「目録学」の版間の差分
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[[File:陳振孫『直斎書録解題』.jpg|thumb|500px|陳振孫『直斎書録解題』巻十三([https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004208 京都大学附属図書館所蔵])<br/>箇条書きで本のタイトルが記され、その後ろに[[解題]]が附されている。]] |
[[File:陳振孫『直斎書録解題』.jpg|thumb|500px|陳振孫『[[直斎書録解題]]』巻十三([https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004208 京都大学附属図書館所蔵])<br/>[[箇条書き]]で[[本]]のタイトルが記され、その後ろに[[解題]]が附されている。]] |
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'''目録学'''(もくろくがく)は、前近代[[中国]]の[[図書目録]]を扱う学問。中国では伝統的に図書目録の制作が盛んだったため生まれた。[[校訂|校勘]]学や[[版本]]学と深い関係を有し、西洋や日本で |
{{目録学}}'''目録学'''(もくろくがく)は、前近代[[中国]]の[[図書目録]]を扱う学問。中国では伝統的に[[図書目録]]の制作が盛んだったため生まれた。[[校訂|校勘]]学や[[版本]]学と深い関係を有し、西洋や日本でいう[[書誌学]]・[[図書館学]]・[[図書館情報学]]に近い。 |
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== 名称 == |
== 名称 == |
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「'''[[目録]]'''」という語は、もとは書目の目次を示す言葉であり{{Efn|「目録」という語の初出は、[[前漢]]の[[劉向]]『七略』の「尚書有青絲偏目録」である。また[[後漢]]の[[鄭玄]]に『三礼目録』という著作がある{{Sfn|勝村|1983|pp=1-2}}。}}、[[六朝]]時代以降に現代でいう「図書目録」を指すようになった{{Sfn|勝村|1983|pp=1-2}}。中国では、この図書目録に関する学問を「'''目録学'''」と呼ぶ。目録自体は世界に普遍的に存在するものであるが、これが学問として独自の発展を遂げたのは[[中国文明|中国文化]]だけである{{Sfn|古勝|2019|pp=7-8}}。よって、「目録学」の英訳は一般に「'''[[:en:Bibliography|bibliography]]'''」が当てられるものの{{Sfn|勝村|1983|pp=1-2}}、目録学と厳密な意味で概念を同じくする訳語は存在しない{{Sfn|清水|1991|pp=3-4}}。 |
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西洋の「biography」は、中国では目録学または文献学と訳され、日本では書誌学と訳される。「[[目録]]」という語は、[[前漢]]末の[[劉歆]]が著した最初の目録である『[[七略]]』に見え、もとは書目の目次を示す言葉であったが、[[六朝]]時代以降、書籍目録を指す言葉として用いられた{{Sfn|勝村|1983|pp=1-2}}。 |
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目録学は「'''校讐学'''」と呼ばれることもある。「校讐」は、書物と書物を突き合わせて文字の比較[[校訂]]をすることを指す言葉で、現代でいう「校正」のこと{{Sfn|古勝|2019|p=19}}{{Efn|「校讐」という語の初出も劉向に遡り、彼の書いた『[[管子]]』の序録に「校讐」の語が、また『劉向別伝』に「讐校」という語が見える(『[[太平御覧]]』所引){{Sfn|古勝|2019|pp=19-20}}。}}。両者が指し示す対象は同じだが、「目録学」という呼称は書物の分類とその目録法の側面を重視し、「校讐学」という呼称は書物整理の側面を重視する点に相違がある{{Sfn|古勝|2019|p=19}}。 |
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書物の目録(書目)が古くから存在する文化自体は普遍的なものであるが、これが学問として独自の発展を遂げたのは中国文化だけであり{{Sfn|古勝|2019|pp=7-8}}、「目録学」と概念を全く同じくする英語の訳語は存在しない{{Sfn|清水|1991|pp=3-4}}。 |
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目録学は「校讎学」と呼ばれることもある。「校讎」とは、書物と書物を突き合わせて文字の比較校訂をすることを指し、これも[[劉向]]・劉歆に遡る言葉である{{Sfn|古勝|2019|pp=19-21}}。 |
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== 目録 == |
== 目録 == |
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中国最初に作られた図書目録は、[[前漢]]の[[劉向]]『別録』と[[劉歆]]『[[七略]]』であり、これは彼らが当時の皇室の蔵書を体系的に整理し、その校書事業の成果をまとめたものであった{{Sfn|古勝|2017|pp=8-9}}。これ以来、中国の各王朝において皇室の蔵書目録を作成する制度が引き継がれたほか、[[宋]]代に入ると民間でも小規模な蔵書目録が作られるようになった{{Sfn|古勝|2017|pp=8-9}}。 |
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目録とは、「ある書物の篇目と主旨を録すること」を本義とする。この書物の記録は、中国最初の目録である劉歆『七略』以来、明確な分類体系の下に組織されて行われたが、その分類法は、その書物の内容が伝統的学問体系の中でどこを占めるかに従うものであった{{sfn|井上|2006|p=318}}。 |
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書物は、「四部」(古くは六部)に分 |
目録に記録されているそれぞれの書物は、明確な[[分類体系]]の下に位置づけられて整理されている{{Sfn|井上|2006|p=318}}。その分類方法は、書物の内容によって大きく「四部」(古くは六部)に分かれ、その内部で「類」に分かれ、場合によってはさらに細かく[[分類]]され、最後にその中で書物を撰者の年代順に配列される、というものであった{{sfn|井上|2006|p=319}}。つまり、目録の中の書物が置かれている場所は、「その書物の内容が伝統的学問体系の中でどこを占めるか」を反映するものである{{Sfn|井上|2006|p=318}}。こうして作られた目録は、過去の学術全体を体系的・系統的に反映するものであり{{sfn|井上|2006|p=319}}、目録の読解を通してその時代の[[精神]]や学術を読み取ることができる{{Sfn|古勝|2017|pp=9-10}}。 |
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===目録の体裁=== |
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目録学は、狭義では、書籍を分類整理し、解題書録を作成するための学問であるが、そのためには、書物の内容の把握と、その分類の意味の把握をしなければならない{{Sfn|清水|1991|p=4}}。手順としては、まずある一つの書に対して、[[写本]]・[[版本]]を含めた多くのテキストを収集し、校勘を行い、定本を作って内容を把握し、これを解題に記す。そして学問体系のどこに位置づけられるか判定し、記録する{{sfn|井上|2006|pp=319-320}}。この際に、書物の成立の考証研究、版本研究、書物の校勘、学術史的な知識が必要とされ、[[校訂|校勘]]学や版本学と深い関係を持つ。 |
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[[中華民国]]の学者である[[余嘉錫]]は、目録の体裁には以下の三種類があるとする{{Sfn|清水|1991|pp=13-14}}。 |
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# 各分類の説明と、各書物の[[解題]]が両方あるもの。 |
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# 各分類の説明だけがあって、各書物の解題はないもの。 |
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# 各分類の説明と書物の解題がともになく、ただ書名だけが挙がっているもの。 |
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歴代の目録では、(1)に『[[郡斎読書志]]』『[[直斎書録解題]]』『[[四庫全書総目提要]]』、(2)に『[[漢書]]』[[芸文志]]、『[[隋書]]』[[経籍志]]、(3)に『[[旧唐書]]』経籍志以下の正史の目録がある{{sfn|興膳|川合|1995|p=20}}。 |
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===目録 |
===目録の具体例=== |
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目録の具体例として、『[[隋書]]』[[経籍志]]の「経部・易類」の内容を説明する。この目録は、上の三類のうち「分類の説明だけがあって、各書物の解題はないもの」の体裁を取っており、まず冒頭で[[隋|隋代]]に至るまでの書籍の歴史を概観したのち{{Efn|この冒頭部分は『隋書』経籍志の「総序」に当たる部分であり、{{Harvtxt|興膳|川合|1995|p=3-32}}に翻訳がある。}}、経部の易類、つまり[[経書]]である『[[易経|易]]』に関連する書籍が、以下のように巻数・著者名とともに箇条書きで並べられている。 |
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[[清|清代]]の考証学者の[[王鳴盛]]は、目録学の重要性を強調し、以下のように述べている{{Sfn|勝村|1983|p=2}}。 |
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{{Quote|目録の学は、学中第一の緊要の事なり。|王鳴盛|『十七史商榷』巻一|}} |
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{{Quotation|'''[[三易|歸藏]] 十三卷''' 晉太尉參軍薛貞注。<br />'''[[周易]] 二卷''' 魏文侯師[[子夏|卜子夏]]傳、殘缺。梁六卷。<br />'''周易 十卷''' 漢魏郡太守[[京房]]章句。<br />'''周易 八卷''' 漢曲臺長[[孟喜]]章句、殘缺。梁十卷。又有漢單父長[[費直]]注周易四卷、亡。<br />'''周易 九卷''' 後漢大司農[[鄭玄]]注。梁又有漢南郡太守[[馬融]]注周易一卷、亡。<br />'''周易 五卷''' 漢荊州牧[[劉表]]章句。梁有漢荊州五業從事宋忠注周易十卷、亡。(以下略)|『[[隋書]]』[[経籍志]]{{sfn|興膳|川合|1995|pp=35-38}}}} |
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同じく清代の学者の[[章学誠]]は、目録学の意義を以下の二言で要約している。 |
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{{Quote|学術を弁章し、源流を考鏡す。|章学誠|『校讎通義』序|}} |
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『隋書』経籍志の経部易類には、合計69部、551卷(既に失われた本を合わせると94部、829卷)の書籍が記録されており{{sfn|興膳|川合|1995|p=53}}、その末尾には以下のように「易類」という分類全体に対する解題が加えられている。 |
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ここでいう「学術」とは、学(学問)と術(技術)を指す。目録学は、学術的伝承の歴史を踏まえ、その源流を考察しながら、書物を整理・分類するものである{{Sfn|古勝|2019|pp=32-34}}。 |
