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=== 前史 ===
=== 前史 ===
1955年、新潟イレブンサッカークラブとして創部<ref name="jleague" />。[[1982年]]には社会優良団体(優良スポーツクラブ)として[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]賞を受賞した。
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1991年、新潟県サッカー協会は[[2002 FIFAワールドカップ]]の開催地に立候補することを決定(翌1992年に新潟県議会でも可決{{Refnest|group="注"|新潟県サッカー協会理事長(当時)の澤村哲郎は、賛同を得るにあたって、新潟県が[[長野オリンピック|1998年冬季オリンピック(後に長野での開催が決まる)]]の開催都市に立候補できずにいたことが大きな要因になったと述べている<ref>{{Cite book|和書|author=飯塚健司|year=2005|title=アルビレックス新潟の奇跡|publisher=[[小学館]]|isbn=4093553335}}</ref>。}})。ワールドカップ招致活動の一環として掲げられたプロサッカークラブの創設と短期間での[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]加盟を実現するため、[[新潟県サッカーリーグ]]からのスタートとなるクラブの新設ではなく、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]、[[全国社会人サッカー選手権大会]]などの全国大会への出場経験を持つ[[北信越フットボールリーグ|北信越リーグ]]の新潟イレブンSCを強化することになり、1995年、県サッカー協会の強化指定を受けた新潟イレブンSCを母体に[[グランセナ新潟FC|新潟蹴友会]]の主力選手を加えてチーム名を'''アルビレオ新潟FC'''に改称した。新監督に県の外国人スポーツ指導者招聘事業により来県していた[[フランツ・ファン・バルコム]]が就任し、新潟イレブンSCの監督を務めていた[[若杉透]]は総監督に就任した。

2020年12月30日 (水) 08:33時点における版

アルビレックス新潟
原語表記 アルビレックス新潟
愛称 アルビ
クラブカラー     オレンジ、    ブルー[1]
創設年 1955年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J2リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 新潟県新潟市聖籠町阿賀野市阿賀町粟島浦村出雲崎町糸魚川市魚沼市小千谷市柏崎市刈羽村加茂市五泉市佐渡市三条市新発田市上越市関川村胎内市田上町津南町燕市十日町市長岡市見附市南魚沼市妙高市村上市弥彦村湯沢町[1]
ホームスタジアム デンカビッグスワンスタジアムデンカビッグスワンスタジアム[1]
収容人数 41,684[1]
運営法人 株式会社アルビレックス新潟[1]
代表者 日本の旗 中野幸夫
監督 スペインの旗 アルベルト・プッチ・オルトネダ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

アルビレックス新潟(アルビレックスにいがた、Albirex Niigata)は、日本新潟県内の全市町村をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

チーム名の由来となった二重星アルビレオ。オレンジの星と青の星からなる。

1955年、新潟明訓高校OBが中心となって創部した新潟イレブンサッカークラブが前身[1]。1995年、一般公募によりはくちょう座にある二重星アルビレオに由来する『アルビレオ新潟FC』に改称したが、1997年、商標問題からクラブ名の改称を決定し、県民投票の結果"アルビレオ"とラテン語で「王」を意味する"レックス"を掛け合わせた造語である『アルビレックス新潟』に改称した[1]。なお、他の候補名は新潟弁で「俺たちの」を意味する『オラッタ新潟』と「白鳥の騎士」を意味する『シスネーテス新潟』があった[2]。1999年にJリーグへ加盟。

ホームタウンはホームスタジアム・デンカビッグスワンスタジアムがある新潟県新潟市とクラブハウスのある北蒲原郡聖籠町のみだったが、2019年7月30日より新潟県内の全市町村に拡大した。マスコットキャラクター白鳥をモチーフに2000年に登場した『アルビくん』。

近隣にライバルクラブは存在していないが、2007年頃から企画先行ながらヴァンフォーレ甲府との対戦を川中島ダービー[3]モンテディオ山形との対戦を天地人ダービーと呼ぶようになった。

総合型地域スポーツクラブ

なでしこリーグに参加する女子チーム・アルビレックス新潟レディース(2002年創設・活動開始)を持つほか、会場の応援を彩るチアリーディングチームも運営している。

また、Jリーグ百年構想による総合型地域スポーツクラブを目指しており、バスケットボールBリーグ新潟アルビレックスBBが、バスケットボール女子日本リーグ機構(WJBL)に新潟アルビレックスBBラビッツが参戦している他、2004年にスキースノーボードチームアルビレックス新潟[1]、2005年に陸上競技新潟アルビレックスランニングクラブを創設[1]。更に、2006年にプロ野球独立リーグベースボール・チャレンジ・リーグに参戦する新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ[1]、2010年にモータースポーツアルビレックスレーシングチームが創設されている[1]。なお、各「アルビレックス」はイメージカラーを共有しているが、各競技チームの運営会社は全く別個の企業であり、各運営会社間に直接の資本関係等はない。

