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外務省では[[外務省通商|通商局]]第五課長・[[武漢市|漢口]][[総領事]]・[[興亜院]]華中連絡部文化局長を歴任し、[[中華民国]][[大使館]][[参事官]]を最後に退官する。
外務省では[[外務省通商|通商局]]第五課長・[[武漢市|漢口]][[総領事]]・[[興亜院]]華中連絡部文化局長を歴任し、[[中華民国]][[大使館]][[参事官]]を最後に退官する。


[[1947年]](昭和22年)の[[第1回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]から出馬(無所属)、下位ながら任期3年議員として初当選を飾った。直後に[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]入りし、[[芦田内閣]]で[[外務省|外務]][[政務次官]]に就任。更に[[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]→[[改進党]]と党籍を移すが、[[第2回参議院議員通常選挙|1950年参院選]]では落選し、[[第25回衆議院議員総選挙|1952年の衆院選]]([[東京都第3区 (中選挙区)|東京3区]])・[[第3回参議院議員通常選挙|翌1953年の参院選]]([[鹿児島県選挙区]])でも政界復帰を果たせなかった。
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2020年12月26日 (土) 10:39時点における版

1953年

伊東 隆治(いとう たかはる、1898年7月8日 - 1968年3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。

来歴・人物

鹿児島県大島郡龍郷村生まれ。鹿児島県立第二鹿児島中学校第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。帝大在学中の1921年(大正10年)に高等文官試験行政科・外交科で合格し、卒業後に外務省入りし、在漢口総領事館領事官補。同期入省に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、西村熊雄(駐フランス大使、条約局長)などがいる。

外務省では通商局第五課長・漢口総領事興亜院華中連絡部文化局長を歴任し、中華民国大使館参事官を最後に退官する。

1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙全国区から出馬(無所属)、下位ながら任期3年議員として初当選を飾った。直後に民主党入りし、芦田内閣外務政務次官に就任。更に国民民主党改進党と党籍を移すが、1950年参院選では落選し、1952年の衆院選東京3区)・翌1953年の参院選鹿児島県選挙区)でも政界復帰を果たせなかった。

1953年(昭和28年)に奄美群島が本土復帰し、それに伴う奄美群島選挙区新設に因る補欠選挙が1954年(昭和29年)2月に行われ伊東も出馬したが、伊東・保岡武久(前鹿児島県副知事)・金井正夫・宗前清(いずれも元代議士)・泉芳朗(前名瀬市長)と有力候補が居並ぶ中で法定得票数を得た候補が1人も出なかったため再選挙に追い込まれた。4月の再選挙では保岡に次ぐ次点に終わったが、翌1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で保岡を破り衆院初当選を果たす(日本民主党)。

その後は奄美群島区の1議席を保岡と争うことが続き、1958年の総選挙1960年の総選挙では保岡に敗れたものの、1963年の総選挙1967年の総選挙で連続して当選を果たしている。自由民主党では佐藤派に属し、党政策調査会外交副部長を歴任。また第3次池田改造内閣から第1次佐藤内閣にかけて経済企画政務次官第1次佐藤第2次改造内閣から第3次改造内閣第2次佐藤内閣にかけて自治政務次官を務めている。

衆議院議員在任中の1968年(昭和43年)3月28日、東京大学医学部附属病院で死去。69歳没。娘は弁護士白川勝彦と結婚。

参考文献

  • 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』衆議院、1990年。