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[[東京高等師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]]、1935年卒業)では[[鶴見俊輔]]や[[中井英夫]]などが同級生であった<ref>「哲学者の鶴見俊輔さん(ことば抄)」 [[朝日新聞]]、1996年12月28日、2014年8月5日閲覧</ref>。東京高等師範学校附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])の3年生より[[サッカー]]を始め、4年生でレギュラーとなり、5年生で主将を務め<ref>[[#履歴書|履歴書]] p.334</ref>、[[1940年]]に中学を卒業した。 |
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中学卒業後は[[旧制高等学校]]を受験したが、1940年および1941年と2年連続で受験に失敗して浪人生活を送った。浪人時代の友人に上掲の中井がいた<ref>[[#履歴書|履歴書]] p.335-336</ref>。1942年も旧制高等学校の受験に失敗したものの、[[上智大学]][[経済学部]]経済学科に合格して同大学に進学した<ref name="yuho"/><ref>[[#履歴書|履歴書]] p.336</ref>。なお、後に[[文部大臣]]を務めた[[永井道雄]]が同学年に当たる<ref>[[#履歴書|履歴書]] p.337</ref>。大学時代はサッカー部に所属し、[[東京都大学サッカーリーグ]]でプレーした<ref>[[#履歴書|履歴書]] p.339</ref>。 |
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1943年11月、[[太平洋戦争]]に伴って兵役に就き、同年12月より福島県、宮城県で訓練を受けた<ref>[[#履歴書|履歴書]] p.341</ref>。1944年12月に[[見習士官]]となり、1945年8月の終戦を兵庫県加古川で迎え、同年10月に東京の自宅へ戻った<ref name="履歴書342">[[#履歴書|履歴書]] p.342</ref>。終戦後は上智大学に復学して[[1947年]]に卒業した<ref name="asahi"/>が、同期入学120名の内で卒業したのは28名であった<ref name="履歴書342"/>。 |
2020年12月30日 (水) 09:06時点における版
もろはし しんろく 諸橋 晋六 | |
---|---|
生誕 |
1922年7月13日 日本 東京都 |
死没 | 2013年6月23日(90歳没) |
出身校 | 上智大学経済学部卒業 |
職業 |
実業家 三菱商事元特別顧問・相談役・会長・社長 |
受賞 |
勲一等瑞宝章受章 名誉大英帝国勲章受章 贈従三位 |
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名前 | ||||||
カタカナ | モロハシ シンロク | |||||
ラテン文字 | MOROHASHI Shinroku | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1922年7月13日[1] 大日本帝国、東京府北豊島郡[2] | |||||
没年月日 |
2013年6月23日(90歳没) 日本、東京都 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1937-1939 | 東京高等師範学校附属中学校 | |||||
1942-1947 | 上智大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
三菱商事 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
諸橋 晋六(もろはし しんろく、1922年7月13日 - 2013年6月23日)は、日本の実業家、サッカー選手。東京府北豊島郡出身。三菱商事株式会社元特別顧問・相談役・代表取締役会長・代表取締役社長。勲一等瑞宝章受章。名誉大英帝国勲章受章。贈従三位。
来歴
東京府北豊島郡高田町で五人兄弟の三男(兄2人、姉1人、妹1人)として生まれた[2]。父は後に大漢和辞典の編者となる諸橋轍次、母・キンは小千谷縮の商家の出身であり、詩人の西脇順三郎は母の従兄弟であった[3]。自宅の近くに菊池寛の居宅があり、幼少期は菊池の息子の英樹とよく遊んでいた[4]。