歴史

前史

1955年、新潟イレブンサッカークラブとして創部[1]1982年には社会優良団体(優良スポーツクラブ)として文部大臣賞を受賞した。

1991年、新潟県サッカー協会は2002 FIFAワールドカップの開催地に立候補することを決定(翌1992年に新潟県議会でも可決[注 1])。ワールドカップ招致活動の一環として掲げられたプロサッカークラブの創設と短期間でのJリーグ加盟を実現するため、新潟県サッカーリーグからのスタートとなるクラブの新設ではなく、天皇杯全国社会人サッカー選手権大会などの全国大会への出場経験を持つ北信越リーグの新潟イレブンSCを強化することになり、1995年、県サッカー協会の強化指定を受けた新潟イレブンSCを母体に新潟蹴友会の主力選手を加えてチーム名をアルビレオ新潟FCに改称した。新監督に県の外国人スポーツ指導者招聘事業により来県していたフランツ・ファン・バルコムが就任し、新潟イレブンSCの監督を務めていた若杉透は総監督に就任した。

1996年、チーム母体を法人組織として株式会社を設立しプロ化、日本初の地域リーグでのプロサッカークラブとなった。1997年、クラブ名をアルビレックス新潟に改称して臨んだシーズンは北信越リーグ連覇を果たし、日本サッカー協会及びJリーグより地域リーグ所属のクラブからは唯一となる1999年に開幕するJ2への参入を承認された。1998年、全国地域リーグ決勝大会を勝ち抜き、ジャパンフットボールリーグに昇格[1]。JFLは永井良和監督の下で臨んだが、順位は11位と低迷。翌年からのJ2参入に向けてチームを強化するため、26名の選手のうち17名との契約を打ち切ることになった[注 2]

1999年 - 2003年 (J2)

J2昇格後は秋葉忠宏鈴木慎吾寺川能人ら、各ポジションにJリーグ経験者を含む即戦力を補強した。2000年には新潟出身の元日本代表、神田勝夫が、2001年には同じく代表経験のある黒崎久志が加入した。昇格初年度の1999年はJ2開幕から7連勝を記録してリーグ中盤戦まで首位をキープするなど健闘し、最終順位は4位となった。永井は2000年まで監督を務めたが、J1昇格はならなかった。

2001年、新監督に反町康治が就任。日韓W杯の会場に選出された新潟スタジアムを主な舞台に、元日本代表の山口素弘船越優蔵マルクス安英学らが活躍し、2003年広島川崎とのし烈な昇格争いを制してJ2優勝・J1昇格を決めた。優勝を決めた最終節大宮戦には、ビッグスワンに42,223人のサポーターが詰めかけた[6]。詳細は「2003年J2第43節・最終節」を参照。マルクスは2002年(19得点)、2003年(32得点)と、2年連続でJ2得点王となった[7]

2004年 - 2017年 (J1)

酒井高徳

J1昇格後も2005年まで反町が指揮を執った。昇格1年目の2004年はエジミウソンファビーニョらブラジル人を中心としたカウンター戦術で、2ndステージで4連勝[注 3]をマークするなど一時上位争いを展開し、最終節を待たずに残留を決めた[9]。また、新潟県中越地震の影響(余震及びスタジアム駐車場が自衛隊の前線基地となった)により、10月、11月に予定されていた新潟スタジアムでの2試合は、国立霞ヶ丘陸上競技場平塚競技場で代替開催された。代替開催も新潟サポーターは県内から多数駆け付け、手製の横断幕を持って応援した[10]。地震直後の試合となった柏レイソル戦では試合前に会場全体で黙とうが捧げられた。

2006年から2009年までの4年間は鈴木淳が監督を務めた。鈴木はマルシオ・リシャルデス矢野貴章らを中心とした攻撃的なチームを作り上げ、2007年にJ1昇格後最高順位となる6位の成績を残した。また、この年には矢野がクラブ初の日本代表に選出され、3月24日に行われたペルー代表戦で初キャップを記録した[11]。中心選手だったエジミウソン、坂本將貴らが移籍した2008年は残留争いに巻き込まれるが[12]2009年には4-3-3の攻撃的なフォーメーションを敷いて上位争いに顔を出した[13]

