コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「レチツァ (ホメリ州)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Belarus Gomel Region
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ソ連崩壊」改名に伴うリンク修正依頼 - log
69行目: 69行目:
1914年の段階で、ユダヤ人は市人口の6割を占めており、また20世紀初頭には5つの[[シナゴーグ]]があった<ref>[https://eleven.co.il/article/13511 Речица] // Электронная еврейская энциклопедия</ref>。しかし1941年8月23日に[[ナチス]]軍に占拠された後、多くのユダヤ人が[[ゲットー]](レチツァ・ゲットー[[:ru:Речицкое гетто|(ru)]])に隔離され、殺害された。都市は1943年11月18日に[[白ロシア戦線]]によって解放された。
1914年の段階で、ユダヤ人は市人口の6割を占めており、また20世紀初頭には5つの[[シナゴーグ]]があった<ref>[https://eleven.co.il/article/13511 Речица] // Электронная еврейская энциклопедия</ref>。しかし1941年8月23日に[[ナチス]]軍に占拠された後、多くのユダヤ人が[[ゲットー]](レチツァ・ゲットー[[:ru:Речицкое гетто|(ru)]])に隔離され、殺害された。都市は1943年11月18日に[[白ロシア戦線]]によって解放された。


[[ソビエト連邦]]([[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]])期末年の1986年、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が起こると、レチツァは[[放射性降下物]]による被害を被った。[[ソ連崩壊]]を経て現在に至る。
[[ソビエト連邦]]([[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]])期末年の1986年、[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]が起こると、レチツァは[[放射性降下物]]による被害を被った。[[ソビエト邦の崩壊]]を経て現在に至る。


==出身者==
==出身者==

2020年12月26日 (土) 01:02時点における版

レチツァ

ベラルーシ語: Рэчыца
10月広場(レチツァ)
10月広場(レチツァ)
レチツァの旗
レチツァの公式印章
印章
レチツァの位置(ベラルーシ内)
レチツァ
レチツァ
レチツァの位置(ホメリ州内)
レチツァ
レチツァ
座標:北緯52度21分50秒 東経30度23分41秒 / 北緯52.36389度 東経30.39472度 / 52.36389; 30.39472座標: 北緯52度21分50秒 東経30度23分41秒 / 北緯52.36389度 東経30.39472度 / 52.36389; 30.39472
ベラルーシの旗 ベラルーシ
ホメリ州
地区 レチツァ地区(Rechytsa District
創設 1213年
人口
(2010)
 • 合計 64,731人
等時帯 UTC+2 (EET)
 • 夏時間 UTC+3 (EEST)
郵便番号
247500
市外局番 +375 2340
ナンバープレート 3
ウェブサイト Official website (ロシア語)

レチツァベラルーシ語: Рэчыца)はベラルーシホメリ州レチツァ地区(ru)の市(Горад / ホラド)である。同地区の行政中心地であり、ベラルーシの市の中でも古い歴史を持つ市の1つである。市の名は川を意味するРекаに由来する[1]

地理

自然地理的にはドニエプル川右岸の氾濫原に位置する。交通の要地でもあり、古くは帝政ロシア末期のポレシエ鉄道(ru)[注 1]、現在は幹線道路により州都ホメリ、またブレスト州の州都ブレストと接続している。またР32の起点(終点ロエウ(ru))、Р33(ru)の起点(終点ホイニキ(ru))でもある[注 2]

人口

19世紀初頭の人口は1770人であり、うち83%が中産階級[2](メシチャンストヴォ(ru))とする記録がある。2005年に約6万5500人、2015年に6万5624人[3]、2016年に6万6172人[4]だった。2017年は6万6009人であり、2017年の時点で、ベラルーシ・ホメリ州内で5番目の人口を有する[5]

歴史

レチツァ城(1649年)
中世のレチツァの軍旗
現レチツァ駅

レチツァに関する史料上の最初の言及は、『グストィンスカヤ年代記(ru)[6]、あるいは『ノヴゴロド第一年代記(ru)』の1213年の項である。この年、ルーシ諸公の1人ムスチスラフが、フセヴォロドに対する遠征軍を起こし、キエフへ向かう途上に、レチツァを陥落させている。11 - 13世紀の間、レチツァはキエフ公国あるいはチェルニゴフ公国に属していた。

14世紀末、レチツァはリトアニア大公ヴィータウタスに接収され、リトアニア大公国領となった。この時期に松の木で城が建設され、以降200年間現存していたが、1654年にコサックによって焼き払われた。

1511年にマクデブルク法が施行された。また1566年にミンスク県(ミンスカス県)が設置されると、レチツァ郡の行政中心地となった[7]。また、パゴーニャ(ru)のあしらわれた軍旗が[注 3]、16世紀より用いられていたことが知られている。この意匠は現代の市章(ページ右側 Infoboxでは印章と表示)にも受け継がれている。

17世紀半ば、ポーランド・リトアニア共和国が戦乱の時代(大洪水時代)に陥ると、レチツァもまた被害を被った。1667年のアンドルソヴォ条約では、レチツァはまだポーランド・リトアニア共和国内に残されたが、1793年の第2次ポーランド分割によって帝政ロシア領に組み込まれた。ロシアのミンスク県に属し[6]、レチツァ郡の行政中心地となった[8]

1914年の段階で、ユダヤ人は市人口の6割を占めており、また20世紀初頭には5つのシナゴーグがあった[9]。しかし1941年8月23日にナチス軍に占拠された後、多くのユダヤ人がゲットー(レチツァ・ゲットー(ru))に隔離され、殺害された。都市は1943年11月18日に白ロシア戦線によって解放された。

ソビエト連邦白ロシア・ソビエト社会主義共和国)期末年の1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が起こると、レチツァは放射性降下物による被害を被った。ソビエト連邦の崩壊を経て現在に至る。

出身者

姉妹都市

レチツァは以下の都市と姉妹都市(ベラルーシ語では兄弟都市 / Города-побратимы)として提携を結んでいる[10]

脚注

注釈

  1. ^ 「ポレシエ鉄道」はロシア語: Полесские железные дорогиの直訳による。なおロシア語転写:ポレシエ、ベラルーシ語転写:パレッセ。
  2. ^ 「Р(ラテン文字転写:R)」はベラルーシ語: Рэспубліканскія аўтамабільныя дарогі / 直訳:(ベラルーシ)共和国自動車道 の頭文字。
  3. ^ 「パゴーニャ」はベラルーシ語: Пагоняによる。リトアニア語: Vytís。リトアニア大公国で用いられた旗の意匠。赤地に銀鎧の騎士を描いた。

出典

  1. ^ 服部倫卓・越野剛編著 『ベラルーシを知るための50章』 明石書店、2017年。P90
  2. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P460
  3. ^ Численность населения на 1 января 2015 г.
  4. ^ Численность населения на 1 января 2016 г. и среднегодовая численность населения за 2015 год по Республике Беларусь в разрезе областей, районов, городов и поселков городского типа.
  5. ^ Численность населения на 1 января 2017 г. и среднегодовая численность населения за 2016 год по Республике Беларусь в разрезе областей, районов, городов и поселков городского типа. // Национальный статистический комитет Республики Беларусь. — Мн., 2017.
  6. ^ a b История города и района // Речица_BY - Официальный сайт_by-.mht
  7. ^ Речица // Еврейская энциклопедия Брокгауза и Ефрона
  8. ^ Речица // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
  9. ^ Речица // Электронная еврейская энциклопедия
  10. ^ Города-побратимы // Речица_BY - Официальный сайт_by-.mht