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2020年12月30日 (水) 08:56時点における版
奈良県立畝傍高等学校 | |
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過去の名称 |
奈良県尋常中学校畝傍分校 奈良県畝傍中学校 奈良県立畝傍中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 奈良県 |
学区 | 全県一学区 |
併合学校 | 奈良県立耳成高等学校 |
校訓 | 至誠・至善・堅忍・力行 |
設立年月日 | 1896年(明治29年) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 |
全日制課程 定時制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 |
3学期制(全日制課程) 3学期制(定時制課程) |
高校コード | 29112K |
所在地 | 〒634-0078 |
奈良県橿原市八木町3-13-2 北緯34度30分33.9秒 東経135度47分57秒 / 北緯34.509417度 東経135.79917度座標: 北緯34度30分33.9秒 東経135度47分57秒 / 北緯34.509417度 東経135.79917度 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
奈良県立畝傍高等学校(ならけんりつ うねびこうとうがっこう、英語:Nara Prefectural Unebi Senior High School)は、奈良県橿原市八木町に所在する公立高等学校。通称「畝高(うねこう)」。
設置課程・学科
- 全日制・定時制とも一般選抜のみ。
概要
歴史
1896年(明治29年)奈良県尋常中学校(奈良県立郡山高等学校の前身)畝傍分校として開校[2][5]。1899年(明治32年)に独立して奈良県畝傍中学校となる[2][5]。1948年(昭和23年)の学制改革により、新制の奈良県立畝傍高等学校となった(4月時点では男子校、同年9月より男女共学)[2][5]。2016年(平成28年)に創立120周年記念式典を開催した。
その他
- 校訓
- 校章
- 校歌
- 制服
- 同窓会
- 校章にちなみ「金鵄会」(きんしかい)と称している。なお旧・耳成高等学校の同窓会は統合されておらず、「奈良県立耳成高等学校同窓会(Miminashi21)」として別個に存在している[10]。
沿革
旧制中学校時代
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)5月5日 - 新校舎が完成。
- 1899年(明治32年)4月1日 - 奈良県尋常中学校から分離し、「奈良県畝傍中学校」と改称。奈良県尋常中学校は奈良県郡山中学校に改称。初代校長に永井道明が就任[11]。
- 1901年(明治34年)6月21日 - 「奈良県立畝傍中学校」と改称(県の後に「立」を置く)。
- 1933年(昭和8年)10月25日 - 現在地に本館校舎が完成し、移転を完了。
- 1941年(昭和16年)8月 - 第27回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)に出場予定であったが、日華事変激化で大会は中止。幻の大会となる。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)- 勤労動員が開始。
- 1945年(昭和20年)
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行の前倒しが決定し、4年生と5年生の合同卒業式を挙行。
- 中等学校令施行以前の入学生(1941年(昭和16年)入学生と1942年(昭和17年)入学生)にも修業年限4年(従来の5年制から1年短縮)が適用された。
- 4月1日 - 本館校舎を海軍経理学校へ提供し、中学校は晩成国民学校(現・橿原市立晩成小学校)の校舎を借用して設置する。
- 学校での授業が停止される。ただし勤労動員等は継続される。
- 8月15日 - 終戦。
- 9月1日 - 終戦および海軍経理学校の解散により、本校舎に戻って授業を再開。
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行の前倒しが決定し、4年生と5年生の合同卒業式を挙行。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻される(4年修了時点で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止する。