鈴木の後任にはヘッドコーチから黒崎久志が昇格し、2シーズン連続でJ1残留に成功した。2010年は11試合連続無敗のクラブ記録を作り[注 4]、その間2004年以来6シーズンぶりに4連勝を記録した[注 5]。しかし黒崎の在任中、前述した矢野、Jリーグベストイレブンに選出されたマルシオ[16] をはじめ、代表経験のある酒井高徳曺永哲等、多くの主力選手が国内外へ流出し、2011年終盤から得点力不足に悩まされた[17]2012年は開幕から3連敗を喫するなど降格圏内に沈み、黒崎は2012年5月に辞任した[18]。シーズン途中での監督交代はクラブ史上初のことだった[19]。 黒崎の辞任後、2011年までジュビロ磐田の監督を務めていた柳下正明が監督に就任し[20]、チームは薄氷のJ1残留に成功した。残留争いは最終節までもつれ、新潟が勝利してもなお自力での残留は困難な状況の中、最終節で勝利。残留を争うヴィッセル神戸ガンバ大阪が共に敗れ、逆転で15位に浮上してJ1残留を果たした[21]。最終節に至る経緯は「2012年J1最終節」が詳しい。

J1連続在籍10年目を迎えた2013年川又堅碁の活躍とともに夏場から調子を上げ、J1残留を決めた第30節から最終節までクラブ新記録となる5連勝を記録し、3年ぶりの1桁順位となる7位でシーズンを終えた[22]。翌28日には2014年も柳下が引き続き指揮を執ることが発表された[23]

2014年はw杯の中断期間まで7位であったが、金珍洙川又堅碁の退団やけが人の影響もあり12位で終了。

11年振りに2ステージ制に戻された2015年は終盤まで残留争いに加わってしまうものの、最終的に年間15位で残留を決めた。Jリーグカップでは、クラブ史上初の決勝トーナメントに進出し、ベスト4の成績を残した。シーズン終了後に柳下が監督を辞任した。

2016年は前年の監督だった吉田達磨が監督に就任した[24]。開幕戦となった湘南戦は勝利を飾ったものの、次節で早くも守備の脆さが出て大敗。それから成績が振るわず1stステージを13位で終える。2ndステージも開幕4連敗を喫するなど波に乗れない(レンタルで3人放出したにも関わらず補強が無かった事による戦力不足に加え、怪我人が多発した事も響いた)。残留争いの直近の相手である甲府・名古屋に敗戦し、降格圏内まで勝ち点差1に詰め寄られた事が決定打となり、9月27日に吉田監督以下コーチ陣は4試合を残しての解任となった。後任はコーチを務めていた片渕浩一郎が就任した。 その後残留争いは最終節までもつれた。勝てば残留という状況の中、広島戦も敗戦を喫し勝ち点で名古屋と並んだものの、得失点差で上回りかろうじて年間15位で残留を果たした。年間勝ち点30での残留は現行の18チーム制になってからは史上最少の記録である。

2017年は、前年長野の監督であった三浦文丈が新監督に就任[25] するも開幕からリーグ戦10試合で僅か1勝と低迷。第10節の川崎戦で敗れ、試合後に三浦が辞任。後任に呂比須ワグナーを招聘した。[26] 呂比須の初陣となった第12節札幌戦でリーグ2勝目を挙げたが、その後はリーグ戦16試合勝ち無しとクラブワースト記録を更新するなど低迷してしまった。11月17日、第32節の甲府戦には勝利したものの、他会場の結果により昇格14年目にして初のJ2降格が決定した。最終的には第29節のG大阪戦から5勝1分と復調し17位で終了。シーズン終了後、呂比須の退任と神田勝夫強化部長の退任が発表された。監督の後任には鈴木政一に内定した。

2018年 - (J2)

2018年は1年でのJ1復帰を目指したが、リーグ前半戦(第21節終了時)は7勝5分9敗と低迷。特にホーム戦では第6節の徳島戦しか勝てなかった。8月7日に鈴木政一監督が契約解除され、ヘッドコーチの片渕浩一郎が新監督に就任した。以降はホーム戦でも勝てるようになったが順位は上がらず、上位争いに加わる事無く16位でシーズンを終えた。ルヴァンカップも予選リーグ3位で終わった。

2019年は第9節を終えた時点で3勝3敗3分けの9位で昇格争いに出遅れていた。4月14日、片渕が解任され、アカデミーダイレクターの吉永一明が監督に就任した。監督の途中解任は4シーズン連続となる。また、7月30日からホームタウンを新潟県内の全市町村に拡大した[27][28]。しかしその後第13節から4連敗で16位まで落ち、第26節で一旦9位に浮上した以外は2桁順位を脱することなく、10位でシーズンを終えた。

2020年は新監督にスペイン人のアルベルト・プッチ・オルトネダが就任、開幕戦はJ3から復帰した群馬に3-0で快勝し首位に立ったものの、同シーズンの昇格圏内である2位以内に入ったのはこれが最初で最後となり、第27節から7戦負けなし(3勝4分)で一時は4位まで浮上したものの、第37節終了時点で5試合を残し昇格可能性が消滅、結局最後は7戦勝ちなし、最終4戦4連敗で、前年を下回る11位でシーズンを終えた。

