「麻生太賀吉」の版間の差分
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[[1911年]](明治44年)9月29日、[[九州]]の[[炭鉱]]王[[麻生太吉]]の三男・[[麻生太郎 (明治時代)|太郎]]を父に、子爵[[加納久朗]]の妹・夏子を母として[[福岡県]][[嘉穂郡]]飯塚町(現[[飯塚市]])に生まれる. [[1929年]](昭和4年)旧制福岡中学校(現、[[福岡県立福岡高等学校]])を卒業、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現[[九州大学]])法文学部聴講生. [[1931年]](昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し, [[1934年]](昭和9年)に社長となる。関連会社である[[麻生鉱業]]社長と麻生セメント社長を務め、莫大な利益を得た。戦後の[[1951年]](昭和26年)には九州財界の重鎮である[[九州電力]]会長に就任している。 |
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ロンドン滞在中、[[白洲次郎]]の紹介で当時駐英[[大使]]をしていた[[吉田茂]]の三女・[[麻生和子|和子]]と知り合い、帰国後に結婚する。首相となった岳父を補佐するため、[[1949年]](昭和24年)[[第24回衆議院議員総選挙]]に郷里の福岡県から立候補し当選する。以後3期務めた。吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務めた。[[田中角栄]]は麻生に接近し、自身と麻生・[[根本龍太郎]]の三人組で[[池田勇人]][[日本の大蔵大臣・財務大臣一覧|大蔵大臣]]を誕生させる原動力となった。[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]締結前夜、早期講和か全面講和をめぐり与野党が対立する中で奔走し、[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]の[[苫米地義三]]を口説いて吉田に協力させることに成功した。しかし吉田内閣の総辞職と共に政界を引退し、実業界に戻る。 |
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結婚前から敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]信徒である妻の和子ともどもカトリック信徒であった。 |
結婚前から敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]信徒である妻の和子ともどもカトリック信徒であった。 |
2020年12月26日 (土) 10:32時点における版
麻生太賀吉 あそうたかきち | |
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生年月日 | 1911年9月29日 |
出生地 | 日本 福岡県嘉穂郡飯塚町 (現飯塚市) |
没年月日 | 1980年12月2日(69歳没) |
出身校 | 旧制福岡県立福岡中学校 |
前職 | 麻生鉱業・麻生セメント社長 |
所属政党 | 日本自由党 |
称号 |
藍綬褒章 正四位勲二等瑞宝章 |
配偶者 | 麻生和子 |
親族 | 麻生太郎 (長男) |
当選回数 | 3 |
麻生 太賀吉(あそう たかきち, 1911年9月29日 - 1980年12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。妻和子は吉田茂元首相の三女、長男麻生太郎は第92代内閣総理大臣、第23代自由民主党総裁、麻生派会長を務める。
来歴・人物
1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現飯塚市)に生まれる. 1929年(昭和4年)旧制福岡中学校(現、福岡県立福岡高等学校)を卒業、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現九州大学)法文学部聴講生. 1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し, 1934年(昭和9年)に社長となる。関連会社である麻生鉱業社長と麻生セメント社長を務め、莫大な利益を得た。戦後の1951年(昭和26年)には九州財界の重鎮である九州電力会長に就任している。
ロンドン滞在中、白洲次郎の紹介で当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と知り合い、帰国後に結婚する。首相となった岳父を補佐するため、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し当選する。以後3期務めた。吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務めた。田中角栄は麻生に接近し、自身と麻生・根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣を誕生させる原動力となった。サンフランシスコ講和条約締結前夜、早期講和か全面講和をめぐり与野党が対立する中で奔走し、国民民主党の苫米地義三を口説いて吉田に協力させることに成功した。しかし吉田内閣の総辞職と共に政界を引退し、実業界に戻る。
結婚前から敬虔なカトリック信徒である妻の和子ともどもカトリック信徒であった。
1965年(昭和40年)、日本石炭協会会長に就任する。1969年(昭和44年)藍綬褒章を受章。1980年(昭和55年)12月2日に死去した。正四位に叙され勲二等瑞宝章追贈。
親族
- 祖父 - 太吉(実業家、政治家)
- 祖母 - ヤス(福岡県、吉川(きっかわ)半次郎六女)
- 父 太郎(実業家)
- 母 夏子(子爵加納久朗の妹、加納久宜の子)
- 妻 和子(吉田茂三女)
- 長男 太郎(実業家、政治家)
- 次男 次郎 - 1964年、学習院大学ヨット部で活動中に事故死。享年22
- 三男 泰(実業家 アソウ・ヒューマニーセンター代表兼麻生セメント社長)
- 長女 雪子(相馬和胤(相馬氏33代当主)夫人)
- 次女 旦子(荒船清彦(駐スペイン大使)夫人)
- 三女 信子(寛仁親王妃)
- 孫 彬子女王
- 孫 瑶子女王
- 弟 典太(実業家、麻生セメント専務、筑豊製作所会長)
- 従兄 大井廣介(麻生賀一郎)(文芸評論家)
- その他の親戚 明治天皇の落胤を自称した画家橘天敬は、いとこの夫に当たる。
系譜
実線は実子 破線は婿 緑色は本人 青色は国会議員
竹内綱 (土佐藩家老家臣) | 吉田健三 (実業家) | 加納久宜 (上総国一宮藩主) | 麻生太吉 (筑前国庄屋) | 牧野伸顕 (薩摩藩藩士子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内明太郎 | 吉田茂 (元首相) | 加納久元 | 加納久朗 (元千葉県知事) | 加納久憲 (米国移民) | 麻生太郎【先代】 | 武田三郎 (陸軍中将) | 阿野季忠 (公家) | 野田勢三郎 (地質学者) | 後藤文夫 | 秋月種英 (日向国高鍋藩) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内強一郎 (電気工学者) | 吉田健一 (英文学者) | 吉田寛 (早世) | 鈴木善幸 (元首相) | 吉田正男 (林学者) | 麻生太賀吉 | 麻生典太 | 野田健三郎 (電気工学者) | 後藤正夫 | 武見太郎 (元医師会々長) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内啓一 (地理学者) | 鈴木俊一 | 麻生太郎 (元首相) | 麻生次郎 (早世) | 相馬和胤 (実業家) | 荒船清彦 (スペイン大使) | 寛仁親王 (皇族) | 麻生泰 (実業家) | 武見敬三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚註
参考文献
- 林えいだい『清算されない昭和』岩波書店 ISBN 4000098365
- ドキュメンタリー映画『もうひとつの日本の近代・現代史6 九州麻生炭鉱の朝鮮人労働者』(青丘文化ホール)
- 『麻生家文書』麻生家が九州大学に寄託
- 林えいだい『強制連行・強制労働 筑豊朝鮮人坑夫の記録』現代史出版会 1981年10月 ISBN 978-4198123888