- 新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を併設中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 旧制中学校3・4年修了者は旧制中学校にそのまま在籍し、4・5年生となった。
新制高等学校時代
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1951年(昭和26年)11月 - 昭和天皇が来校(校庭が高市郡奉迎場となったため)。
- 1954年(昭和29年)11月3日 - 校歌を制定。
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 図書館が完成。
- 1958年(昭和33年)11月19日 - 講堂を増築。
- 1960年(昭和35年)5月17日 - プールが完成。
- 1967年(昭和42年)1月20日 - 新体育館が完成。
- 1969年(昭和44年)12月31日 - 鉄筋コンクリート造4階ての建特別教室新館が完成。
- 1976年(昭和51年)11月3日 - 創立80周年を記念して金鵄会館(同窓会館)が完成。
- 1986年(昭和61年)11月3日 - 創立90周年を記念して新南館、史料館、図書室が完成。
- 1989年(平成元年)8月21日 - 格技場、体育研究室、更衣室、部室新築工事、ハンドボールコート、テニスコートを新設。
- 1990年(平成2年)8月31日 - 校舎の大規模改修工事が完了。
- 1996年(平成8年)
- 2004年(平成16年)4月1日 - 奈良県立耳成高等学校を統合(耳成の読みは「みみなし」)。
- 2005年(平成17年)12月16日 - 新校章を制定。
- 2007年(平成19年)3月 - 野球部が第79回選抜高等学校野球大会21世紀枠近畿地区代表に選出される。
- 2008年(平成20年)4月1日 - 奈良県立高田高等学校の定時制課程を統合。
- 2012年(平成24年)4月20日 - 校舎本館の北館・南館・渡廊下と倉庫(旧動力室)が国の登録有形文化財に登録される[12][13]。
- 2014年(平成26年)3月28日 - 文部科学省より、2014年度(平成26年度)のスーパーグローバルハイスクール(SGH)に指定される[14][15]。
旧・奈良県立耳成高等学校
- 1983年(昭和58年)4月1日 - 橿原市常盤町に「奈良県立耳成高等学校」が開校。全日制課程普通科を設置。
- 校訓「敬愛、力行、創造」
- 校章は樫の6枚葉を背景に「高」の文字。
- 校歌の作詞は栢木喜一、作曲は中嶋英俊による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「耳成高校」が登場する。
- 1995年(平成7年)12月 - 第74回全国高等学校サッカー選手権大会に奈良県代表として出場(初)。
- 2000年(平成12年)12月 - 第79回全国高等学校サッカー選手権大会に奈良県代表として出場(2度目)。
- 2004年(平成16年)4月1日 - 奈良県立畝傍高等学校への統合のため、生徒募集を停止。ただし経過措置として在校生が卒業するまで学校は存続[16]。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 閉校。
校地の変遷
- 旧校地
- 1933年(昭和8年)以前の旧・所在地は、元スーパー・ヤマトー八木店(旧ニチイ八木店(閉店))およびその東向かいに相当。
- 現校地
- 旧・耳成高校の校地跡
校舎
現校舎(本館―北館と南館から成る)は旧制中学時代より使用されているもので、1933年(昭和8年)に完成。建築にあたっては、建国神話の土地柄にふさわしい校舎にするため、当時の奈良県は建築費として破格の予算を計上した。寺師通尚と岩﨑平太郎(当時・奈良県土木課営繕係建築技手、のちに奈良県下初の民間建築設計事務所を開設)の設計で、帝冠様式を思わせる仏教様式が引用的に採用されている[20]。日本建築学会より美的建築物として「日本近代建築二千」に選出されており、2012年(平成24年)4月20日に校舎本館の北館・南館・渡廊下と倉庫(旧動力室)が国の登録有形文化財に登録された[12][13]。奈良県が実施した県立高校校舎の耐震診断で、本館が耐震補強の必要ない「A1」と判定されている。耐震改修も適宜施されている[21]。校舎・教室・設備はすべて全日制・定時制が共用している。定時制専用校舎・教室はない。
- 校長室
- 史料館
- 文化創造館
- 1996年(平成8年)に完成。地上3階建て。空調設備完備。可動式座席(462席)を備え、学校行事に限らず広く一般に開放される。
