加茂健
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名前 | ||||||
カタカナ | カモ タケシ | |||||
ラテン文字 | KAMO Takeshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 |
1915年2月8日 大日本帝国、静岡県浜松市 | |||||
没年月日 |
2004年3月26日(89歳没)[1] 日本、東京都 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
チーム | ||||||
浜松第一中学校 | ||||||
早稲田第一高等学院 | ||||||
1932-1937 | 早稲田大学 | |||||
代表歴 | ||||||
1936[2] | 日本 | 2 | (0) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。
経歴
[編集]静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。浜松一中では5年時にキャプテンを務め、中部大会に優勝した。
早稲田大学入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、背番号10を付けた[3]。1回戦のスウェーデン代表戦に出場し、ベルリンの奇跡の立役者となった。また、2回戦のイタリア代表戦にも出場した[2][4]。
また、1938 FIFAワールドカップ・予選および1940年東京オリンピック の日本代表にも選出されたが、試合会場となるベトナムへの渡航に難色を示した大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)によりW杯予選への不参加が決定された。また、東京五輪も中止されたため、代表としての出場機会は無かった[3]。
1939年1月、日本軍に召集され、戦後は神奈川県川崎市などに在住した[3]。
2004年3月26日、心不全により死去し、東京都品川区で葬儀が行われた[1]。
なお、戦後にサッカー日本代表監督を務めた加茂周およびその兄の加茂豊、弟の加茂建との血縁関係はない[5]。
所属クラブ
[編集]- 静岡県浜松師範学校付属小学校(現・静岡大学教育学部附属浜松小学校)
- 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)
- 早稲田第一高等学院
- 1932年-1937年 早稲田大学
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 2試合 0得点(1936)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1936 | 2 | 0 | 4 | 1 | 6 | 1 |
1937 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1938 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 |
通算 | 2 | 0 | 5 | 2 | 7 | 2 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1936年08月04日 | ベルリン | スウェーデン | ○3-2 | 鈴木重義 | オリンピック | |
2. | 1936年08月07日 | ベルリン | イタリア | ●0-8 | オリンピック |
著書
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- 加茂健 - Olympedia
- 加茂健 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 加茂健 - National-Football-Teams.com
- 加茂健 - WorldFootball.net
- 加茂健 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 加茂健 - FIFA主催大会成績
- ドイツの批評家を驚かせたベルリン五輪代表FW 疾走中の見事なボール処理 加茂健