記録と成績

タイトル

表彰

J1リーグ
J2リーグ
その他

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) オレンジ オレンジ オレンジ
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー

チームカラーはオレンジと青、白。オレンジと青はチーム名の由来となったはくちょう座の「アルビレオ」、日本海に沈む夕日、日本海信濃川に、白は白鳥と雪から採られた[1]

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
亀田製菓 亀田製菓 1999年 - 2016年 - 2018年は「ハッピーターン」表記
鎖骨 デンカ Denka 2018年 - 左側に表記
背中上部 コメリ コメリ 2011年 -
背中下部 NSGグループ NSG

GROUP

2018年 - 2018年 - 2019年は鎖骨右側
ナミックス NAMiCS 2018年 -
パンツ 新潟日報社 新潟日報 2002年 -

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォーム

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 鎖骨 背中上部 背中下部 パンツ サプライヤー
1999 亀田製菓 解禁前 蔦屋書店 解禁前 2002WC新潟県招致委員会 解禁前 kappa
2000 B's INTERNATIONAL
2001 B's INT'L
2002 新潟日報
2003 styles 朱鷺メッセ adidas
2004 新潟米
JA全農にいがた
2005 MSN
2006
2007
2008 TSUTAYA
2009 XLARGE /
B's INT'L
2010
2011 コメリ
2012
2013
2014
2015
2016 ハッピーターン -
2017 ハッピーターン (1st・3rd)
亀田製菓 (2nd)
2018 Denka(左)
NSG
GROUP
(右)
JA全農にいがた
新潟米
NAMiCS
2019 亀田製菓 全農にいがた
2020 Denka NSG
GROUP
  • J参入以前はミズノがサプライヤーで、シャツ、パンツともにオレンジ、襟が青色のデザイン。胸スポンサーはコロナ、袖はトップカルチャー(蔦屋書店表記)で、1999年から毎年胸にスポンサーロゴを掲出している亀田製菓は背スポンサーだった。
  • 1997年からパンツが青になる。
  • 1999年からJ2昇格と共にカッパがサプライヤーとなると、シャツに青のストライプが加わった。
  • 2003年からサプライヤーがアディダスに変更された。
  • 2007年から上下ともオレンジがメインになった。
  • 2009年は背スポンサーが見つからないままシーズンが開幕するが、アパレルブランド「X-Large」等を展開するビーズインターナショナルが7月から半年間スポンサーロゴを掲出した。[30]
  • 2014年シーズンの新ユニフォームは「原点回帰」と銘打たれ、Jリーグ参入時の太いストライプ柄が復活した。[31]
  • 2015年にクラブ初のカップ戦専用ユニフォームとなる青をベースとした新ユニフォームを発表した。[32]
  • 2016年は2ndユニフォームが緑ベースとなり、シャツはボーダー柄となった。さらにチーム創設時から胸スポンサーであった亀田製菓が掲出ロゴを「亀田製菓」から商品の「ハッピーターン」に変更した。
  • 2017年は2ndユニフォームが再び白ベースとなり、胸スポンサーである亀田製菓の提出ロゴが1st・3rdが「ハッピーターン」、2ndが「亀田製菓」となった。

スタジアムと練習場

アルビレックス新潟、ゴール裏サポーター(新潟スタジアム

ホームスタジアムはJFLに加盟した1998年から2000年までは新潟市陸上競技場のみだったが、2001年に新潟スタジアム(ビッグスワン。電気化学工業の施設命名権購入により、2014年からデンカビッグスワンスタジアム)の完成後は2か所併用となる。ただし登録上の本拠地は新潟陸のみのままで、新潟スは「準本拠地」の扱いだったが、ビッグスワンでの試合比率を増やし、過半数の試合を開催して事実上の移転となった。

2004年のJ1昇格後のホームゲームはすべてビッグスワンで開催している(Jリーグへの登録上の本拠地は2004年から2012年まではこの2箇所を併記されていたが、2013年に新潟市陸上競技場の本拠登録を抹消した。また、Jリーグファンガイドでの掲載は2011年以後省略されている)。なお、2004年新潟県中越地震により、リーグ戦と天皇杯の新潟主管(扱い)のそれぞれ1試合ずつは、関東地方の競技場に振り替えられ、2014年最終節は大雪の影響で茨城県立カシマサッカースタジアムで開催した。(2004年-(J1)の項参照)