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{{Quotation|……[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]・[[周]]の三代には、実に三種の易があった。夏の易は『連山』、殷の易は『歸藏』といい、周の文王が卦辞を作って、それが『周易』と呼ばれる。……[[秦]]の[[焚書]]に際しては、『周易』のみは占いの書物ということで焼却を免れ、そのうちの「説卦」三篇だけが失われたが、それは後になって河内の一婦人によって発見された。……[[後漢]]の[[陳元]]・[[鄭衆]]は、みな[[費直]]の易学を伝え、[[馬融]]が更にその注釈を作り、[[鄭玄]]に伝授した。鄭玄は『易注』を、[[荀爽]]は『易伝』を著した。[[魏 (三国)|魏]]の[[王粛]]・[[王弼 (三国)|王弼]]も費直の易に注を施した。……[[梁 (南朝)|梁]]・[[陳 (南朝)|陳]]には、鄭玄と王弼の二家の注釈が国学に立てられた。[[北斉]]では鄭玄の解釈だけが伝えられた。[[隋]]に入ると、王弼の注がもてはやされ、鄭玄の学問はしだいに下火になって、今ではほとんど絶えてしまった。……|『[[隋書]]』[[経籍志]]{{sfn|興膳|川合|1995|pp=53-54}}}} |
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===目録の体裁=== |
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[[中華民国]]の学者である[[余嘉錫]]は、目録の体裁には以下の三種類があるとする{{Sfn|清水|1991|pp=13-14}}。 |
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このように、『隋書』経籍志は、劉向・劉歆の後を受けて作られた『[[漢書]]』[[芸文志]]以来の「書籍の目録」であると同時に、漢代以来の「学術の歴史」を概括するものでもある{{sfn|興膳|川合|1995|p=36}}。これは『隋書』経籍志に限らず、中国の目録は「書物を登録する帳簿」としての側面と、「学術の歴史を考察する学術史」としての側面を併せ持ったものである{{Sfn|古勝|2017|p=11}}。 |
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# 分類の説明と、各書物に解題のあるもの。 |
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# 分類の説明だけがあって、各書物の解題はないもの。 |
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===現代の漢籍目録=== |
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# 分類の説明と解題がともになく、ただ書名だけが挙がっているもの。 |
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[[File:漢籍カード目録の例.png|thumb|漢籍カード目録の例{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=14}}]] |
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歴代の目録が、上の第三類のカタログ形式のものだけではなく、第一、第二の形態を持つのは、劉向・劉歆以来の伝統を引いている。劉向『別録』は書物の一つ一つの解題で、その書物の編目、校勘の経過、著者の伝記、書名の意味や著述の由来が記されている。一方、劉歆『七略』は図書の分類に重点が置かれており、その各分類の説明として「輯略」が書かれた{{Sfn|清水|1991|pp=14-15}}。 |
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ここでは、[[京都大学人文科学研究所]]図書館の場合を例に挙げて、現在一般的に用いられている漢籍目録の記述内容を説明する。京都大学人文科学研究所図書館では、[[漢籍]]を受け入れた際、まずその一冊の本に対するカード目録(各書籍一つ一つに対する目録)を作成する{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=1}}。 |
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カード目録には、書名・撰者・巻数・鈔刻(出版事項)といった情報が記載される{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=8}}。このうち「鈔刻(出版事項)」には、いつ(出版年)、どこの誰が(出版者)、どこで(出版地)、どのような方法で([[木版印刷|木版]]・[[活字]]など)出版したのかが記される{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=80}}。こうした記述によって目の前の「書」がどのような「本」なのかを明らかにするのが、カード目録の作成目的である{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=8}}{{Efn|「書」はbookの意味、「[[本]]」はversion、edition、textの意味{{Sfn|勝村|1983|p=26}}。「書」の情報が書名・撰者・巻数で、「本」の情報が出版事項(刊記・伝来・冊数)である{{Sfn|勝村|1983|pp=26-27}}。但し、巻数・冊数の相違は、書の相違による場合と本の相違による場合とがある{{Sfn|勝村|1983|pp=26-27}}。}}。 |
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こうして一つの書籍に対するカード目録が完成すると、この書が全体の分類の中でどこに位置づけられるか、ということを定める{{Sfn|勝村|1983|p=29}}。京都大学人文科学研究所図書館では、伝統的な[[四部分類]]に、[[叢書 (漢籍)|叢書部]]を加えた五部の分類によって各書物を分類している{{Sfn|京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|2005|p=1}}{{Efn|[[東京大学東洋文化研究所]]の[http://hong.ioc.u-tokyo.ac.jp/usage_pop2.html 四部分類一覧表]も参照。}}。 |
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{{See also|漢籍#漢籍の分類}} |
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==目録学== |
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以上のような「目録」に関する学問を「目録学」と呼称する。 |
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目録学は、狭義では「書籍を分類整理し、解題書録を作成するための学問」である{{Sfn|清水|1991|p=4}}。ただそのためには、書物の内容の把握と、その分類の意味の把握をしなければならない{{Sfn|清水|1991|p=4}}。目録が作られる手順としては、まずある一つの書に対して、[[写本]]・[[版本]]を含めた多くのテキストを収集し、校勘を行い定本を作り('''校讐''')、内容を把握し、これを解題に記す。そしてその書籍が学問体系の中のどこに位置づけられるか判定し、その分類の中に記録する、という流れである{{sfn|井上|2006|pp=319-320}}。 |
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劉向以来、目録を実際に編纂する実務的な面は継続されていたが、のちに目録を読み解きその法則を明らかにする理論的な面がそこに加わった{{Sfn|古勝|2017|pp=8-9}}。目録を対象にした理論的研究が始まるのは[[南宋]]の[[鄭樵]]『[[通志]]』以降であり{{Sfn|古勝|2017|pp=14}}、[[清]]の[[章学誠]]『[[校讐通義]]』がこれを大きく発展させ、中国学術史を論じる学としての「目録学」の意義が明らかになった{{Sfn|古勝|2017|p=15}}。また、[[中華民国|民国時代]]に入ると、彼らの学問を引き継いで[[余嘉錫]]や[[姚名達]]といった卓見した目録学者が現れ、目録学はさらに発展した{{Sfn|古勝|2019|pp=223-224}}。 |
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===目録学理論の形成=== |
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[[File:『通志』芸文略.jpg|thumb|400px|[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2600309/3 国会図書館デジタルコレクション]<br />『[[通志]]』芸文略の「史類」([[歴史書]]を収める分類)のうち、『[[史記]]』『[[漢書]]』関連の書籍を列挙する部分。]] |
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[[南宋]]の[[鄭樵]]は、『'''[[通志]]'''』に「'''芸文略'''」という書目を作った。これは宮廷図書館や彼の個人蔵書を目録にしたものではなく、過去の目録や彼の知識に基づいて、中国の学術史を見通すために必要であると彼が考えた書籍を配列した目録である{{Sfn|古勝|2019|p=214}}。全体は十二類に分けられているが、これは当時主流であった[[四部分類]]を基礎としつつも、それでは不十分と考えて細かく分類したものである{{Efn|経類・礼類・楽類・小学類・史類・諸子類・星数類・五行類・芸術類・医方類・類書類・文類の十二類{{Sfn|古勝|2019|pp=214-216}}。}}。十二類の下位には「家」、その下位に「種」が設けられ、さらに細かく周到な分類が可能になっている{{Sfn|古勝|2019|pp=214-216}}。鄭樵は、「類例が分けてあれば、学術はおのずと明らかになる」と主張し、学術の枠組みを示せば書物の内容も自然に明らかになると考えた{{Sfn|古勝|2019|pp=214-216}}。こうした彼の主張は「校讐略」に整理されており、その理論を実践して作った目録が「芸文略」である{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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鄭樵に影響を受け、目録学を学問として発展させたのが[[清]]の'''[[章学誠]]'''『'''[[校讐通義]]'''』である。章学誠は、『漢書』芸文志の研究を通して、「互著」と「別裁」の法を唱えた{{Sfn|古勝|2019|pp=222-223}}。「互著」とは、ある一つの書籍が複数の分類にまたがる内容を持つ場合、その各部に重複して書名を出すべきであるとすること{{Sfn|古勝|2019|pp=222-223}}{{Sfn|内藤|1926|}}。章学誠は、同じ本を一箇所にしか載せられないという考え方は、目録を単に書籍の帳簿であるとするから出てくるのだと述べている{{Sfn|内藤|1926|}}。「別裁」とは、既に存在するある本の中から一部分を取り出し、別の単行本として目録に掲げることであり、これも著述の源流を弁じるために必要な作業であると章学誠は考えた{{Sfn|古勝|2019|pp=223-224}}。 |
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===目録学の意義=== |
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中国古典の研究において目録学が重要であるということは、[[清|清代]]の[[乾隆]]年間([[1736年]] - [[1795年]])の頃に学者の間で共有され始めた{{Sfn|古勝|2017|p=15}}。この頃の[[考証学]]者の[[王鳴盛]]は、目録学の重要性を強調し、以下のように述べている{{Sfn|古勝|2017|p=15}}。 |
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{{Quotation|目録の学は、学中第一の緊要の事なり。必ず此れ従(よ)り途を問い、方(はじ)めて能く其の門を得て入る。(目録の学というものは、あらゆる学問の中で第一に重要なことである。目録学を手掛かりに道を尋ねてこそ、はじめて学問の道を見つけて足を踏み入れることができる。)|王鳴盛|『十七史商榷』巻一{{Sfn|古勝|2017|p=15}}|}} |