学校行事
全日制課程
3学期制。
(出典:[2])
- 4月 - 入学式
- 5月 - 体育大会、校外学習
- 6月 - 音楽鑑賞会
- 7月 - 人権芸術鑑賞会
- 8月 - 大学見学会、SSH連携校研究講座
- 9月 - 畝高祭(文化祭)
- 10月 - 球技大会、修学旅行
- 11月 - 古典芸術鑑賞会
- 12月 - 文化部発表会、文化講演会
- 1月 - 新春かるた大会
- 2月 - Seminar for U
- 3月 - 卒業式、人権教育学習会
定時制課程
3学期制。
- 1学期
- 4月 - 入学式、新入生オリエンテーション、対面式、個人面談
- 5月 - スポーツテスト、中間考査
- 6月 - 人権講演会、安全教育講話
- 7月 - 期末考査、三者面談、学力補充講座、面接マナー講習会
- 8月 - 進学就職補習
- 2学期
- 9月 - 個人面談、文化映画会、ボウリング大会
- 10月 - 中間考査、人権学習会
- 11月 - 文化祭
- 12月 - 期期末考査、学力補充講座、実力養成講座
- 3学期
- 1月 - 人権学習会、生徒会役員改選、4年学年末考査
- 2月 - 1~3年学年末考査
- 3月 - 卒業式
部活動
全日制課程
(出典:[22])
- 文化部
- 体育部
定時制課程
- 文化部
- ハートフル部 - ボランティア
- パソコン部
- 体育部
- バドミントン部
- 野球部
- 陸上部
エピソード
戦時中の海軍経理学校への校舎貸与
- 第二次世界大戦末期の数ヶ月間、校舎が海軍経理学校に貸与され、橿原分校が設けられた。その間、授業は晩成小学校校舎を借りて続けられた。当時校舎の塔屋には十六弁の菊花紋章が掛けられ、屋上には電波探知機、高射機関砲、防空監視施設が設置されていた。校庭外周フェンス等に、戦時中の金属供出による爪跡が残る。校舎正面の校章の左上に米空軍の機関銃があたり、セメントで埋められた跡(と伝えられる)が数か所ある[23]。
戦時中の旧制中学校
- 第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)の時点でも他の多くの学校とは異なり、勝利のためには敵の言語を知ることが不可欠と考えられていたため、「敵国語」とみなされていた英語の授業が週に12時間、行われていた[24]。
- 旧制中学校時代、教員の質が非常に高かったこともあり、多くの教員が戦後の学制改革時に大学教員として引き抜かれた[25]。
舞台となった作品
- NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996年(平成8年)~1997年(平成9年)。主人公野田麗子(演:菊池麻衣子)が通った「大阪府立紹鴎高校」。
- 映画「朱花の月」(2011年(平成23年))- 監督 : 河瀬直美
- 映画「少年H」(2013年(平成25年))- 監督 : 降旗康男
著名な出身者
文学・思想・芸術・宗教
- 阿波野青畝 - 俳人、『ホトトギス』の中心的同人、校内の金鵄会館(同窓会館)中庭に句碑あり―「狐火やまことかほにも一くさり」
- 保田與重郎 - 文芸評論家、日本浪曼派、戦後保守論壇の中心人物
- 五代ゆう - 小説家、ファンタジア長編小説大賞受賞者
社会活動
- 西光万吉 - 部落解放・社会運動家、全国水平社創立者の一人、「水平社宣言」執筆者(中退後、平安中学へ編入学)
- 前川喜作 - 実業家、和敬塾創設者
- 島中雄三 - 文筆家、社会主義運動家、安部磯雄らとともに日本フェビアン協会結成、さらに社会民衆党創設、東京市会議員、嶋中雄作の兄
- 嶋中雄作 - 中央公論社社長、『婦人公論』創刊。反軍的な自由主義を貫き、1944年言論弾圧事件である横浜事件に連座
- 山下力 - 部落解放運動家、『被差別部落のわが半生』著者
- 堀井良殷 - 公益財団法人関西・大阪21世紀協会理事長、NHK大阪放送局長、理事総局長
政治
- 新谷寅三郎 - 自民党参議院議員、郵政大臣、運輸大臣、自民党両院議員総会長
- 奥野誠亮 - 自民党元衆議院議員、文部大臣、法務大臣
- 吉田之久 - 民社党(のち新進党)衆議院議員・参議院議員、国会対策委員長
- 高市早苗 - 自民党衆議院議員、内閣府特命担当大臣、総務大臣
- 大西孝典 - 民主党元衆議院議員
- 阿古和彦 - 葛城市長
- 堀内大造 - 大和高田市長
経済
- 奥村太加典 - 奥村組社長、全国建築業協会会長、大阪建設業協会会長
- 阪本道隆 - 南都銀行頭取、奈良商工会議所会頭、金鵄会会長、大阪税関名誉署長
- 西川善文 - 日本郵政初代社長、日本郵政公社第二代総裁、三井住友フィナンシャルグループ社長、三井住友銀行特別顧問、全国銀行協会会長、『ザ・ラストバンカー』著者