東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校、1935年卒業)では鶴見俊輔や中井英夫などが同級生であった[5]。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の3年生よりサッカーを始め、4年生でレギュラーとなり、5年生で主将を務め[6]、1940年に中学を卒業した。
中学卒業後は旧制高等学校を受験したが、1940年および1941年と2年連続で受験に失敗して浪人生活を送った。浪人時代の友人に上掲の中井がいた[7]。1942年も旧制高等学校の受験に失敗したものの、上智大学経済学部経済学科に合格して同大学に進学した[1][8]。なお、後に文部大臣を務めた永井道雄が同学年に当たる[9]。大学時代はサッカー部に所属し、東京都大学サッカーリーグでプレーした[10]。
1943年11月、太平洋戦争に伴って兵役に就き、同年12月より福島県、宮城県で訓練を受けた[11]。1944年12月に見習士官となり、1945年8月の終戦を兵庫県加古川で迎え、同年10月に東京の自宅へ戻った[12]。終戦後は上智大学に復学して1947年に卒業した[13]が、同期入学120名の内で卒業したのは28名であった[12]。
大学卒業後の1947年に三菱商事へ入社したが、後に諸橋は父の口添えがあったのではないかと語っている[14]。入社後は同社サッカー部に所属し、1947年には加茂健らと共に開催された関東実業団サッカー大会の優勝メンバーに名を連ねた[13][15]。
1958年にマニラに赴任。一度東京に戻った後、1964年よりロンドンに赴任した。なお、ロンドン駐在時に元日本代表で三菱化成社長(当時)であった篠島秀雄の協力を得て『三菱ダイヤモンド・サッカー』(東京12チャンネル→テレビ東京)の番組開始に尽力した[16]。
その後はマニラ支店長およびロンドン支店長、欧州三菱商事の副社長を務めた。1980年6月に三菱商事の取締役兼ロンドン支店長[1]、1983年6月に常務取締役[1]、1985年6月に副社長を歴任[1]。
1986年11月、社長(当時)の近藤健男が就任後5か月で死去したのに伴い、社長に就任した[1][13]。1992年6月に社長を退任して、取締役会長に就任[1]。1998年より相談役、2004年より特別顧問をそれぞれ務めた。また、2001年には勲一等瑞宝章を受章し、同年中に日本サッカー協会の4級審判のライセンスを取得した。
2013年6月23日、心不全のため死去[17]。2014年8月、日本サッカー殿堂に特別選考により選出された[18]。
役職
- 財団法人旭硝子財団理事
- 社団法人日本工業倶楽部専務理事
- 財団法人新日本フィルハーモニー交響楽団評議員
- 財団法人三菱財団評議員
- 在東京モナコ公国名誉総領事
- 日本商工会議所特別顧問[19]
- 東京商工会議所副会頭[19]
受章歴
出典
- 『私の履歴書 経済人32』日本経済新聞社、2004年6月1日。ISBN 453216902X。
脚注
- ^ a b c d e f g 三菱商事 有価証券報告書(1997年3月期)、2014年8月11日閲覧
- ^ a b 履歴書 p.327
- ^ 履歴書 p.328
- ^ 履歴書 p.328
- ^ 「哲学者の鶴見俊輔さん(ことば抄)」 朝日新聞、1996年12月28日、2014年8月5日閲覧
- ^ 履歴書 p.334
- ^ 履歴書 p.335-336
- ^ 履歴書 p.336
- ^ 履歴書 p.337
- ^ 履歴書 p.339
- ^ 履歴書 p.341
- ^ a b 履歴書 p.342
- ^ a b c 「諸橋晋六さん 三菱商事社長に就任(ひと)」 朝日新聞、1986年11月26日、2014年8月5日閲覧
- ^ 履歴書 p.346
- ^ 履歴書 p.390
- ^ 履歴書 p.391
- ^ “諸橋晋六氏が死去 三菱商事元社長”. 日本経済新聞 (2013年6月27日). 2014年8月4日閲覧。
- ^ "第11回日本サッカー殿堂 掲額者発表" (Press release). 日本サッカー協会. 2014-8-4. 2014-8-4閲覧。
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の日付が不正です。 (説明) - ^ a b 日本・ミャンマー商工会議所ビジネス協議会第2回合同会議 概要報告 第9回日本・バングラデシュ商業・経済協力合同委員会 2020年3月11日閲覧
関連項目
- 筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧
- 槙原稔:三菱商事の後任社長