スタジアム内の場内アナウンスは新潟お笑い集団NAMARAから森下英矢中村博和大野まさやが歴任している。

練習場は主に聖籠町にあるクラブハウスのピッチを使用している。以前は新潟市陸上競技場、新発田市五十公野公園陸上競技場、同市五十公野サンスポーツランドを使用する場合もあった。短期合宿は十日町市ベルナティオ(クロアチアピッチ)で行うことが多い。

観客動員

Jリーグでも屈指の観客動員力を持ち、2003年度はJ2所属ながらJ1、J2を通して最多の観客動員数約66万人を記録した[33]。2004年度は、浦和レッドダイヤモンズがJ2所属だった2000年(この年トップは鹿島アントラーズの約26万人)を除き、1996年度から守り続けていたJ1年間観客動員トップの座を初めて奪取する約56万5000人(1試合あたり約37,700人)の動員を記録した[34]。 2005年には年間68万人までに伸び、2003年から3年連続でJリーグ(J1・J2含む)1位の観客動員数を記録した[34]。この観客動員数が評価され、クラブは2003年、2004年と2年連続でJリーグアウォーズ・join賞 (チェアマン特別賞)を受賞している[35][36]

しかし観客動員は2006年をピークに減少が続いており、2011年には平均3万人を割り込んだ[37]。同年7月13日のヴァンフォーレ甲府戦ではJ1昇格後最少となる13,644人を記録しており、クラブ側も観客動員数の回復を喫緊の課題と捉えている[38]。2013年に動員の下落は下げ止まりの感を見せたものの、長らく浦和に次ぐ2番手だった観客動員数は横浜F・マリノスに抜かれて3位に転落した[39]。2014年は最終節の延期の影響もあり4位となった[40][41]

選手・監督

2014年に選出されたJ1昇格10周年記念「俺たちの夢のイレブン」[注 9]

アルビレオ新潟への改称以降、クラブには200人を超える選手が在籍した。最長の在籍期間、最多の出場試合は共に新潟県内出身の本間勲で在籍15年半[注 10]、出場試合数は316試合である。最多得点選手はブラジル国籍のエジミウソンで、116試合に出場して62得点を決めている。エジミウソンをはじめとした外国籍選手の国籍は述べ8ヶ国を数え、最多は常駐のスカウトを派遣しているブラジル国籍選手である[注 11]

監督の交代はJリーグ昇格以前から少なかったが、2016年以降在任期間が1年未満での交代が続いている。アルビレオ改称後、最長の在任期間は反町康治の5年、最短は2016年の片渕浩一郎の3ヶ月である[注 12]。J1での最高順位は鈴木淳が指揮を執った2007年の6位、最多勝ち点は柳下正明が指揮を執った2013年の55点である[42]

夢のイレブン

クラブのJ1昇格10周年を記念し、2013年11月から12月にかけ新潟日報紙上で「俺たちの夢のイレブン」が募集された。ファン投票の結果を受け、2014年1月4日の新潟日報紙上で発表された「夢のイレブン・監督」12人を以下に記す[43]。最多得票はマルシオ・リシャルデスの507票だった。

GK
東口順昭
DF
酒井高徳鈴木大輔内田潤金珍洙
MF
マルシオ・リシャルデス本間勲レオ・シルバ田中亜土夢
FW
川又堅碁エジミウソン
監督
反町康治

(並びは投票数順)

運営会社

株式会社アルビレックス新潟
Albirex Niigata Inc.
種類 株式会社
本社所在地 950-0954[1]
新潟市中央区美咲町2-1-10[1]
設立 1996年4月[1]
業種 サービス業
法人番号 8110001001177 ウィキデータを編集
代表者 中野幸夫[1]
資本金 7億1,200万円
売上高 22億4700万円(2019年12月31日時点)[44]
営業利益 0円(2019年12月31日時点)[44]
経常利益 1億5400万円(2019年12月31日時点)[44]
純利益 1億7000万円(2019年12月31日時点)[44]
純資産 4億0900万円(2019年12月31日時点)[44]
総資産 12億0400万円(2019年12月31日時点)[44]
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現在、新潟県内を中心に170の企業・団体から出資を受けているが、具体的な出資者名は明らかにされていない[45]。設立当初は県内に単独でJリーグクラブを支える体力がある企業が存在しないため、「広く薄く」の方針で多くの企業から出資を募った[46]。事業規模は毎年23-24億円程度で、30億円程度とされるJ1クラブの平均予算と比較しても貧弱な数字になっている[38]。現在の社長は5代目で、2008年からアルビレックス新潟シンガポールの代表取締役を務めていた是永大輔。後述する初代社長の池田弘、2代目社長の中野幸夫は、新潟社長退任後にいずれもJリーグ理事の役職に就いた。