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王鳴盛と同時代の学者である[[章学誠]]は、目録学の意義を以下の二言で要約している。 |
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{{Quotation|学術を弁章し、源流を考鏡す。|章学誠|『校讎通義』序|}} |
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ここでいう「学術」とは、学問と技術を指す。章学誠は、目録学は学術的伝承の歴史を踏まえ、その源流を考察しながら、書物を整理・分類するものであると考えていた{{Sfn|古勝|2019|pp=32-34}}。 |
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また、中国文学研究者の[[金文京]]は、[[西洋]]の図書分類はどちらかといえば[[検索]]の便宜を主目的として発展し、現代の[[図書館情報学]]がその延長線上にあるのに対して、中国の目録学は当初から[[文化史]]・学術史的な色彩が濃いことを指摘している{{Sfn|金|1999|p=173}}。そして、ある書物を研究するに当たっては、その書物の内容・著者・時代背景などを調べると同時に、その書物がその時代の文化体系(またその後の時代の文化体系)の中でどのような位置にあるかを理解する必要があり、目録学はその助けとなるものであるとする{{Sfn|金|1999|p=173}}。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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古代中国においては、[[春秋戦国時代]]、すでに竹木を用いて作られた書物( |
古代中国においては、[[春秋戦国時代]]、すでに竹木を用いて作られた書物([[木簡]]・[[竹簡]])や布で作られた書物([[帛書]])が多く流通し、宮廷の図書館には数多くの図書が所蔵されていたと考えられる{{Sfn|清水|1991|p=12}}。[[秦]]の[[始皇帝]]の際、[[焚書]]が行われて民間の図書の多くが失われた{{Sfn|古勝|2019|pp=76-77}}。しかし、[[漢|漢代]]に入ると、[[武帝 (漢)|武帝]]が宮廷の蔵書が不全であったことに危機感を覚えて書籍収集の方針を立てたほか、[[河平]]3年([[紀元前26年]])には[[成帝 (漢)|成帝]]によって本の収集が命じられ、大きな効果を上げた{{Sfn|古勝|2019|pp=98-99}}。 |
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===漢代=== |
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しかし、[[秦]]の[[始皇帝]]の際、焚書が行われて民間の図書が失われたほか、官府の書物も秦末の争いで多くが失われた。[[漢|漢代]]に入ると、書物を集めて献上することが盛んになり、徐々に書物が収集された。[[前漢]]末の[[成帝 (漢)|成帝]]のとき、あらためて書物を収集するとともに、[[劉向]]に命じて書物の校訂整理が行われた。劉向は自身の校勘の成果を『別録』に著した。この作業をもとにして、子の[[劉歆]]がその各書物の書目を示したのが『[[七略]]』であり、これが最初の目録である{{Sfn|清水|1991|pp=12-13}}。 |
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====『別録』と『七略』==== |
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[[成帝 (漢)|成帝]]の書籍収集と同じ政策の一つとして、[[劉向]]に命じて書物の校訂整理が行われた{{Sfn|古勝|2019|pp=98-99}}。この作業は劉向が死去しても完成せず、[[哀帝 (漢)|哀帝]]の命を受けた子の[[劉歆]]に引き継がれ、紀元前後の頃に完成したと考えられる{{Sfn|古勝|2019|p=148}}。劉氏父子以外にも、[[任宏]]・[[尹咸]]・[[李柱国]]ら多くの学者が協力している{{Sfn|古勝|2019|p=148}}。 |
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劉向がこの時の校書の成果を著したものが『'''別録'''』である。書物の篇目を序列し、主旨を要約し、文章にまとめたものを「序録」と呼ぶが、『別録』はこの序録だけを取り出し、編集しなおしたものである{{Sfn|古勝|2019|p=128}}。『別録』の全体は現在は散佚したが、劉向の署名を有する序録として『[[荀子]]』『[[戦国策]]』『[[晏子]]』がある{{Efn|ほかに『[[説苑]]』『[[管子]]』『[[列子]]』『[[鄧析子]]』にも劉向の署名が残されているが、後人の改竄を被ったものであると余嘉錫は述べている。一方内藤湖南は、『管子』は劉向のものであると認める{{Sfn|古勝|2019|pp=153-154}}。}}。例えば『荀子』の序録では、まず本の題名・巻数・篇数を記し、次に一書全体の篇名を列挙し、最後に文章で整理の状況・方法、荀子の伝記、本が書かれた経緯、そして書物の評価が述べられている{{Sfn|古勝|2019|pp=154-157}}。 |
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===『漢書』芸文志=== |
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そして劉向の作業を引き継ぎ、劉歆がその書目を示したものが『'''七略'''』である{{Sfn|清水|1991|pp=12-13}}。『七略』は、図書を大きく六種の「略」に分類し、これに解説文だけをまとめたセクションである「輯略」が加えられて、「七略(七つの略)」となっている{{Sfn|古勝|2019|p=170}}。『七略』も現在は散佚したが、『漢書』芸文志は『七略』を抜粋したものであることが知られている{{Sfn|古勝|2019|p=143}}。 |
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====『漢書』芸文志==== |
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[[File:『漢書』芸文志.jpg|thumb|400px|[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2600637/68 国会図書館デジタルコレクション]<br />『[[漢書]]』芸文志の冒頭部分。]] |
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{{See also|芸文志#漢書}} |
{{See also|芸文志#漢書}} |
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[[後漢]]の[[班固]]が『[[漢書]]』を編纂する際、『七略』を抜粋しながら図書目録を収録した{{Sfn|古勝|2019|pp=32-34}}。これが『漢書』の「[[芸文志]]」であり、『別録』と『七略』は現存し |
[[後漢]]の[[班固]]が『[[漢書]]』を編纂する際、『七略』を抜粋しながら図書目録を収録した{{Sfn|古勝|2019|pp=32-34}}。これが『漢書』の「[[芸文志]]」であり、『別録』と『七略』は現存しないため、現存最古の目録はこれである。『漢書』芸文志は、『七略』に基づき、'''六部分類'''を採用して書物を分類した{{Sfn|清水|1991|pp=15-18}}。 |
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; 六芸略 : [[儒教]]の経典([[経書]])を集めた分類。この内部で[[易経|易]]・[[書経|書]]・[[詩経|詩]]・[[礼]]・[[楽経|楽]]・[[春秋]]・[[論語]]・[[孝経]]・[[小学 (経学)|小学]]の九家に分かれる。 |
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; 諸子略 : [[諸子百家]]の思想学説を集めた分類。[[儒教|儒]]・[[道家|道]]・[[陰陽家|陰陽]]・[[法家|法]]・[[名家|名]]・[[墨家|墨]]・[[縦横家|縦横]]・[[雑家|雑]]・[[農家 (諸子百家)|農]]・[[小説家 (諸子百家)|小説]]の十家に分かれる。 |
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; 詩賦略 : 詩賦を収録した書物の分類{{Efn|詩賦は本来的には「六芸略」の「詩」家に属するものであるが、本の数量が多かったことから独立したと阮孝緒『[[七録]]』は述べており、章学誠・余嘉錫もこれに従う{{Sfn|宇佐美|2002|p=73}}。}}。三家([[屈原]]らの抒情詩を主とする類・[[陸賈]]らの説辞を主とする類・[[荀卿]]らの物の形容を主とする類)・雑賦(テーマ別の[[賦]])・歌詩の五家に分かれる。 |
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; 兵書略 : 軍事関係の書物の分類。兵権謀・兵形勢・陰陽・兵技巧の四家に分かれる。 |
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; [[術数学|術数略]] : 占いや自然科学の書物。天文・暦譜・五行・蓍亀・雑占・形法の六家に分かれる。 |
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; 方技略 : 医学書の分類。医経・経方・房中・神仙の四家に分かれる。 |
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以上、合計13269巻の書物が記録されている{{sfn|興膳|川合|1995|p=7}}。『漢書』芸文志には、三種類の「序」が附されている。一つ目は「大序」で、全体の冒頭に置かれ、[[孔子]]の没後から劉向・劉歆の図書整理事業までを概観している{{Sfn|古勝|2019|pp=170-171}}。二つ目は「略」ごとの序で、六つの略に対する解説文で、それぞれの「略」の末尾に置かれている{{Sfn|古勝|2019|pp=170-171}}。三つめは「略」の下位分類である「家」に対する説明である{{Sfn|古勝|2019|pp=170-171}}。 |
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六芸略・諸子略・詩賦略は劉向によって校定整理されたが、技術書である下の三部は、兵書略は[[任宏]]、術数略は[[尹咸]]、方技略は[[李柱国]]によって整理された{{Sfn|清水|1991|pp=15-18}}。 |
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===魏晋南北朝 - 唐代=== |
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===四部分類への転換=== |
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{{See also|四部分類|図書分類法#中国}} |
{{See also|四部分類|図書分類法#中国}} |
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『漢書』芸文志は六部分類法を取っていたが、[[後漢]]の紙の発明、また時代とともに増加する歴史書の増加の影響を受け、他の分類方法が試みられるようになった。まず、[[西晋]]の[[荀勗]]が撰した『[[中経新簿]]』において、四部の分類方法が試みられた。これは、甲部(経書・小学、もとの六芸略)・乙部(諸子百家、術数、兵書など、もとの諸子略・兵書略・術数略・方技略)・丙部(史記、旧事など)・丁部(詩譜など、もとの詩賦略)の四部に分けるものである{{Sfn|清水|1991|pp=26-28}}。 |
『漢書』芸文志は六部分類法を取っていたが、[[後漢]]の[[紙]]の発明、また時代とともに増加する歴史書の増加の影響を受け、他の分類方法が試みられるようになった。まず、[[西晋]]の[[荀勗]]が撰した『[[中経新簿]]』において、四部の分類方法が試みられた。これは、甲部(経書・小学、もとの六芸略)・乙部(諸子百家、術数、兵書など、もとの諸子略・兵書略・術数略・方技略)・丙部(史記、旧事など)・丁部(詩譜など、もとの詩賦略)の四部に分けるものである{{Sfn|清水|1991|pp=26-28}}。 |
