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|1955年4月9日 |
|1955年4月9日 |
2021年4月27日 (火) 14:47時点における版
三笠宮家 | |
---|---|
家祖 |
三笠宮崇仁親王 (大正天皇第4皇男子) |
種別 | 皇族(宮家) |
出身地 | 東京都 |
著名な人物 |
三笠宮崇仁親王 寬仁親王(第1男子) 甯子内親王(第1女子) 宜仁親王(第2男子) 容子内親王(第2女子) 憲仁親王 |
支流、分家 |
桂宮 高円宮 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
皇室 |
---|
|
ここでは崇仁親王が設立した三笠宮家(直宮家)についても解説する。現当主は崇仁親王妃百合子。
概要
三笠宮の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。
1980年(昭和55年)11月7日、長男の寬仁親王が結婚を機に寬仁親王家として三笠宮本家から独立。
2012年(平成24年)6月6日、寬仁親王が後継者たる男子をもうけないまま薨去。家族である寬仁親王家は三笠宮本家と合流。
2016年(平成28年)10月27日に当主崇仁親王が薨去。それに伴い11月16日、皇室経済会議により崇仁親王妃百合子を2代目当主と認定。
現在の三笠宮家は男子(親王・王)が不在であり、現行皇室典範上においては、崇仁親王妃百合子、および寬仁親王妃信子とその子である彬子女王・瑶子女王の薨去、または皇籍離脱をもって宮家が断絶することになる。これは傍系にあたる高円宮家においても同様である。
構成
名 | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 続柄 | 概要 |
---|---|---|---|---|---|
崇仁親王妃 |
女性 | 1923年6月4日 | 101歳 | 三笠宮崇仁親王妃 | |
寛仁親王妃 |
女性 | 1955年4月9日 | 69歳 | 寬仁親王妃 | 2013年に合流 |
女性 | 1981年12月20日 | 42歳 | 寬仁親王第一女子 | 2013年に合流 | |
女性 | 1983年10月25日 | 41歳 | 寬仁親王第二女子 | 2013年に合流 |
系図
大正天皇 | 貞明皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三笠宮崇仁親王 | 百合子妃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甯子内親王(近衞甯子) | 寬仁親王 | 信子妃 | 桂宮宜仁親王 | 容子内親王(千容子) | 高円宮憲仁親王 | 久子妃 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彬子女王 | 瑶子女王 | 承子女王 | 典子女王(千家典子) | 絢子女王(守谷絢子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
離脱・薨去
名 | 性別 | 生年月日 | 続柄 | 概要 |
---|---|---|---|---|
三笠宮 |
男性 | 1915年12月2日 | 大正天皇第四皇男子 | 2016年薨去 |
女性 | 1944年4月26日 | 崇仁親王第一女子 | 1966年婚姻 | |
男性 | 1946年1月5日 | 崇仁親王第一男子 | 2012年薨去 | |
男性 | 1948年2月11日 | 崇仁親王第二男子 | 1988年桂宮家創設、2014年薨去 | |
女性 | 1951年10月23日 | 崇仁親王第二女子 | 1983年婚姻 | |
男性 | 1954年12月29日 | 崇仁親王第三男子 | 1984年高円宮家創設、2002年薨去 |
当主
初代当主・三笠宮崇仁親王は、1915年(大正4年)12月2日に大正天皇と貞明皇后の四男として誕生。御称号は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、子爵高木正得の次女・百合子と結婚し、以下の子女をもうけた。
- 甯子内親王:日本赤十字社社長・近衛忠煇夫人。お印は楠。
- 寬仁親王:三笠若宮(生誕時から2012年まで)。お印は柏。
- 宜仁親王:桂宮。お印は桂。
- 容子内親王:茶道裏千家第16代家元・千宗室夫人。お印は楓。
- 憲仁親王:高円宮。お印は柊。
5人の子女は、名前が「宀(うかんむり)」、お印が「木(きへん)」と、それぞれ同じ漢字の部首で統一されている。
2016年(平成28年)、崇仁親王薨去に伴い、崇仁親王妃百合子が三笠宮家の当主となった。
寬仁親王家
崇仁親王第一男子・寬仁親王は生前、将来的に「三笠宮」の宮号を継承すると考えられていた存在であったが、現行制度では宮号は宮家の当主に授けられるものとされているので、当主ではなかった寬仁親王を「三笠宮寬仁親王」と呼称することは、厳密に考えれば誤用であるといえる。なお、かつて宮家の後嗣は「○○若宮」と呼ばれていたが、宮家自体の数の減少や、宮家に男子が生まれることがほとんどなくなったため、現在は一般的な呼称ではない。
なお、寬仁親王は宮号は賜っていなかったものの、寬仁親王家として三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、同家の当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、同家の当主は不在となった。宮内庁は2013年6月10日、寬仁親王の薨去時にさかのぼって寛仁親王家が廃されたものとして扱い、同家の成員については職員や皇族費はそのままで三笠宮家に合流することを発表した[1]。同年7月31日には、当主のいなくなった寬仁親王邸を「三笠宮東邸」に改めることになった。
秩父宮家や高松宮家(共に絶家となるまで)、また高円宮家では親王の薨去後に親王妃が当主となっており、それが事実上慣例化していた。しかし寬仁親王家では後継の当主が定まらず、信子妃も、また喪主を務めた彬子女王も当主にはならなかった。
名 | 性別 | 生年月日 | 続柄 | 概要 |
---|---|---|---|---|
男性 | 1946年1月5日 | 崇仁親王第一男子 | 2012年薨去 | |
寛仁親王妃 |
女性 | 1955年4月9日 | 寬仁親王妃 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |
女性 | 1981年12月20日 | 寬仁親王第一女子 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 | |
女性 | 1983年10月25日 | 寬仁親王第二女子 | 2013年に寬仁親王家から三笠宮家に合流 |