- 辻本憲三 - カプコン会長兼最高経営責任者(CEO)、コンピュータソフトウェア著作権協会理事長、コンピュータエンターテインメント協会会長
- 脇田珠樹 - ニッセンホールディングス社長、シャディ会長、イトーヨーカ堂取締役、Francfranc取締役、セブン-イレブン・インク(米7-Eleven, Inc.)取締役
- 西井孝明 - 味の素社長
学術・教育
- 森本六爾 - 考古学者、唐古・鍵遺跡発掘、東京考古学会主宰者、松本清張作『断碑』のモデル
- 樋口清之 - 考古学者、民俗学者、國學院大學名誉教授
- 網干善教 - 考古学者、関西大学名誉教授、高松塚古墳の発掘調査を指揮
- 田村圓澄 - 日本古代仏教史、九州大学名誉教授、『日本仏教史』、『古代日本の国家と仏教』著者、仏教伝道協会仏教伝道文化賞受賞
- 山内得立 - 哲学者、京都大学名誉教授、京都学芸大学(現京都教育大学)学長、『意味の形而上学』、『ロゴスとレンマ』、『随眠の哲学』著者、京都市名誉市民
- 大峯顕 - 哲学者、俳人(毎日俳壇選者)、浄土真宗教学研究(浄土真宗本願寺派)、大阪大学名誉教授
- 森一郎 - 英語学、『試験にでる英単語』著者、東京都立日比谷高等学校教諭、関西学院大学教授
- 畑中正一 - ウイルス学、京都大学名誉教授、塩野義製薬相談役、『現代ウイルス事情』著者、『iPS細胞ができた!』著者(共著者は山中伸弥)
- 脇田宗孝 - 工芸・文化財教育、奈良教育大学名誉教授、陶芸作家、『世界やきもの紀行』著者
官僚・軍人
芸能・スポーツ
- 麿赤児 - 俳優、舞踏家、演出家
- 松村又一 - 作詞家、代表作に「お月さん今晩わ」(こまどり姉妹)、「想い出のブルース」(淡谷のり子)等
- 新口絢子 - フリーアナウンサー
- 戸田与三郎 - プロ野球選手(南海)
- 梅本由紀 - 女子プロ野球選手・京都アストドリームス(旧・耳成高校時に入学)
交通アクセス
脚注
- ^ a b “学校要覧”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g “平成26年入学案内”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ a b “畝高Q&A”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ “教育課程”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ a b c “沿革概要”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ a b c “校章・校訓・校旗・校歌”. 奈良県立畝傍高等学校. 2015年6月8日閲覧。
- ^ 「しいぜん」とも。
- ^ 「りきこう」、「りっこう」とも。
- ^ 宿毛歴史館/宿毛人物史/北見志保子
- ^ 奈良県立耳成高等学校同窓会ウェブサイト
- ^ 永井道明先生後援会『遺稿 永井道明自叙伝』大空社〈伝記叢書 36〉、1988年3月17日、28, 91頁頁。全国書誌番号:88039498
- ^ a b 文化庁報道発表「登録有形文化財(建造物)の登録について」 (PDF)
- ^ a b 4/20畝傍高校、登録文化財に
- ^ “平成26年度スーパーグローバルハイスクールの指定について”. 文部科学省 (2014年3月28日). 2015年5月10日閲覧。
- ^ “スーパーグローバルハイスクール指定校一覧”. 文部科学省. 2015年5月10日閲覧。
- ^ 奈良県立高等学校等設置条例改正の概要 - 奈良県ウェブサイト
- ^ “新しく橿原総合庁舎を設置しました”. 奈良県ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ “橿原総合庁舎屋上庭園がオープンします”. 奈良県総務部ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ “橿原総合庁舎屋上庭園開園記念式典オープニングイベントの開催について”. 奈良県総務部ファシリティマネジメント室. 2015年8月3日閲覧。
- ^ 「『岩崎平太郎』という建築家の発見」(川島智生、2004年、(社)奈良まちづくりセンターHP)、川島智生『岩﨑平太郎の仕事――武田五一・亀岡末吉とともに』淡交社、2011年、122頁。
- ^ 『奈良新聞』、2010年6月9日。
- ^ “部活動”. 奈良県立畝傍高等学校. 2018年9月19日閲覧。
- ^ 「追憶奈良空(大和海軍航空隊の想いで)」(播金収、2003年、『まほろば』vol.17〔通巻94号〕)
- ^ 「追憶奈良空(大和海軍航空隊の想いで)」
- ^ 吉見良三『空ニモ書カン――保田與重郎の生涯』淡交社、1998年、50頁。