルフ家のオットー4世が帝位を主張し、ローマ教皇もこれを支持したため、幼いフリードリヒ2世では対抗できないと見たホーエンシュタウフェン家派の諸侯は、1198年にフィリップをローマ王に推戴した。
その後、ローマ教皇インノケンティウス3世が推すオットー4世とフランス王フィリップ2世の支持を受けたフィリップの抗争は続いたが、1204年頃から形勢はフィリップに有利となり、1207年にはほぼフィリップが勝利を収めつつあった。この形勢を観てインノケンティウスはオットーの支援から手を引き、フィリップの破門を解いてロマ王として承認した上で、ローマで皇帝として戴冠する約束をした[1]。しかし、1208年にフィリップは娘の結婚問題からヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯オットー8世 (de) によって暗殺された。このためローマ皇帝にはオットー4世が就くことになった。
なお、1201年頃に義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス(アレクシオス4世アンゲロス)がフィリップの元に滞在していたが、同時期に第4回十字軍の指導者だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世がフィリップの元を訪れており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。また、内乱期にボヘミア公オタカル1世のボヘミア王位を承認、以後ボヘミアは帝国の中でも特別な国家となっていった。
子女
イレーネーとの間には4人の子が生まれた。
- ベアトリクス(1198年 - 1212年) - ローマ皇帝オットー4世の皇后
- クニグンデ(1200年 - 1248年) - ボヘミア王ヴァーツラフ1世妃
- マリア(1201年 - 1235年) - ブラバント公アンリ2世妃
- エリーザベト(1203年 - 1235年) - カスティーリャ王フェルナンド3世妃
次女クニグンデと四女エリーザベトが生んだ2人の孫、オタカル2世とアルフォンソ10世がホーエンシュタウフェン朝断絶後の大空位時代にローマ皇帝になるべく立候補したが、いずれも即位出来ずに終わった。
脚注
引用元
- ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、63頁
参考文献
- エルンスト・カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』(小林公訳, 中央公論新社, 2011年9月)
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