1996年、アルビレオ新潟は県内企業30社が1000万円を出し合い、2億9500万円の資本金で設立された[46]。経営の中心には、県内で多数の専門学校を展開するNSGグループ理事長の池田弘が据えられた。当初アルビレオのJリーグ挑戦はワールドカップ誘致活動の一環という性格が強く、経営状態も芳しくなかった為に誘致成功を手土産に解散の可能性もあったという[47]。池田は私財を投じて窮地をしのぐ一方で、後援会組織を立ち上げて小口の個人出資を募った[47]。さらにこの頃から「ばらまき作戦[46]」とも揶揄された採算を度外視した無料招待券の大量配布が始まり、観客動員数は飛躍的に増加。収支は2000年に初めて黒字へ転換した[46]

しかし、J1昇格に伴う強化費の増加に加え、観客動員数の落ち込み等を要因とする営業収入の落ち込みもあり、2005年から公表されている収支報告では毎年営業赤字を計上した。チケット売り上げ等の興業収入は最大時の2005年に約12億円を計上したが、2012年は最大時から5億円減となる約7億円、興業収入の柱となるシーズンチケットの売り上げは最盛期の2万枚からおおよそ半減している[38]

アカデミー

  • ユース
1998年4月創設・活動開始。本隊の他に過去には、提携チームとして中条ユース( - 2004年度)があった。
  • ジュニアユース
2004年4月創設・活動開始。2004年4月、提携チームであった「アルビレックス新潟新潟ジュニアユース」を解消して新たに直属チームとして編成された。本隊の他に、提携チームとして柏崎ジュニアユース中条ジュニアユースがある。過去には、提携チームとして新潟ジュニアユース( - 2004年度)と加茂ジュニアユース( - 2005年度)があった。
  • ジュニア
2007年4月創設・活動開始。
  • サッカースクール
東新潟校・美咲校・駅南校・寺尾校・白根校・亀田校・アルビレッジ校がある。

関連する組織

アルビレックス新潟シンガポール

アルビレックス新潟シンガポールは2004年に創設された、シンガポールSリーグに所属するサッカーチーム。アルビレックス新潟やそれ以外のJリーグチームから若手の育成先として選手の派遣を受け入れている。

アルビレックス新潟シンガポールは、留学プログラムの拠点としてスペインバルセロナバルセロナフットボールアカデミーを設立した[48]

また、2014年にアルビレックス新潟プノンペンを設立し、カンボジア・リーグに参入した[49]。ただし、アルビレックス新潟プノンペンのトップチームは1年で活動停止となった。

JAPANサッカーカレッジ

JAPANサッカーカレッジ(JSC)は北信越フットボールリーグに加盟するチームで、アルビレックス新潟の運営母体であるNSGグループ(新潟総合学院、国際総合学園)の傘下にある。JSCに所属している選手は、アルビレックス新潟の練習へも参加でき、事実上のアマチュア組織のチームとなっている。

また、2005年にJSC高等部が設けられ、アルビレックス新潟ユースとともにユース部門を担っている。JSC高等部は開志学園高校と教育連携しており、高校選手権高校総体に「開志学園JAPANサッカーカレッジ高等部」として出場している。

決算

アルビレックス新潟の決算は、つぎのとおり。

損益

年度 収入 広告料 入場料 配分 その他 費用 事業費 人件費 管理費 利益 純利益
2005 2,639 840 1,185 266 348 2,682 1,978 1,269 704 -43 -259
2006 2,793 960 994 241 598 2,857 2,169 1,248 688 -64 10
2007 2,661 977 906 277 501 2,953 2,272 1,374 681 -292 -202
2008 2,590 950 831 245 564 2,720 2,132 1,208 588 -130 -46
2009 2,418 853 822 229 514 2,470 1,975 1,038 495 -52 89
2010 2,216 843 770 224 379 2,341 1,850 910 491 -125 4

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 200520062007200820092010

金額の単位: 百万円

人件費は事業費に含まれる。

年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 販売 利益 純利益
2011 2,227 919 701 219 118 270 2,270 809 276 256 117 26 786 -43 72
2012 2,405 941 661 220 137 446 2,450 940 281 282 122 34 791 -45 44
2013 2,548 963 674 215 143 553 2,636 1,077 283 277 128 39 832 -88 29
2014 2,748 1,013 650 210 165 710 2,853 1,085 267 377 144 48 932 -105 10
2015 2,510 1,038 711 206 176 379 2,795 1,138 285 267 147 51 907 -285 -120