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[[東晋]]に入り、[[李充 (東晋)|李充]]が乙部と丙部を入れ替え、乙部を歴史書、丙部を諸子百家の書とし、これによって「経・史・子・集」をもって称される四部分類が完成し、この形式が現在まで続いている。但し、[[宋 (南朝)|南朝宋]]末の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]([[王僧綽]]の子)が『七略』に倣った『[[七志]]』を作るなど、六部分類を取るものも消えたわけではなかった{{Sfn|清水|1991|pp=29-30}}。 |
[[東晋]]に入り、[[李充 (東晋)|李充]]が乙部と丙部を入れ替え、乙部を歴史書、丙部を諸子百家の書とし、これによって「経・史・子・集」をもって称される「'''[[四部分類]]'''」が完成し、この形式が現在まで続いている{{Sfn|清水|1991|pp=29-30}}。この形式は、この時期に歴史書が飛躍的に増加したことを反映している{{Sfn|興膳|川合|1995|p=23}}。但し、[[宋 (南朝)|南朝宋]]末の[[王倹 (南朝斉)|王倹]]([[王僧綽]]の子)が『七略』に倣った『[[七志]]』を作るなど、六部分類を取るものも消えたわけではなかった{{Sfn|清水|1991|pp=29-30}}。 |
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この頃から[[仏教]]・[[道教]]関係の書物も合わせて分類されるようにな |
また、この頃から[[仏教]]・[[道教]]関係の書物も合わせて分類されるようになり、[[阮孝緒]]の『'''[[七録]]'''』は、内篇の五部(経典・紀伝・子兵・文集・術数)と外篇の二部(仏法・仙道)からなる{{sfn|興膳|川合|1995|pp=27-30}}。これは全体の分類数としては「七」を意識しているが、内実は四部分類の一種となっている{{sfn|興膳|川合|1995|pp=27-30}}。本書は[[梁 (南朝)|南朝梁]]の官撰目録を継承しており、『隋書』経籍志の分類に大きな影響を与えた{{sfn|興膳|川合|1995|pp=27-30}}。 |
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『七録』は南朝梁の[[蕭衍|武帝]]の治下の豊富な蔵書を反映するものであったが、その蔵書は[[侯景の乱]]などの戦乱によって相当数が失われてしまった{{sfn|興膳|川合|1995|pp=27-30}}。[[隋]]によって中国が再統一されると、[[牛弘]]の案によって懸賞金付きで民間から書物を集め、宮廷図書館の蔵書が強化された{{sfn|興膳|川合|1995|pp=27-30}}。[[唐|唐代]]に入る際、再び多くの書物が失われたが、[[令狐徳棻]]の提言のほか、[[魏徴]]・[[虞世南]]・[[顔師古]]などの働きもあり、蔵書は徐々に蓄積された{{sfn|興膳|川合|1995|pp=30-32}}。 |
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===『隋書』経籍志=== |
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====『隋書』経籍志==== |
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[[File:日本国見在書目録.jpg|thumb|400px|[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540620/10 国立国会図書館デジタルコレクション]<br />『[[日本国見在書目録]]』の「[[孝経]]家」「[[論語]]家」の頁。『日本国見在書目録』の分類は『[[隋書]]』[[経籍志]]を踏襲している。]] |
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{{See also|経籍志#『隋書』「経籍志」}} |
{{See also|経籍志#『隋書』「経籍志」}} |
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[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、南北の分裂や[[侯景の乱]]などの戦乱を経て、書物の散佚が進んだ。[[隋]]によって中国が再統一されると、[[牛弘]]の案によって大規模な蒐書が行われ、宮廷図書館の蔵書が強化された。[[唐|唐代]]に入り、[[令狐徳棻]]の提言のほか、[[魏徴]]・[[虞世南]]・[[顔師古]]などの働きもあり、蔵書は徐々に蓄積された{{sfn|興膳|川合|1995|pp=30-32}}。 |
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『隋書』経籍志はもともと『五代史志』の一篇として編纂されたもので、 |
『[[隋書]]』[[経籍志]]はもともと『五代史志』の一篇として編纂されたもので、[[令狐徳棻]]によって五代の正史の編纂が提言され、[[貞観 (唐)|貞観]]3年([[629年]])に[[魏徴]]らによって『五代史伝』が完成した{{sfn|興膳|川合|1995|pp=32-33}}。しかし、ここには「志」が備わっておらず、[[于志寧]]・[[李淳風]]らによって追加の編纂が進められ、[[顕慶]]元年([[656年]])に完成した{{sfn|興膳|川合|1995|pp=32-33}}。 |
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『隋書』経籍志の構成は以下である{{sfn|興膳|川合|1995|pp=33-35}}。 |
『隋書』経籍志は[[四部分類]]を取り、その構成は以下である{{sfn|興膳|川合|1995|pp=33-35}}。 |
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; 経 : もとの六芸略。[[経書]]と経書の[[注釈]]書などを収める部。[[易経|易]]・[[書経|書]]・[[詩経|詩]]・[[礼]]・[[楽経|楽]]・[[春秋]]・[[孝経]]・[[論語]]・[[讖緯]]・[[小学 (経学)|小学]]の十類。 |
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; 史 : [[歴史書]]を収める部。[[正史]]・古史・雑史・覇史・[[起居注]]・旧事・職官・儀注・刑法・雑伝・地理・譜系・簿録の十三類。 |
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; 子 : もとの諸子略・兵書略・術数略・方技略。諸子百家の書と技術書。[[道家|道]]・[[法家|法]]・[[名家|名]]・[[墨家|墨]]・[[縦横家|縦横]]・[[雑家|雑]]・[[農家 (諸子百家)|農]]・[[小説家 (諸子百家)|小説]]・[[兵家|兵]]・天文・暦数・五行・医方の十四類。 |
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; 集 : もとの詩賦略。[[楚辞]]・別集・総集の三類。 |
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; 付 : 道経・仏経 |
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『隋書』経籍志は、完全な形で現存する第二の目録であると同時に{{sfn|興膳|川合|1995|p=1}}、漢代以来の学術の流れを総括したものであり、その資料的価値は高い{{sfn|興膳|川合|1995|p=36}}。また、『隋書』経籍志は、『漢書』芸文志に次ぐ分類の基準を定め、以後の『[[旧唐書]]』『[[新唐書]]』などの正史の目録はこれに依拠しながら分類法を定めた{{sfn|興膳|川合|1995|p=43}}。日本の[[藤原佐世]]の『[[日本国見在書目録]]』も、『隋書』経籍志の分類法を取り込んだものである{{sfn|興膳|川合|1995|p=44}}。以後、『[[四庫全書総目提要]]』に至るまで、『隋書』経籍志の定めた基準が細かな改良を加えられながらも用いられ続けた{{sfn|興膳|川合|1995|p=44}}。 |
以上、合計89666巻の書物が記録されている{{sfn|興膳|川合|1995|p=32}}。『隋書』経籍志は、完全な形で現存する第二の目録であると同時に{{sfn|興膳|川合|1995|p=1}}、漢代以来の学術の流れを総括したものであり、その資料的価値は高い{{sfn|興膳|川合|1995|p=36}}。また、『隋書』経籍志は、『漢書』芸文志に次ぐ分類の基準を定め、以後の『[[旧唐書]]』『[[新唐書]]』などの正史の目録はこれに依拠しながら分類法を定めた{{sfn|興膳|川合|1995|p=43}}。また、日本の[[藤原佐世]]の『'''[[日本国見在書目録]]'''』も、『隋書』経籍志の分類法を取り込んだものである{{sfn|興膳|川合|1995|p=44}}。以後、『[[四庫全書総目提要]]』に至るまで、『隋書』経籍志の定めた基準が細かな改良を加えられながらも用いられ続けた{{sfn|興膳|川合|1995|p=44}}。 |
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漢から隋唐にかけての書籍の流伝を知る上では、[[経書]]に関しては[[陸徳明]]の『[[経典釈文]]』序録、[[歴史書]]に関しては[[劉知幾]]の『[[史通]]』六家篇も有力な資料となる{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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===民間の蔵書目録=== |
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[[宋 (王朝)|宋代]]に入り、木版印刷が盛んになるにつれて、徐々に書物の量が増え、個人の蔵書家も増えてきた{{Sfn|清水|1991|p=52}}。個人の蔵書家による目録・書物解題として最初のものは、[[南宋]]の[[晁公武]]による『[[郡斎読書志]]』である。晁公武は、手に入れた本を校勘しながら読み通し、それらの書物の要綱を書いた。これは、ある個人が実際に入手した本をもとに自ら書き記した記録であり、記事の信頼性はかなり高い{{Sfn|清水|1991|pp=57-58}}。 |
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===宋代=== |
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また、同じく南宋の[[陳振孫]]による『[[直斎書録解題]]』も著名であり、書物の解説を「[[解題]]」と称するのはこの本に始まるとされる。それぞれの書物の入手経路なども合わせて書かれている点に特色がある{{Sfn|清水|1991|pp=57-58}}。 |
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====『旧唐書』経籍志と『新唐書』芸文志==== |
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『[[旧唐書]]』は[[後晋]]の頃に作られ、経籍志はその一部である{{sfn|古勝|嘉瀬|2008|p=313}}。この目録はもともと開元年間([[713年]] - [[741年]])に[[毋煚]]が作った『古今目録』を抜粋したものであり、唐代初期の書物しか載せていない{{sfn|古勝|嘉瀬|2008|p=313}}。全体の分類としては、概ね『隋書』経籍志を踏襲している{{sfn|古勝|嘉瀬|2008|p=313}}。また、各部門の総論、各子目の総説はなく、全体の総論があるだけである{{Sfn|内藤|1926|}}。[[内藤湖南]]は、これを目録の「退歩」であると表現している{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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『[[新唐書]]』は[[北宋]]の頃に作られ、芸文志はその一部で、同じく四部分類である{{sfn|古勝|嘉瀬|2008|p=324}}。各分類の中に「著録」と「不著録」の二種があり、前者は『古今目録』(また『旧唐書』経籍志)にやや手を加えたもの、後者は『古今目録』後にできた新たな唐代の書物を追加したものである{{sfn|古勝|嘉瀬|2008|p=324}}。総序は更に粗略になり、『旧唐書』経籍志までは、ある場所に現存していた書籍に対して作られた目録であるが、『新唐書』芸文志に至ると、編纂者が実見した書籍に対する目録なのかどうか判然としないものになった{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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===四庫提要=== |
