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2020年12月30日 (水) 09:15時点における版
藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日(文久4年1月5日) - 1927年4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。
1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。参謀本部員、兼陸大教官などを歴任し、1904年(明治37年)2月、第12師団兵站参謀長に発令され日露戦争に出征。第3軍兵站参謀長、鴨緑江軍兵站参謀長を歴任。
1906年(明治39年)5月、参謀本部付となり、第6師団参謀長を経て、1907年(明治40年)11月、陸軍大佐に進み歩兵第22連隊長に着任。歩兵第3連隊長、近衛師団参謀長を歴任し、1912年(明治45年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に就任。独立守備隊司令官を経て、1916年(大正5年)8月、陸軍中将となり第7師団長を拝命しシベリア出兵に従軍。1919年(大正8年)11月、近衛師団長に就任し、1922年(大正11年)2月に待命となり、同年5月、予備役に編入された。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 1896年(明治29年)4月11日 - 功五級金鵄勲章・勲六等瑞宝章[4]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[5]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[6]