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[[岐阜県]]出身。[[米穀店|米穀商]]・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。[[岐阜県立岐阜高等学校|岐阜中学]]、[[東京都立戸山高等学校|城北中学]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、1905年(明治38年)7月、[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し[[銀時計]]を授与された。卒業後[[農商務省 (日本)|農商務省]]嘱託となり、同年11月、[[高等文官試験]]に合格。農商務属・商工局勤務、[[内閣法制局|法制局]][[参事官]]、[[南満洲鉄道|満鉄]]理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。 |
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1912年(明治45年)1月、[[鉄道院]]参事・総裁官房監査課兼秘書課に就任。以後は鉄道畑を歩み、監督局総務課長、鉄道院理事・鉄道院監督局長、[[鉄道省]]監督局長などを歴任。1919年([[大正]]8年)4月22日、[[ |
1912年(明治45年)1月、[[鉄道院]]参事・総裁官房監査課兼秘書課に就任。以後は鉄道畑を歩み、監督局総務課長、鉄道院理事・鉄道院監督局長、[[鉄道省]]監督局長などを歴任。1919年([[大正]]8年)4月22日、[[文部大臣]]より「再保険論」に対し[[博士(法学)|法学博士]]号が授与された<ref>『官報』第2066号、大正8年6月24日</ref>。1920年(大正9年)10月から翌年11月まで[[国際連盟]]交通総会日本専門委員を務める。その他、[[鉄道会議]]幹事、臨時法制審議会委員などを歴任。 |
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1922年(大正11年)2月、[[大阪市交通局|大阪市電気局長]]となり、1924年(大正13年)1月、[[清浦内閣]]の[[法制局長官]]となり同年6月まで在任。辞任後すぐに貴族院勅選議員に勅任され[[研究会 (貴族院)|研究会]]に属し1932年(昭和7年)6月まで活動した。 |
2020年12月30日 (水) 09:23時点における版
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佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、日本の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。
来歴
岐阜県出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学、第一高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、高等文官試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
1912年(明治45年)1月、鉄道院参事・総裁官房監査課兼秘書課に就任。以後は鉄道畑を歩み、監督局総務課長、鉄道院理事・鉄道院監督局長、鉄道省監督局長などを歴任。1919年(大正8年)4月22日、文部大臣より「再保険論」に対し法学博士号が授与された[1]。1920年(大正9年)10月から翌年11月まで国際連盟交通総会日本専門委員を務める。その他、鉄道会議幹事、臨時法制審議会委員などを歴任。
1922年(大正11年)2月、大阪市電気局長となり、1924年(大正13年)1月、清浦内閣の法制局長官となり同年6月まで在任。辞任後すぐに貴族院勅選議員に勅任され研究会に属し1932年(昭和7年)6月まで活動した。
1926年(大正15年)6月、第1次若槻内閣の鉄道政務次官に就任し、1927年(昭和2年)4月まで在任。その他、鉄道会議臨時議員、資源審議会委員などを務めた。1929年(昭和4年)、越後鉄道疑獄で逮捕され有罪判決を受けた。その後、大阪鉄道株式会社社長や大鉄百貨店社長を務めた。
戦後は阪急バス社長、日東産業社長を歴任。
著訳書
- 著書
- 佐竹三吾述『保險法』中央大学、1909年。
- 佐竹三吾監修『大鐵全史』近畿日本鉄道、1952年。
- 訳書
- バートン(Theodore E. Burton)『財界恐慌論』清水書店、1926年。
親族
脚注
- ^ 『官報』第2066号、大正8年6月24日
参考文献
公職 | ||
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先代 松本烝治 |
法制局長官 清浦内閣:1924年 |
次代 塚本清治 |