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[[File:WUL-ya09 00895 欽定四庫全書総目.pdf|WUL-ya09 00895 欽定四庫全書総目|thumb|0px|]] |
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====崇文総目==== |
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解題を含めた目録の決定版として、[[清|清代]]に[[乾隆帝]]の命令で作られた『[[四庫全書総目提要]]』がある。これに対する補訂として、[[余嘉錫]]の『四庫提要弁証』、[[胡玉縉]]の『四庫提要弁証補正』などがある{{sfn|井上|2006|pp=320-322}}。 |
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同じく北宋の頃に、宋の宮廷図書館(崇文院)の書目として『[[崇文総目]]』が作られた。この本は[[南宋]]の頃から略本が用いられるようになり、現在は完全な形では伝わっていない{{Sfn|内藤|1926|}}。北宋の文人である[[欧陽修]]は、『新唐書』の編纂者であると同時に、『崇文総目』の序録の執筆者でもある。この序録には、学問の変遷が整った体裁で記されており、後世の評価は高い{{Sfn|内藤|1926|}}。また、もとは一部一部の本に解題が附されていたらしい{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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====民間の蔵書目録==== |
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[[宋 (王朝)|宋代]]に入り、[[木版印刷]]が盛んになるにつれて、徐々に書物の量が増え、個人の蔵書家も増えてきた{{Sfn|清水|1991|p=52}}。個人の蔵書家による目録として著名なものに、[[南宋]]の[[尤袤]]『[[遂初堂書目]]』、[[晁公武]]『[[郡斎読書志]]』、[[陳振孫]]『[[直斎書録解題]]』の三書が挙げられる。 |
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『遂初堂書目』は書名と巻数だけを挙げた書目である{{Sfn|内藤|1926|}}。書物解題を備える最初の民間図書目録が『[[郡斎読書志]]』で、晁公武は手に入れた本を校勘しながら読み通し、それらの書物の要綱を書いた。これは、ある個人が実際に入手した本をもとに自ら書き記した記録であり、記事の信頼性はかなり高い{{Sfn|清水|1991|pp=57-58}}。また、『[[直斎書録解題]]』にはそれぞれの書物の入手経路などが合わせて書かれている点に特色があり、書物の解説を「[[解題]]」と称するのはこの本に始まるとされる{{Sfn|清水|1991|pp=57-58}}。 |
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[[南宋]]には、先述した[[鄭樵]]のほか、[[高似孫]]・[[王応麟]]・[[馬端臨]]らも新たな目録学の知見を示した{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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===元代・明代=== |
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====『宋史』芸文志==== |
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[[元|元代]]になると『[[宋史]]』が編まれ、その一部に芸文志がある。これは従来、乱雑であると評価されている{{Sfn|内藤|1926|}}。その著録方法は『新唐書』芸文志と同じであり、宋代に作られた四つの目録を一つに合わせた上で、「不著録」として宋代末頃の本を補ったものである{{Sfn|内藤|1926|}}。ここに至って、正史の「芸文志」は行き詰まりを見せ、これより後に正史を編纂する時には、芸文志は作らないか、作るからには別の方法を取る、というように変化した{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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====『文淵閣書目』と『国史経籍志』==== |
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[[明|明朝]]の蔵書目録が『[[文淵閣書目]]』である。前代の蔵書目録より全体の数量は遥かに多いが、書名と冊数だけを記録し、撰人の姓名さえ記録しない場合が多い{{Sfn|勝村|1983|p=21}}。これ以降、明の官蔵書目は十数種類のものが作られた{{Sfn|勝村|1983|p=21}}。 |
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明代を通して目録学は下火であったが、明末になると、[[焦竑]]によって『[[国史経籍志]]』が作られた{{Sfn|内藤|1926|}}。これは四部分類を用いながらも、細かな分類については『[[通志]]』の形式を取り入れている{{Sfn|内藤|1926|}}。一部独自の分類法を試みたほか、附録として、『漢書』芸文志・『隋書』経籍志・『宋史』芸文志・『崇文總目』・『通志』・『郡斎読書志』などの古来の目録に対して、分類の誤りを正すなどの新たな議論を展開している{{Sfn|内藤|1926|}}。各書に対する解題はないが、分類に対する総序はあり、学問の源流を論じるところもある{{Sfn|内藤|1926|}}。その一部は『四庫提要』の序論のもととなった{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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書籍の流通量の増加に伴って、明末清初の間には蔵書家がますます増え、その目録も数多く作られた。『千頃堂書目』は後に『[[明史]]』芸文志の基礎となった{{Sfn|内藤|1926|}}。他に『澹生堂書目』『絳雲楼書目』『汲古閣蔵書目』なども著名である。[[銭曾]]の『読書敏求記』は珍しい本を入手した際にそれを記録した目録で、最初の珍本収蔵の解題である{{Sfn|内藤|1926|}}。 |
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===清代=== |
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====四庫提要==== |
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[[File:WUL-ya09 00895 欽定四庫全書総目.pdf|WUL-ya09 00895 欽定四庫全書総目|thumb|300px|『四庫全書総目提要(四庫提要)』]] |
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解題を含めた目録の決定版として、[[清|清代]]に[[乾隆帝]]の命令で作られた『[[四庫全書総目提要]](四庫提要)』がある。これは、『[[四庫全書]]』の編纂が進められる中で、「著録書」(定本が作成され、解題が附された書籍)と「存目書」(解題だけが作られた書籍)の解題(提要)だけを集めて作られた本である{{Sfn|永田|2017|pp=74-75}}。『四庫提要』は、一万種を超える書籍を掲載しながら、分類に対する説明と各書籍に対する説明を両方備えている(余嘉錫の分類でいう第一類){{Sfn|永田|2017|p=71}}。その解題では、書籍の内容のほか、著者や時代の来歴、[[刊本]]・[[写本]]といったテキストの問題が論じられている{{Sfn|永田|2017|p=93}}。 |
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『四庫提要』に対する補訂として、[[余嘉錫]]の『四庫提要弁証』、[[胡玉縉]]の『四庫提要弁証補正』などがある{{sfn|井上|2006|pp=320-322}}。 |
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==現代の評価== |
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[[シカゴ大学]]で漢籍整理を行った[[銭存訓]]は、伝統的な[[四部分類]]を近代に運用する際には、以下の欠点があると述べた{{Sfn|古勝|2017|pp=42-43}}。 |
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* 伝統的な目録学は、枠組みの中心に[[儒教]]を据えてきたこと。 |
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* 枠組みが簡単すぎて、詳細を組み込めない構造になっていること。 |
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* 枠組みに柔軟さがないこと。 |
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こういった問題点は確かに存在しているが、中国の歴史上長く用いられてきた四部分類は強い根を張っており、近代になっても分類法を簡単に変更することはできなかった{{Sfn|古勝|2017|pp=42-43}}。現代でも、中国内外を問わず、大量の[[漢籍]]を所有している図書館では、引き続き四部分類を基礎とする図書分類を使っている{{Sfn|古勝|2017|pp=42-43}}。 |
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また、近代中国の図書館の整備に当たった{{仮リンク|杜定友|zh|杜定友}}は、「図書の分類は学術の分類に基づく」という目録学の理念に対し、必ずしも両者は一致せず、学術史は学術史として別に記述するべきことを述べている{{Sfn|宇佐美|2002|p=85}}。 |
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{{Quotation|自来目録学者、必ず「弁章学術考鏡源流」を以て相い標榜し、以為く、是の如きに非ざれば以て其の道を尊ぶに足らざるなりと。知らず、学術源流の考鏡は、当に別に学術史著述史を撰して以て之を総論すべきを。今之あるを知らず、乃ち図書目録中に於いて之を述べんと欲するは、是れ能うべからざるなり。|杜定友|『校讎新義』巻八{{Sfn|宇佐美|2002|p=85}}}} |
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中国文学研究者の[[吉川幸次郎]]は、目録学は必要な技術ではあるが、書目を見ただけで読書した気になることは問題であると述べている{{Sfn|永田|2017|p=93}}。 |
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==脚注== |
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{{脚注ヘルプ}} |
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===注釈=== |
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{{Notelist}} |
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===出典=== |
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{{reflist|2}} |
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==参考文献== |
==参考文献== |
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===日本語文献=== |
===日本語文献=== |
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====単著==== |
====単著==== |
