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崇文総目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

崇文総目』(すうぶんそうもく)は、北宋の勅撰の漢籍目録であり、宋の宮廷の蔵書閣である崇文院の書目である。もと66巻あったといい[1]、書物ごとに解題がつけられていた。後世には書名・著者・巻数のみからなる略本が伝わり、それに他の書物に見える解説を追加した本が行われている。

四部分類に従い、下位分類として45類[2]にわけている。子部の末尾に道書釈書を含めている。

なお、南宋でも『中興館閣書目』という同様の目録が作られたが、現存していない[3]

成立

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宋の宮廷で書籍を集めた建物を崇文院と呼んだが、大中祥符8年(1015年)の火災で多くの書物を失った[4]

景祐元年(1034年)に仁宗は王堯臣・王洙・欧陽脩らに命じて、崇文院の書物を整理させ[4]の『群書四部録』(現存せず)にならって目録を作った。慶暦元年(1041年)に完成し、仁宗は『崇文総目』の名を与えた[5]

略本と輯逸

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南宋年間に叙釈を除いた全1巻の略本が作られた[6]。のちには略本のみが行われて、本来の形の『崇文総目』は滅んだ。さいわい欧陽脩が書いた各類の叙釈は『欧陽文忠公集』に載せる「崇文総目叙釈」に残っている[7]。ほかに『文献通考』経籍考などに『崇文総目』からの引用が見える。

四庫全書』は『永楽大典』に載せる略本をもとに諸本の引用を補って12巻とした。その後、銭侗・銭東垣・銭繹・金錫鬯・秦鑑らは天一閣抄本をもとに叙釈を輯佚して注釈を加えた『崇文総目輯釈』5巻を嘉慶4年(1799年)に出版した(『汗筠斎叢書』本)。1936年には陳漢章『崇文総目輯釈補正』4巻が出版された。

評価

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鄭樵は『通志』において『崇文総目』を批判した。すでに分類によって何の書物であるかは明らかであるのに、書物ごとに解題があるのは無用であるとした[8]。『四庫全書総目提要』は『通志』を批判している。

なお、道書と雑史の分類については『通志』は『崇文総目』を高く評価している[9]

脚注

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  1. ^ 四庫全書総目提要』によると、本来の巻数は文献によって60巻から67巻まで異なる
  2. ^ 郡斎読書志』には46類とする
  3. ^ 王応麟玉海』 巻52・淳熙中興館閣書目 嘉定続書目https://archive.org/stream/06071056.cn#page/n198/mode/2up 
  4. ^ a b 江少虞『皇朝類苑』 巻31・蔵書之府https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543716/36 
  5. ^ 馬端臨文献通考』 巻174・経籍考一https://archive.org/stream/06077956.cn#page/n84/mode/2up 
  6. ^ 陳振孫『直斎書録解題』目録類・崇文総目一巻「今此惟六十六巻之目耳。題云紹興改定。」
  7. ^ 欧陽脩崇文総目叙釈」『欧陽文忠公集』 巻124http://ctext.org/library.pl?if=en&file=78269&page=102 
  8. ^ 『通志』校讐略・泛釈無義論一篇
  9. ^ 『通志』校讐略・崇文明於両類論一篇

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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