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「高度経済成長」の版間の差分

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経済学的には、戦争などによる資本[[フローとストック|ストック]]の大量の減少は、[[貯蓄率]]一定の場合その後の[[国民所得]]([[フローとストック|フロー]])の高成長をもたらすことが[[ロバート・ソロー|ソロー・モデル]]によって予測される。
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== 日本の高度経済成長期 ==
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=== 経緯 ===
=== 経緯 ===
==== 敗戦からの復興 ====
==== 敗戦からの復興 ====

2021年2月19日 (金) 02:09時点における版

高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)または、高度成長(こうどせいちょう)、高成長(こうせいちょう)とは、飛躍的に経済規模が継続して拡大することである。好景気時の実質経済成長率が約10%以上を表す。

概要

経済成長は条件が整うと飛躍的に上昇する場合がある。経済成長付加価値生産力の増大を意味するため、経済成長の条件には、

  • 付加価値生産力にかかわる充分な資源の存在
  • 生産された付加価値を消費する充分な需要
  • 新しい価値の形をもたらす技術革新
  • 資本の蓄積が低い状態で貯蓄率が高い
  • 豊富な労働力

などがある。とりわけ生産力増大のための投資が興隆した場合、経済は大きく成長する。投資は生産力と雇用を増大させると同時に乗数効果により需要を生み出す(投資の二重性)。投資が需要と供給の双方を生み出すことで付加価値生産は増大する。

一方でこの需要と供給の急増大が雇用との関係も含めてバランス(ナイフ・エッジの均衡)をとるのは難しく、様々な要因で高度成長はストップする。

経済学的には、戦争などによる資本ストックの大量の減少は、貯蓄率一定の場合その後の国民所得フロー)の高成長をもたらすことがソロー・モデルによって予測される。

日本の高度成長期

日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年昭和29年)12月(日本民主党第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党第2次田中角栄内閣)までの約19年間である[1]。この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。

1968年には国内の郵便番号制度とユーロクリアができて、それから手形交換制度のオンライン化が急速に進んだ。また、第一次世界大戦における勝利以降、日本がイギリスアメリカなどと並んで「五大国」の一国に数えられていた昭和前期の日中戦争の前後から、第二次世界大戦後期においてアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなり工業生産に影響が出てくる1944年前後までの期間も、軍需に支えられた統制経済下にあるとはいえ経済成長率自体は高度成長期に匹敵する。

経緯

敗戦からの復興

第二次世界大戦において、アメリカ・イギリス・中国の連合国に敗北し、朝鮮半島満州などの植民地を喪失した上に、敗北による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は焼け野原の中から復興した。1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年朝鮮戦争特需により1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年には経済白書が もはや戦後ではないと宣言、1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実行の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。

この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。

GNP第2位へ

1960年代から1970年代の高度経済成長期には1964年に開催された東京オリンピック1970年に開催された大阪万博などによる特需などがあった。そして1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となった。東海道新幹線東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備されていった。また、戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。現在では、「戦後#第二次世界大戦後」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。

この時代、テレビ洗濯機冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を少しずつ促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。

証券不況(昭和40年不況)

順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。 しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した[2]。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。

こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。

安定成長期(中成長期)へ移行

日本が債権国となった1970年代直前には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した[3]

1971年ニクソン・ショックによる実質的な円の切り上げは国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。第二次世界大戦後初めて実質マイナス成長を経験し高度経済成長時代は終焉を迎えた。この頃から財政政策による景気回復が主張されるようになった。

その後は安定成長期(1973年12月よりバブル崩壊1991年2月まで)へと移行する。第二次ベビーブームが終わり、第2次オイルショック時の1980年以後の日本は少子化の道を歩むこととなった[4]1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の崩壊以後も趨勢として実質経済成長は続いたものの、失われた20年で知られる低成長期に入ることとなる[5]

弊害

経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった各地の公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。

また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年第2次佐藤内閣による公害対策基本法の制定や1972年田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。

高度成長期には、近代的なインフラが集中的に建設されたため、2020年代以降、一斉に寿命を迎えて利用に支障を来すなど社会問題化することが予見されている[6]。このため政府は、2013年より「インフラ長寿命化基本計画」を立案して対策に乗り出している[7]

各国の飛躍的な経済成長

脚注

  1. ^ 高度成長期の期間は公的に定められていないので、経済学者や専門家などで人それぞれの考え方によって期間の違いはある[要出典]
  2. ^ この周辺の経緯を基にしたのが「華麗なる一族」である
  3. ^ 草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P 265-266
  4. ^ 鬼頭宏 『図説人口で見る日本史 縄文時代から近未来社会まで』 PHP研究所2007年7月、168-170頁。ISBN 978-4-569-69204-3
  5. ^ ただし安定成長期そのものはバブル景気崩壊と共に終わり、以後は低成長期となった
  6. ^ 橋を取り巻く交通環境と進行する高齢化”. 国立研究開発法人 土木研究所. 2018年8月25日閲覧。
  7. ^ インフラ長寿命化基本計画”. インフラ老朽化対策の推進に関する関係省庁連絡会議 (2013年11月). 2018年8月25日閲覧。

参考文献

関連項目