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* {{Citation|和書|title= |
* {{Citation|和書|title=劉向本戰國策の文献学的研究 : 二劉校書研究序説|publisher=朋友書店|year=2018|last=秋山|first=陽一郎|isbn=9784892811722}} |
||
* {{Citation|和書|title=隋書經籍志詳攷|year=1995|publisher=汲古書院|isbn=4762924814|last1=興膳|last2=川合|first1=宏|first2=康三|author1-link=興膳宏|author2-link=川合康三}} |
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* {{Citation|和書|title=知の座標 中国目録学|publisher=白帝社|year=2003|last=井波|first=陵一|authorlink=井波陵一|isbn=9784891746346}} |
* {{Citation|和書|title=知の座標 中国目録学|publisher=白帝社|year=2003|last=井波|first=陵一|authorlink=井波陵一|isbn=9784891746346}} |
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* {{Citation|和書|title=漢籍目録を読む|publisher=研文出版|year=2004|last=井波|first=陵一}} |
* {{Citation|和書|title=漢籍目録を読む|publisher=研文出版|year=2004|last=井波|first=陵一}} |
||
* {{Citation|和書|title=漢籍目録 : カードのとりかた : 京都大学人文科学研究所漢籍目録カード作成要領|editor=京都大学人文科学研究所附屬漢字情報研究センター|publisher=朋友書店|year=2005|isbn=9784892811067}} |
|||
* {{Citation|和書|title=古書通例:中国文献学入門|year=2008|publisher=平凡社|last=余|first=嘉錫|authorlink=余嘉錫|series=東洋文庫|translator=古勝隆一ほか|isbn=9784582807752}} |
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* {{Citation|和書|title= |
* {{Citation|和書|title=隋書經籍志詳攷|year=1995|publisher=汲古書院|isbn=4762924814|last1=興膳|last2=川合|first1=宏|first2=康三|author1-link=興膳宏|author2-link=川合康三}} |
||
* {{Citation|和書|title=中国 |
* {{Citation|和書|title=古書通例:中国文献学入門|year=2008|publisher=平凡社|last=余|first=嘉錫|authorlink=余嘉錫|series=東洋文庫|translator1=古勝隆一|translator2=嘉瀬達男|translator3=内山直樹|isbn=9784582807752}} |
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**{{Citation|和書|title=古書通例:中国文献学入門|chapter=中国文献学用語集|year=2008|publisher=平凡社|series=東洋文庫|last1=古勝|first1=隆一|last2=嘉瀬|first2=達男}} |
|||
* {{Citation|和書|title=目録学発微:中国文献分類法|publisher=平凡社|year=2013|last=余|first=嘉錫|series=東洋文庫|translator=古勝隆一|translator2=嘉瀬達男|translator3=内山直樹|isbn=9784582808377}} |
|||
* {{Citation|和書|title=目録学の誕生 劉向が生んだ書物文化|publisher=臨川書店|year=2019|last=古勝|first=隆一|authorlink=古勝隆一|isbn=9784653043768}} |
* {{Citation|和書|title=目録学の誕生 劉向が生んだ書物文化|publisher=臨川書店|year=2019|last=古勝|first=隆一|authorlink=古勝隆一|isbn=9784653043768}} |
||
* {{Citation|和書|title=中国目録学|publisher=筑摩書房|year=1991|last=清水|first=茂|authorlink=清水茂 (中国文学者)|isbn=4480836055}} |
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* {{Citation|和書|title=中国古典学への招待 : 目録学入門|publisher=研文出版|year=2016|last1=程|first1=千帆|last2=徐|first2=有富|translator=向嶋成美ほか|isbn=9784876364091}} |
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* {{Citation|和書|title=支那目録学|year=1926|last=内藤|first=湖南|author-link=内藤湖南}} |
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====論文 |
====記事・論文==== |
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* {{Citation|和書|title=支那研究|publisher=岩波書店|year=1930|last=服部|first=宇之吉|authorlink=服部宇之吉|editor=慶応義塾望月基金支那研究会|chapter=目録学概説}} |
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* {{Citation|和書|title=目録学|publisher=岩波書店|year=1973|last=倉石|first=武四郎|authorlink=倉石武四郎|editor=東京大学東洋文化研究所附属東洋学文献センター刊行委員会}} |
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* {{Citation|和書|title=武内義雄全集 第九巻|publisher=角川書店|year=1979|last=武内|first=義雄|authorlink=武内義雄|editor=慶応義塾望月基金支那研究会|chapter=支那学研究法}} |
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* {{Citation|和書|title=アジア歴史研究入門3|publisher=同朋舎出版|year=1983|last=勝村|first=哲也|authorlink=勝村哲也|chapter=目録学}} |
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* {{Citation|和書|title=中国歴史研究入門|publisher=名古屋大学出版会|year=2006|last=井上|first=進|authorlink=井上進 (東洋史研究者)|editor=礪波護[など]|chapter=史資料を読むために 目録学—読書の門径|isbn=978-4-8158-0527-2}} |
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* {{Citation|和書|title=書林の眺望 : 伝統中国の書物世界|publisher=平凡社|year=2006|last=井上|first=進|chapter=四部分類の成立|isbn=4582441149}} |
* {{Citation|和書|title=書林の眺望 : 伝統中国の書物世界|publisher=平凡社|year=2006|last=井上|first=進|authorlink=宇佐美文理|chapter=四部分類の成立|isbn=4582441149}} |
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* {{Citation|和書|title=雑家類小考|year=2002|last=宇佐美|first=文理|authorlink=宇佐美文理|journal=中国思想史研究|volume=25|publisher=中国哲学史研究会|NAID=110000256158}}{{PDFlink|[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/234413/1/hct_025_063.pdf リンク]}} |
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* {{Citation|和書|title=アジア歴史研究入門3|publisher=同朋舎出版|year=1983|last=勝村|first=哲也|authorlink=勝村哲也|chapter=目録学|ISBN=4810403688}} |
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* {{Citation|和書|title=目録学に親しむ : 漢籍を知る手引き|publisher=研文出版|year=2017|authorlink=|editor=京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター|series=京大人文研漢籍セミナー|ISBN=9784876364206}} |
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* {{Citation|和書|title=中国目録学史上における子部の意義--六朝期目録の再検討|publisher=慶應義塾大学附属研究所斯道文庫|year=1999|authorlink=金文京|last=金|first=文京|journal=斯道文庫論集|volume=33|p=171-206|NAID=110000980653}} |
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* {{Citation|和書|title=四部分類の傳統|publisher=東洋史研究会|year=1943|authorlink=倉田淳之助|last=倉田|first=淳之助|journal=東洋史研究|volume=8|issue=4|p=247-257|NAID=120003308120}}{{PDFlink|[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145798/1/jor008_4_247.pdf リンク]}} |
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* {{Citation|和書|title=武内義雄全集 第九巻|publisher=角川書店|year=1979|last=武内|first=義雄|authorlink=武内義雄|editor=慶応義塾望月基金支那研究会|chapter=支那学研究法}} |
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* {{Citation|和書|title=鄭樵の史論に就て|publisher=東洋史研究会|year=1936|authorlink=内藤戊申|last=内藤|first=戊申|journal=東洋史研究|volume=2|issue=1|p=1-13|NAID=120003307901}}{{PDFlink|[https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145575/1/jor002_1_1.pdf リンク]}} |
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* {{Citation|和書|title=支那研究|publisher=岩波書店|year=1930|last=服部|first=宇之吉|authorlink=服部宇之吉|editor=慶応義塾望月基金支那研究会|chapter=目録学概説}} |