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 20112012201320142015

金額の単位: 百万円

年度 収益 広告料 入場料 配分 育成 物販 その他 費用 人件費 試合 トップ 育成 女子 物販 販売 利益 純利益
2016 2,908 1,049 679 218 194 277 491 2,959 1,220 269 225 150 61 222 812 -51 97
2017 2,762 1,085 629 452 196 224 176 2,974 1,227 267 301 160 58 174 787 -212 -55
2018 2,493 1,127 507 281 191 200 187 2,728 1,108 267 268 137 65 166 717 -235 -149
2019 2,247 949 500 149 178 231 240 2,248 722 272 253 165 0 189 647 -1 170

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016201720182019

金額の単位: 百万円

資産

年度 総資産 総負債 純資産 資本金
2005 1,293 839 454 712
2006 1,304 839 464 712
2007 1,145 882 262 712
2008 1,043 827 216 712
2009 1,007 702 305 712
2010 897 587 309 712
2011 922 541 381 712
2012 970 545 425 712
2013 905 450 455 712
2014 1,121 656 465 712
2015 1,227 880 347 712
2016 1,403 959 444 712
2017 1,369 981 388 712
2018 1,228 989 239 712
2019 1,204 795 409 712

出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 200520062007200820092010201120122013201420152016201720182019

