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== 経歴 ==
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[[1934年]](昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、[[日本体育協会|大日本体育協会]]専務理事、[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]組織委員会事務局長などを務めた{{sfn|人事興信録 第11版|1937|ref=ji11}}{{sfn|人事興信録 第12版|1939|ref=ji12}}。
[[1934年]](昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、[[日本体育協会|大日本体育協会]]専務理事、[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]組織委員会事務局長などを務めた{{sfn|人事興信録 第11版|1937|ref=ji11}}{{sfn|人事興信録 第12版|1939|ref=ji12}}。

2020年12月30日 (水) 09:33時点における版

久保田敬一

久保田 敬一(くぼた けいいち、1881年明治14年)4月13日[1]1976年昭和51年)1月27日[2])は、日本鉄道官僚工学博士貴族院男爵議員

経歴

男爵文部大臣久保田譲の長男として生まれ、1936年(昭和11年)に襲爵した[3]1905年(明治38年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業[1]アメリカ合衆国に留学し、鉄道・橋梁建築を学んだ[1]。帰国後、鉄道院雇、同技師、東京建設事務所長、鉄道省建設局線路調査課長、同工事課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道省運輸局長、鉄道次官などを歴任した[1][3]。運輸局長の時には外国産のバスに押されていたところ、国産バスの開発推進を菅健次郎に指示した[4]

1934年(昭和9年)に退官した後は、鉄道協会理事、大日本体育協会専務理事、東京オリンピック組織委員会事務局長などを務めた[3][5]

1938年(昭和13年)に貴族院議員に選出され[6]、貴族院廃止まで在任した[2]

1943年(昭和18年)には日本通運社長に就任した。その他、帝都高速度交通営団評議員などを務めた[2]

親族

  • 広井勇 - 妻の父[1]。土木工学者。東京帝国大学教授。

脚注

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第11版(上)』人事興信所、1937年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(上)』人事興信所、1939年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
日本の爵位
先代
久保田譲
男爵
久保田(譲)家第2代
1936年 - 1947年
次代
華族制度廃止