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===中国語文献=== |
===中国語文献=== |
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* {{Citation|和書|title=校讎広義-目録編|last1=程|first1=千帆|last2=徐|first2=有富|publisher=河北教育出版社|year=2000}} |
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* {{Citation|和書|title=中國目録學史|publisher=商務印書館|year=1938|last=姚|first=名達|authorlink=}} |
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* {{Citation|和書|title=古書通例|year=1985|publisher=上海古籍出版社|last=余|first=嘉錫|isbn=7805233403}} |
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* {{Citation|和書|title=目録学発微:中国文献分類法|publisher=巴蜀書社|year=1991|last=余|first=嘉錫}} |
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===脚注=== |
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*[[書誌学]] |
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== 外部リンク == |
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2021年4月25日 (日) 06:00時点における版
目録学 |
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目録学(もくろくがく)は、前近代中国の図書目録を扱う学問。中国では伝統的に図書目録の制作が盛んだったため生まれた。校勘学や版本学と深い関係を有し、西洋や日本でいう書誌学・図書館学・図書館情報学に近い。
名称
「目録」という語は、もとは書目の目次を示す言葉であり[注釈 1]、六朝時代以降に現代でいう「図書目録」を指すようになった[1]。中国では、この図書目録に関する学問を「目録学」と呼ぶ。目録自体は世界に普遍的に存在するものであるが、これが学問として独自の発展を遂げたのは中国文化だけである[2]。よって、「目録学」の英訳は一般に「bibliography」が当てられるものの[1]、目録学と厳密な意味で概念を同じくする訳語は存在しない[3]。
目録学は「校讐学」と呼ばれることもある。「校讐」は、書物と書物を突き合わせて文字の比較校訂をすることを指す言葉で、現代でいう「校正」のこと[4][注釈 2]。両者が指し示す対象は同じだが、「目録学」という呼称は書物の分類とその目録法の側面を重視し、「校讐学」という呼称は書物整理の側面を重視する点に相違がある[4]。
目録
中国最初に作られた図書目録は、前漢の劉向『別録』と劉歆『七略』であり、これは彼らが当時の皇室の蔵書を体系的に整理し、その校書事業の成果をまとめたものであった[6]。これ以来、中国の各王朝において皇室の蔵書目録を作成する制度が引き継がれたほか、宋代に入ると民間でも小規模な蔵書目録が作られるようになった[6]。
目録に記録されているそれぞれの書物は、明確な分類体系の下に位置づけられて整理されている[7]。その分類方法は、書物の内容によって大きく「四部」(古くは六部)に分かれ、その内部で「類」に分かれ、場合によってはさらに細かく分類され、最後にその中で書物を撰者の年代順に配列される、というものであった[8]。つまり、目録の中の書物が置かれている場所は、「その書物の内容が伝統的学問体系の中でどこを占めるか」を反映するものである[7]。こうして作られた目録は、過去の学術全体を体系的・系統的に反映するものであり[8]、目録の読解を通してその時代の精神や学術を読み取ることができる[9]。
目録の体裁
中華民国の学者である余嘉錫は、目録の体裁には以下の三種類があるとする[10]。
- 各分類の説明と、各書物の解題が両方あるもの。
- 各分類の説明だけがあって、各書物の解題はないもの。
- 各分類の説明と書物の解題がともになく、ただ書名だけが挙がっているもの。
歴代の目録では、(1)に『郡斎読書志』『直斎書録解題』『四庫全書総目提要』、(2)に『漢書』芸文志、『隋書』経籍志、(3)に『旧唐書』経籍志以下の正史の目録がある[11]。
目録の具体例
目録の具体例として、『隋書』経籍志の「経部・易類」の内容を説明する。この目録は、上の三類のうち「分類の説明だけがあって、各書物の解題はないもの」の体裁を取っており、まず冒頭で隋代に至るまでの書籍の歴史を概観したのち[注釈 3]、経部の易類、つまり経書である『易』に関連する書籍が、以下のように巻数・著者名とともに箇条書きで並べられている。
『隋書』経籍志の経部易類には、合計69部、551卷(既に失われた本を合わせると94部、829卷)の書籍が記録されており[13]、その末尾には以下のように「易類」という分類全体に対する解題が加えられている。
……夏・殷・周の三代には、実に三種の易があった。夏の易は『連山』、殷の易は『歸藏』といい、周の文王が卦辞を作って、それが『周易』と呼ばれる。……秦の焚書に際しては、『周易』のみは占いの書物ということで焼却を免れ、そのうちの「説卦」三篇だけが失われたが、それは後になって河内の一婦人によって発見された。……後漢の陳元・鄭衆は、みな費直の易学を伝え、馬融が更にその注釈を作り、鄭玄に伝授した。鄭玄は『易注』を、荀爽は『易伝』を著した。魏の王粛・王弼も費直の易に注を施した。……梁・陳には、鄭玄と王弼の二家の注釈が国学に立てられた。北斉では鄭玄の解釈だけが伝えられた。隋に入ると、王弼の注がもてはやされ、鄭玄の学問はしだいに下火になって、今ではほとんど絶えてしまった。…… — 『隋書』経籍志[14]
このように、『隋書』経籍志は、劉向・劉歆の後を受けて作られた『漢書』芸文志以来の「書籍の目録」であると同時に、漢代以来の「学術の歴史」を概括するものでもある[15]。これは『隋書』経籍志に限らず、中国の目録は「書物を登録する帳簿」としての側面と、「学術の歴史を考察する学術史」としての側面を併せ持ったものである[16]。
現代の漢籍目録
ここでは、京都大学人文科学研究所図書館の場合を例に挙げて、現在一般的に用いられている漢籍目録の記述内容を説明する。京都大学人文科学研究所図書館では、漢籍を受け入れた際、まずその一冊の本に対するカード目録(各書籍一つ一つに対する目録)を作成する[18]。
カード目録には、書名・撰者・巻数・鈔刻(出版事項)といった情報が記載される[19]。このうち「鈔刻(出版事項)」には、いつ(出版年)、どこの誰が(出版者)、どこで(出版地)、どのような方法で(木版・活字など)出版したのかが記される[20]。こうした記述によって目の前の「書」がどのような「本」なのかを明らかにするのが、カード目録の作成目的である[19][注釈 4]。
こうして一つの書籍に対するカード目録が完成すると、この書が全体の分類の中でどこに位置づけられるか、ということを定める[23]。京都大学人文科学研究所図書館では、伝統的な四部分類に、叢書部を加えた五部の分類によって各書物を分類している[18][注釈 5]。
目録学
以上のような「目録」に関する学問を「目録学」と呼称する。
目録学は、狭義では「書籍を分類整理し、解題書録を作成するための学問」である[24]。ただそのためには、書物の内容の把握と、その分類の意味の把握をしなければならない[24]。目録が作られる手順としては、まずある一つの書に対して、写本・版本を含めた多くのテキストを収集し、校勘を行い定本を作り(校讐)、内容を把握し、これを解題に記す。そしてその書籍が学問体系の中のどこに位置づけられるか判定し、その分類の中に記録する、という流れである[25]。
劉向以来、目録を実際に編纂する実務的な面は継続されていたが、のちに目録を読み解きその法則を明らかにする理論的な面がそこに加わった[6]。目録を対象にした理論的研究が始まるのは南宋の鄭樵『通志』以降であり[26]、清の章学誠『校讐通義』がこれを大きく発展させ、中国学術史を論じる学としての「目録学」の意義が明らかになった[27]。また、民国時代に入ると、彼らの学問を引き継いで余嘉錫や姚名達といった卓見した目録学者が現れ、目録学はさらに発展した[28]。
目録学理論の形成
南宋の鄭樵は、『通志』に「芸文略」という書目を作った。これは宮廷図書館や彼の個人蔵書を目録にしたものではなく、過去の目録や彼の知識に基づいて、中国の学術史を見通すために必要であると彼が考えた書籍を配列した目録である[29]。全体は十二類に分けられているが、これは当時主流であった四部分類を基礎としつつも、それでは不十分と考えて細かく分類したものである[注釈 6]。十二類の下位には「家」、その下位に「種」が設けられ、さらに細かく周到な分類が可能になっている[30]。鄭樵は、「類例が分けてあれば、学術はおのずと明らかになる」と主張し、学術の枠組みを示せば書物の内容も自然に明らかになると考えた[30]。こうした彼の主張は「校讐略」に整理されており、その理論を実践して作った目録が「芸文略」である[31]。
鄭樵に影響を受け、目録学を学問として発展させたのが清の章学誠『校讐通義』である。章学誠は、『漢書』芸文志の研究を通して、「互著」と「別裁」の法を唱えた[32]。「互著」とは、ある一つの書籍が複数の分類にまたがる内容を持つ場合、その各部に重複して書名を出すべきであるとすること[32][31]。章学誠は、同じ本を一箇所にしか載せられないという考え方は、目録を単に書籍の帳簿であるとするから出てくるのだと述べている[31]。「別裁」とは、既に存在するある本の中から一部分を取り出し、別の単行本として目録に掲げることであり、これも著述の源流を弁じるために必要な作業であると章学誠は考えた[28]。
目録学の意義
中国古典の研究において目録学が重要であるということは、清代の乾隆年間(1736年 - 1795年)の頃に学者の間で共有され始めた[27]。この頃の考証学者の王鳴盛は、目録学の重要性を強調し、以下のように述べている[27]。
目録の学は、学中第一の緊要の事なり。必ず此れ従(よ)り途を問い、方(はじ)めて能く其の門を得て入る。(目録の学というものは、あらゆる学問の中で第一に重要なことである。目録学を手掛かりに道を尋ねてこそ、はじめて学問の道を見つけて足を踏み入れることができる。) — 王鳴盛、『十七史商榷』巻一[27]
王鳴盛と同時代の学者である章学誠は、目録学の意義を以下の二言で要約している。
学術を弁章し、源流を考鏡す。 — 章学誠、『校讎通義』序
ここでいう「学術」とは、学問と技術を指す。章学誠は、目録学は学術的伝承の歴史を踏まえ、その源流を考察しながら、書物を整理・分類するものであると考えていた[33]。
また、中国文学研究者の金文京は、西洋の図書分類はどちらかといえば検索の便宜を主目的として発展し、現代の図書館情報学がその延長線上にあるのに対して、中国の目録学は当初から文化史・学術史的な色彩が濃いことを指摘している[34]。そして、ある書物を研究するに当たっては、その書物の内容・著者・時代背景などを調べると同時に、その書物がその時代の文化体系(またその後の時代の文化体系)の中でどのような位置にあるかを理解する必要があり、目録学はその助けとなるものであるとする[34]。
歴史
古代中国においては、春秋戦国時代、すでに竹木を用いて作られた書物(木簡・竹簡)や布で作られた書物(帛書)が多く流通し、宮廷の図書館には数多くの図書が所蔵されていたと考えられる[35]。秦の始皇帝の際、焚書が行われて民間の図書の多くが失われた[36]。しかし、漢代に入ると、武帝が宮廷の蔵書が不全であったことに危機感を覚えて書籍収集の方針を立てたほか、河平3年(紀元前26年)には成帝によって本の収集が命じられ、大きな効果を上げた[37]。
漢代
『別録』と『七略』
成帝の書籍収集と同じ政策の一つとして、劉向に命じて書物の校訂整理が行われた[37]。この作業は劉向が死去しても完成せず、哀帝の命を受けた子の劉歆に引き継がれ、紀元前後の頃に完成したと考えられる[38]。劉氏父子以外にも、任宏・尹咸・李柱国ら多くの学者が協力している[38]。
劉向がこの時の校書の成果を著したものが『別録』である。書物の篇目を序列し、主旨を要約し、文章にまとめたものを「序録」と呼ぶが、『別録』はこの序録だけを取り出し、編集しなおしたものである[39]。『別録』の全体は現在は散佚したが、劉向の署名を有する序録として『荀子』『戦国策』『晏子』がある[注釈 7]。例えば『荀子』の序録では、まず本の題名・巻数・篇数を記し、次に一書全体の篇名を列挙し、最後に文章で整理の状況・方法、荀子の伝記、本が書かれた経緯、そして書物の評価が述べられている[41]。