金額の単位: 百万円

脚注

注釈
  1. ^ 新潟県サッカー協会理事長(当時)の澤村哲郎は、賛同を得るにあたって、新潟県が1998年冬季オリンピック(後に長野での開催が決まる)の開催都市に立候補できずにいたことが大きな要因になったと述べている[4]
  2. ^ この決定を下した池田弘代表取締役社長(当時)は「人切り池田」として大きな非難を浴びた[5] が、その様子が川淵三郎の目に留まる。このことがきっかけとなり、池田は後にJリーグ理事に就任した。
  3. ^ 2004年9月23日 J1 2ndステージ・ 第6節 広島戦-2004年10月17日 J1 2ndステージ・第9節 鹿島戦[8]
  4. ^ 2010年4月17日 J1・第7節 名古屋戦-2010年8月7日 J1・第17節 京都戦[14]
  5. ^ 2010年5月1日 J1・第9節 神戸戦-2010年5月15日 J1・第12節 山形戦[15]
  6. ^ 新潟に在籍した経験がある選手
  7. ^ 年間観客動員の新記録を達成したため。
  8. ^ 1試合平均観客動員数を大幅に更新したため。また、新潟県中越地震の復興支援に貢献したため。
  9. ^ 選手の配置は実際のポジションと異なる選手もいるが、紙面に掲載された順に配置した。
  10. ^ 栃木SCへの期限付き移籍期間を除く。
  11. ^ 朝鮮籍安英学、在籍時二重国籍の中島ファラン一生日本国籍を取得したマイケル・ジェームズを含める。
  12. ^ 成績不振により解任された吉田達磨の後任としてコーチから監督に昇格する形でシーズン終了まで指揮した。片渕は翌年からコーチに復帰した後、暫定監督を含めて2度指揮している。
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r クラブガイド:アルビレックス新潟 Jリーグ公式サイト
  2. ^ https://twitter.com/morimori206/status/1110167924457664512
  3. ^ http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00048332.html
  4. ^ 飯塚健司『アルビレックス新潟の奇跡』小学館、2005年。ISBN 4093553335 
  5. ^ トップインタビュー 株式会社アルビレックス新潟 代表取締役社長 池田 弘氏 インタープライズ・コンサルティング
  6. ^ 元川悦子. “【J2 第44節新潟 vs 大宮戦レポート】”. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。
  7. ^ マルクス選手獲得のお知らせ”. 川崎フロンターレ. 2013年1月23日閲覧。
  8. ^ 斎藤慎一郎. “【J1-2nd:第9節 新潟 vs 鹿島 レポート】新潟が粘り勝ちで4連勝。鹿島の一瞬の隙を突いてファビーニョが決勝ゴール”. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。
  9. ^ 前島芳雄. “【第85回天皇杯5回戦:磐田 vs 新潟 プレビュー】”. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。
  10. ^ 斎藤慎一郎. “【J1-2nd:第11節 新潟 vs 柏 レポート】”. J's Goal. 2013年1月23日閲覧。
  11. ^ 矢野 貴章 選手 キリンチャレンジカップ2007 ~ALL FOR 2010!~(3/24 対 ペルー代表@横浜国際総合競技場 )日本代表メンバーに追加招集のお知らせ”. アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。
  12. ^ 斎藤慎一郎. “【開幕直前!33クラブ別戦力分析レポート:新潟】目標は5位以内。チーム内の競争が「アグレッシブ」の質を高める。”. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。
  13. ^ 大中祐二. “鈴木淳監督の“秘密のレシピ”とは?(アルビレックス新潟)”. OCNスポーツ. 2013年1月22日閲覧。
  14. ^ 佐藤円. “【J1:第18節 山形 vs 新潟】レポート:北村が2試合連続決勝ゴール! 守備で術中にはめた山形が新潟の負けなしを11試合でストップ!”. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。
  15. ^ 斎藤慎一郎. “【J1:第12節 新潟 vs 山形】レポート:新潟が6年ぶりの4連勝。本間勲の決勝のミドルシュートで山形に逆転勝ち。”. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。
  16. ^ 2010Jリーグアウォーズ”. Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。
  17. ^ 斎藤慎一郎. “【開幕直前!40クラブ別戦力分析レポート:新潟】”. J's Goal. 2013年1月27日閲覧。
  18. ^ 新潟日報 2012年5月22日
  19. ^ 新潟、黒崎久志監督が辞任…J1の監督交代は今シーズン4クラブ目”. FromOne co.,Ltd. 2013年1月27日閲覧。
  20. ^ 柳下正明監督 就任のお知らせ アルビレックス新潟公式サイト
  21. ^ 斎藤慎一郎. “J1最終節 新潟4-1札幌”. J's Goal. 2013年1月22日閲覧。
  22. ^ 斎藤慎一郎 (2013年10月27日). “新潟、J1残留確定!川又ハットで視察ザックに代表入りアピール”. スポーツニッポン. 2013年10月29日閲覧。
  23. ^ 柳下 正明監督 契約更新のお知らせ”. アルビレックス新潟. 2013年10月29日閲覧。
  24. ^ 2016シーズン監督に 吉田 達磨氏 決定のお知らせ”. アルビレックス新潟. 2015年12月4日閲覧。
  25. ^ 2017シーズン監督に三浦 文丈氏決定のお知らせ アルビレックス新潟公式サイト
  26. ^ 監督に呂比須ワグナー氏 内定のお知らせ アルビレックス新潟公式サイト
  27. ^ "新潟県内全市町村ホームタウン広域化・追加承認のお知らせ" (Press release). アルビレックス新潟. 30 July 2019. 2019年8月2日閲覧
  28. ^ "アルビレックス新潟 ホームタウン追加について" (Press release). Jリーグ. 30 July 2019. 2019年8月2日閲覧
  29. ^ "【超限定ユニフォーム】2020 ONE NIIGATAメモリアルブルーユニフォーム着用決定!" (Press release). 公式サイト. 24 December 2020. 2020年10月25日閲覧
  30. ^ フォト日記詳細 アルビレックス新潟 公式サイト: 2009年07月11日
  31. ^ アルビレックス新潟2014新ユニフォーム”. アルビレックス新潟. 2014年1月4日閲覧。
  32. ^ 2015シーズン カップ戦1stオフィシャルオーセンティックユニフォーム先行予約受付 いよいよ開始!”. アルビレックス新潟. 2015年10月21日閲覧。
  33. ^ Jリーグ - 公式記録”. Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。
  34. ^ a b 年度別入場者数推移(1993~2005)”. Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。
  35. ^ 2004Jリーグベストピッチ賞/Join賞(チェアマン特別賞)”. Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。
  36. ^ 【2003 J.LEAGUE Awards】Join賞(チェアマン特別賞)”. Jリーグ. 2013年1月27日閲覧。
  37. ^ a b 年度別入場者数推移(1993~2012)”. Jリーグ. 2013年1月23日閲覧。
  38. ^ a b c サポーターカンファレンス議事録”. アルビレックス新潟. 2013年1月23日閲覧。
  39. ^ 2013Jリーグ ディビジョン1 クラブ別入場者数”. Jリーグ. 2014年1月4日閲覧。
  40. ^ 2014Jリーグ ディビジョン1 クラブ別入場者数”. Jリーグ. 2014年12月10日閲覧。
  41. ^ 最終節を除く16戦までの計算ではJ1で3位の水準であった
  42. ^ 17勝、勝ち点55、過去最多”. 新潟日報. 2014年1月4日閲覧。
  43. ^ 新潟日報 2014年1月4日1版 17-18面 特集面
  44. ^ a b c d e f 株式会社アルビレックス新潟 第24期決算公告
  45. ^ 会社概要 アルビレックス新潟公式ホームページ
  46. ^ a b c d 大野貴司『プロスポーツクラブ経営戦略論』三恵社、2010年、118-129頁。 
  47. ^ a b 上田里恵 (2007年12月7日). “<ベンチャースピリッツ>アルビレックス新潟会長 池田弘”. Biz STYLE. 2013年2月5日閲覧。
  48. ^ アルビレックス新潟バルセロナ 外務省公認事業プロジェクトに認定 アルビレックス新潟バルセロナ 2013年2月5日
  49. ^ アルビレックス新潟FCプノンペン、創立! アルビレックス新潟 2013年10月16日

関連項目

外部リンク