そして劉向の作業を引き継ぎ、劉歆がその書目を示したものが『七略』である[42]。『七略』は、図書を大きく六種の「略」に分類し、これに解説文だけをまとめたセクションである「輯略」が加えられて、「七略(七つの略)」となっている[43]。『七略』も現在は散佚したが、『漢書』芸文志は『七略』を抜粋したものであることが知られている[44]。
『漢書』芸文志
後漢の班固が『漢書』を編纂する際、『七略』を抜粋しながら図書目録を収録した[33]。これが『漢書』の「芸文志」であり、『別録』と『七略』は現存しないため、現存最古の目録はこれである。『漢書』芸文志は、『七略』に基づき、六部分類を採用して書物を分類した[45]。
- 六芸略
- 儒教の経典(経書)を集めた分類。この内部で易・書・詩・礼・楽・春秋・論語・孝経・小学の九家に分かれる。
- 諸子略
- 諸子百家の思想学説を集めた分類。儒・道・陰陽・法・名・墨・縦横・雑・農・小説の十家に分かれる。
- 詩賦略
- 詩賦を収録した書物の分類[注釈 8]。三家(屈原らの抒情詩を主とする類・陸賈らの説辞を主とする類・荀卿らの物の形容を主とする類)・雑賦(テーマ別の賦)・歌詩の五家に分かれる。
- 兵書略
- 軍事関係の書物の分類。兵権謀・兵形勢・陰陽・兵技巧の四家に分かれる。
- 術数略
- 占いや自然科学の書物。天文・暦譜・五行・蓍亀・雑占・形法の六家に分かれる。
- 方技略
- 医学書の分類。医経・経方・房中・神仙の四家に分かれる。
以上、合計13269巻の書物が記録されている[47]。『漢書』芸文志には、三種類の「序」が附されている。一つ目は「大序」で、全体の冒頭に置かれ、孔子の没後から劉向・劉歆の図書整理事業までを概観している[48]。二つ目は「略」ごとの序で、六つの略に対する解説文で、それぞれの「略」の末尾に置かれている[48]。三つめは「略」の下位分類である「家」に対する説明である[48]。
魏晋南北朝 - 唐代
『漢書』芸文志は六部分類法を取っていたが、後漢の紙の発明、また時代とともに増加する歴史書の増加の影響を受け、他の分類方法が試みられるようになった。まず、西晋の荀勗が撰した『中経新簿』において、四部の分類方法が試みられた。これは、甲部(経書・小学、もとの六芸略)・乙部(諸子百家、術数、兵書など、もとの諸子略・兵書略・術数略・方技略)・丙部(史記、旧事など)・丁部(詩譜など、もとの詩賦略)の四部に分けるものである[49]。
東晋に入り、李充が乙部と丙部を入れ替え、乙部を歴史書、丙部を諸子百家の書とし、これによって「経・史・子・集」をもって称される「四部分類」が完成し、この形式が現在まで続いている[50]。この形式は、この時期に歴史書が飛躍的に増加したことを反映している[51]。但し、南朝宋末の王倹(王僧綽の子)が『七略』に倣った『七志』を作るなど、六部分類を取るものも消えたわけではなかった[50]。
また、この頃から仏教・道教関係の書物も合わせて分類されるようになり、阮孝緒の『七録』は、内篇の五部(経典・紀伝・子兵・文集・術数)と外篇の二部(仏法・仙道)からなる[52]。これは全体の分類数としては「七」を意識しているが、内実は四部分類の一種となっている[52]。本書は南朝梁の官撰目録を継承しており、『隋書』経籍志の分類に大きな影響を与えた[52]。
『七録』は南朝梁の武帝の治下の豊富な蔵書を反映するものであったが、その蔵書は侯景の乱などの戦乱によって相当数が失われてしまった[52]。隋によって中国が再統一されると、牛弘の案によって懸賞金付きで民間から書物を集め、宮廷図書館の蔵書が強化された[52]。唐代に入る際、再び多くの書物が失われたが、令狐徳棻の提言のほか、魏徴・虞世南・顔師古などの働きもあり、蔵書は徐々に蓄積された[53]。
『隋書』経籍志
『隋書』経籍志はもともと『五代史志』の一篇として編纂されたもので、令狐徳棻によって五代の正史の編纂が提言され、貞観3年(629年)に魏徴らによって『五代史伝』が完成した[54]。しかし、ここには「志」が備わっておらず、于志寧・李淳風らによって追加の編纂が進められ、顕慶元年(656年)に完成した[54]。
『隋書』経籍志は四部分類を取り、その構成は以下である[55]。
- 経
- もとの六芸略。経書と経書の注釈書などを収める部。易・書・詩・礼・楽・春秋・孝経・論語・讖緯・小学の十類。
- 史
- 歴史書を収める部。正史・古史・雑史・覇史・起居注・旧事・職官・儀注・刑法・雑伝・地理・譜系・簿録の十三類。
- 子
- もとの諸子略・兵書略・術数略・方技略。諸子百家の書と技術書。道・法・名・墨・縦横・雑・農・小説・兵・天文・暦数・五行・医方の十四類。
- 集
- もとの詩賦略。楚辞・別集・総集の三類。
- 付
- 道経・仏経
以上、合計89666巻の書物が記録されている[56]。『隋書』経籍志は、完全な形で現存する第二の目録であると同時に[57]、漢代以来の学術の流れを総括したものであり、その資料的価値は高い[15]。また、『隋書』経籍志は、『漢書』芸文志に次ぐ分類の基準を定め、以後の『旧唐書』『新唐書』などの正史の目録はこれに依拠しながら分類法を定めた[58]。また、日本の藤原佐世の『日本国見在書目録』も、『隋書』経籍志の分類法を取り込んだものである[59]。以後、『四庫全書総目提要』に至るまで、『隋書』経籍志の定めた基準が細かな改良を加えられながらも用いられ続けた[59]。
漢から隋唐にかけての書籍の流伝を知る上では、経書に関しては陸徳明の『経典釈文』序録、歴史書に関しては劉知幾の『史通』六家篇も有力な資料となる[31]。
宋代
『旧唐書』経籍志と『新唐書』芸文志
『旧唐書』は後晋の頃に作られ、経籍志はその一部である[60]。この目録はもともと開元年間(713年 - 741年)に毋煚が作った『古今目録』を抜粋したものであり、唐代初期の書物しか載せていない[60]。全体の分類としては、概ね『隋書』経籍志を踏襲している[60]。また、各部門の総論、各子目の総説はなく、全体の総論があるだけである[31]。内藤湖南は、これを目録の「退歩」であると表現している[31]。
『新唐書』は北宋の頃に作られ、芸文志はその一部で、同じく四部分類である[61]。各分類の中に「著録」と「不著録」の二種があり、前者は『古今目録』(また『旧唐書』経籍志)にやや手を加えたもの、後者は『古今目録』後にできた新たな唐代の書物を追加したものである[61]。総序は更に粗略になり、『旧唐書』経籍志までは、ある場所に現存していた書籍に対して作られた目録であるが、『新唐書』芸文志に至ると、編纂者が実見した書籍に対する目録なのかどうか判然としないものになった[31]。
崇文総目
同じく北宋の頃に、宋の宮廷図書館(崇文院)の書目として『崇文総目』が作られた。この本は南宋の頃から略本が用いられるようになり、現在は完全な形では伝わっていない[31]。北宋の文人である欧陽修は、『新唐書』の編纂者であると同時に、『崇文総目』の序録の執筆者でもある。この序録には、学問の変遷が整った体裁で記されており、後世の評価は高い[31]。また、もとは一部一部の本に解題が附されていたらしい[31]。
民間の蔵書目録
宋代に入り、木版印刷が盛んになるにつれて、徐々に書物の量が増え、個人の蔵書家も増えてきた[62]。個人の蔵書家による目録として著名なものに、南宋の尤袤『遂初堂書目』、晁公武『郡斎読書志』、陳振孫『直斎書録解題』の三書が挙げられる。
『遂初堂書目』は書名と巻数だけを挙げた書目である[31]。書物解題を備える最初の民間図書目録が『郡斎読書志』で、晁公武は手に入れた本を校勘しながら読み通し、それらの書物の要綱を書いた。これは、ある個人が実際に入手した本をもとに自ら書き記した記録であり、記事の信頼性はかなり高い[63]。また、『直斎書録解題』にはそれぞれの書物の入手経路などが合わせて書かれている点に特色があり、書物の解説を「解題」と称するのはこの本に始まるとされる[63]。
南宋には、先述した鄭樵のほか、高似孫・王応麟・馬端臨らも新たな目録学の知見を示した[31]。
元代・明代
『宋史』芸文志
元代になると『宋史』が編まれ、その一部に芸文志がある。これは従来、乱雑であると評価されている[31]。その著録方法は『新唐書』芸文志と同じであり、宋代に作られた四つの目録を一つに合わせた上で、「不著録」として宋代末頃の本を補ったものである[31]。ここに至って、正史の「芸文志」は行き詰まりを見せ、これより後に正史を編纂する時には、芸文志は作らないか、作るからには別の方法を取る、というように変化した[31]。
『文淵閣書目』と『国史経籍志』
明朝の蔵書目録が『文淵閣書目』である。前代の蔵書目録より全体の数量は遥かに多いが、書名と冊数だけを記録し、撰人の姓名さえ記録しない場合が多い[64]。これ以降、明の官蔵書目は十数種類のものが作られた[64]。
明代を通して目録学は下火であったが、明末になると、焦竑によって『国史経籍志』が作られた[31]。これは四部分類を用いながらも、細かな分類については『通志』の形式を取り入れている[31]。一部独自の分類法を試みたほか、附録として、『漢書』芸文志・『隋書』経籍志・『宋史』芸文志・『崇文總目』・『通志』・『郡斎読書志』などの古来の目録に対して、分類の誤りを正すなどの新たな議論を展開している[31]。各書に対する解題はないが、分類に対する総序はあり、学問の源流を論じるところもある[31]。その一部は『四庫提要』の序論のもととなった[31]。
書籍の流通量の増加に伴って、明末清初の間には蔵書家がますます増え、その目録も数多く作られた。『千頃堂書目』は後に『明史』芸文志の基礎となった[31]。他に『澹生堂書目』『絳雲楼書目』『汲古閣蔵書目』なども著名である。銭曾の『読書敏求記』は珍しい本を入手した際にそれを記録した目録で、最初の珍本収蔵の解題である[31]。
清代
四庫提要
解題を含めた目録の決定版として、清代に乾隆帝の命令で作られた『四庫全書総目提要(四庫提要)』がある。これは、『四庫全書』の編纂が進められる中で、「著録書」(定本が作成され、解題が附された書籍)と「存目書」(解題だけが作られた書籍)の解題(提要)だけを集めて作られた本である[65]。『四庫提要』は、一万種を超える書籍を掲載しながら、分類に対する説明と各書籍に対する説明を両方備えている(余嘉錫の分類でいう第一類)[66]。その解題では、書籍の内容のほか、著者や時代の来歴、刊本・写本といったテキストの問題が論じられている[67]。
『四庫提要』に対する補訂として、余嘉錫の『四庫提要弁証』、胡玉縉の『四庫提要弁証補正』などがある[68]。
現代の評価
シカゴ大学で漢籍整理を行った銭存訓は、伝統的な四部分類を近代に運用する際には、以下の欠点があると述べた[69]。
- 伝統的な目録学は、枠組みの中心に儒教を据えてきたこと。
- 枠組みが簡単すぎて、詳細を組み込めない構造になっていること。
- 枠組みに柔軟さがないこと。
こういった問題点は確かに存在しているが、中国の歴史上長く用いられてきた四部分類は強い根を張っており、近代になっても分類法を簡単に変更することはできなかった[69]。現代でも、中国内外を問わず、大量の漢籍を所有している図書館では、引き続き四部分類を基礎とする図書分類を使っている[69]。
また、近代中国の図書館の整備に当たった杜定友は、「図書の分類は学術の分類に基づく」という目録学の理念に対し、必ずしも両者は一致せず、学術史は学術史として別に記述するべきことを述べている[70]。
自来目録学者、必ず「弁章学術考鏡源流」を以て相い標榜し、以為く、是の如きに非ざれば以て其の道を尊ぶに足らざるなりと。知らず、学術源流の考鏡は、当に別に学術史著述史を撰して以て之を総論すべきを。今之あるを知らず、乃ち図書目録中に於いて之を述べんと欲するは、是れ能うべからざるなり。 — 杜定友、『校讎新義』巻八[70]
中国文学研究者の吉川幸次郎は、目録学は必要な技術ではあるが、書目を見ただけで読書した気になることは問題であると述べている[67]。
脚注
注釈
- ^ 「目録」という語の初出は、前漢の劉向『七略』の「尚書有青絲偏目録」である。また後漢の鄭玄に『三礼目録』という著作がある[1]。
- ^ 「校讐」という語の初出も劉向に遡り、彼の書いた『管子』の序録に「校讐」の語が、また『劉向別伝』に「讐校」という語が見える(『太平御覧』所引)[5]。
- ^ この冒頭部分は『隋書』経籍志の「総序」に当たる部分であり、興膳 & 川合 (1995, p. 3-32)に翻訳がある。
- ^ 「書」はbookの意味、「本」はversion、edition、textの意味[21]。「書」の情報が書名・撰者・巻数で、「本」の情報が出版事項(刊記・伝来・冊数)である[22]。但し、巻数・冊数の相違は、書の相違による場合と本の相違による場合とがある[22]。
- ^ 東京大学東洋文化研究所の四部分類一覧表も参照。
- ^ 経類・礼類・楽類・小学類・史類・諸子類・星数類・五行類・芸術類・医方類・類書類・文類の十二類[30]。
- ^ ほかに『説苑』『管子』『列子』『鄧析子』にも劉向の署名が残されているが、後人の改竄を被ったものであると余嘉錫は述べている。一方内藤湖南は、『管子』は劉向のものであると認める[40]。
- ^ 詩賦は本来的には「六芸略」の「詩」家に属するものであるが、本の数量が多かったことから独立したと阮孝緒『七録』は述べており、章学誠・余嘉錫もこれに従う[46]。
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