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G4は特に4カ国の指導者層の会談にて用いられる。さらに[[イランの核開発問題|イランの核開発]]問題の中G-3はしばしばフランス、イギリス、ドイツの[[外務大臣]]の集まりのことを示した。一方[[ポーランド]]と[[スペイン]]の[[内務大臣]]を含んだ集まりはG6として知られる。ヨーロッパ最大の経済力を持つドイツは[[2010年欧州ソブリン危機]]の際には、しばしばEUの経済的リーダーと見なされた。一方[[国際連合|国連]]の[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]であるフランスとイギリスは[[2011年]]の[[リビア飛行禁止空域]]のようにイタリアが実際の攻撃を行うことになったとしても外交、[[安全保障]]の問題においては、主導的な立場にあった。これらのバランスは、2016年の[[ブレグジット]]以降どのように変化するかはまだ分からない。 |
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しかし、西欧とロシアの戦略的バランスが拡大し、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連の崩壊]]以降2つの勢力の国境線は東に大きく押され、かつての中欧の共産国はEUとNATOに加入している。 |
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== 脚注 == |
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2020年12月26日 (土) 01:02時点における版
ヨーロッパにおける勢力均衡は、第一次世界大戦以前のヨーロッパの国際関係を示すものである。現代のヨーロッパの体制では1815年のパリ条約により誕生した19世紀の政治的概念よりも、国家間を超えた欧州連合のようなスープラナショナリズムが適切である。この仕組みはヨーロッパ国家体系として知られる。どのヨーロッパの国家も単独で覇権を確立することなく、一つの大陸の一部分を構成する状態を示し、少数の同盟が構成されて、それぞれが争っている状態が最善の状態である。これはすなわちヨーロッパにおける絶対的な力が確立される状態を防ぐ事を意味する。
歴史
16世紀-18世紀
16世紀と17世紀の間、イングランドの外交政策はヨーロッパにおける一つの世界君主制を作ることを阻止することであった。当時、多くの国がフランスとスペインは世界君主制の国に成り得ると考えていた。勢力均衡を維持するために、イングランドはポルトガル、オスマン帝国、オランダなどの他国と同盟を結び、脅威に対抗した。例えばアウクスブルク同盟はルイ14世とルイ15世のフランスに対抗することが目的であった。イングランドとオランダはしばしば、ヨーロッパの同盟国の軍資金を援助した。
18世紀は主要なヨーロッパの列強間でカドリーユが演じられていた。この演者となった列強はオーストリア、プロイセン、イギリス(グレートブリテン王国)、フランスであり、外交革命以来一つの国家、あるいは一つの同盟が覇権を確立することを幾度も防いだ。この時代に多くの戦いが生じたが、これらの戦いは少なくとも部分的には勢力均衡の維持を目的としていた。この時代に起きた戦いはスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、バイエルン継承戦争、フランス革命戦争、ナポレオン戦争が挙げられる。イギリスの七年戦争での成功により、多くの列強はフランス以上にイギリスが強大な国力を持つと考え始めた。いくつかの国がアメリカ独立戦争中、イギリスの国力増大を防ごうと英領アメリカの13植民地の独立を保障した。
19世紀
19世紀の間、平和を持続させるためにウィーン体制は勢力均衡の維持に努めた。領土の国境線はウィーン体制によって維持され、より重要なこととしてあらゆる侵略は認められなかった[1]。一方、歴史家のロイ・ブリッジによれば、ウィーン体制は1823年には崩壊していた[2]。1818年、イギリスは自国に直接影響しない大陸の事案について、関わらないことを決めた。イギリスは、アレクサンドル1世による将来の革命を抑圧する計画を拒絶した。ウィーン体制は列強の共通の目的である政治的、経済的な競争の激化に伴い、崩壊した[3]。アルツは、ヴェローナ会議によってウィーン体制は終わったと述べている[4]。1848年革命によって、ウィーン体制において決められた国境線の見直しを要求されたが、この間に旧体制への反動のための会議は開催されなかった[5]。
1850年以前、イギリスとフランスがドイツを支配していたが、1850年代のプロイセンとロシアの強大化を非常に懸念するようになった。1854年から1855年に行われたクリミア戦争と、第2次イタリア独立戦争によって、ヨーロッパの列強間の関係は粉砕された[6]。
1870年にドイツ帝国が成立して大陸の支配的な国家となり、ヨーロッパ間の勢力均衡は再構築された。そこから20年の間、ビスマルクによる条約の提案と三国同盟のような複雑な同盟関係の構築により、勢力均衡が維持された[7][8]。
世界大戦後
1890年代にビスマルクが首相を辞職した後、ドイツ帝国は外交政策を拡大政策へと変更させ、新たに第一次世界大戦の引き金となる脆弱な同盟を形成した。第一次世界大戦後の主要な条約であるヴェルサイユ条約の基本方針により、当時の外交政策を支配していた勢力均衡は廃止され、国際連盟に取り替えられた。
1920年代と1930年代に3つの思想によってヨーロッパは分断され、国際情勢は混迷した。イギリス、フランスが率いる自由民主主義国家、ソビエト連邦率いる共産主義国家、ドイツ、イタリアが率いる権威主義国家の3つである。民主主義国家がナチス・ドイツの台頭を防ぐことが出来ず、第二次世界大戦が勃発することになり、一時的にイギリスとソ連が同盟を結ぶことになった。イギリスは1939年のソ連によるポーランド侵攻を責めることなく、ドイツに宣戦布告した。ドイツのソビエト侵攻後、イギリスはソ連の側についた。
冷戦期
第二次世界大戦後、連合国は2つの陣営に分かれて、東西の陣営での勢力均衡が生じた。東側諸国はソビエト連邦と中欧、東欧の社会主義国家により構成されており、西側諸国はアメリカ、イギリス、フランスとアイルランド、スウェーデン、スイス、ユーゴスラビアを含む中立国によって構成されていた。ヨーロッパの民主主義国家の大半はアメリカ、カナダと北大西洋条約機構を結んだ。北大西洋条約機構は今日も続いており、他のヨーロッパ諸国にまで拡大している。最初の北大西洋条約機構事務総長であるイスメイ卿はこの組織の重要な目標について、ロシアを排除し、アメリカが介入し、ドイツを沈めることであると述べている[9]。
冷戦後
20世紀後半からEUの4つの大国であるイギリス、フランス、イタリア、ドイツはEUのビッグ4と言及される。ヨーロッパの地域大国とEUの構成国はそれぞれG7、G8、G20を代表している。NATO5カ国はアメリカとビッグ4によって構成される。
G4は特に4カ国の指導者層の会談にて用いられる。さらにイランの核開発問題の中G-3はしばしばフランス、イギリス、ドイツの外務大臣の集まりのことを示した。一方ポーランドとスペインの内務大臣を含んだ集まりはG6として知られる。ヨーロッパ最大の経済力を持つドイツは2010年欧州ソブリン危機の際には、しばしばEUの経済的リーダーと見なされた。一方国連の安全保障理事会であるフランスとイギリスは2011年のリビア飛行禁止空域のようにイタリアが実際の攻撃を行うことになったとしても外交、安全保障の問題においては、主導的な立場にあった。これらのバランスは、2016年のブレグジット以降どのように変化するかはまだ分からない。
しかし、西欧とロシアの戦略的バランスが拡大し、ソ連の崩壊以降2つの勢力の国境線は東に大きく押され、かつての中欧の共産国はEUとNATOに加入している。
脚注
- ^ Gordon Craig, "The System of Alliances and the Balance of Power." in J.P.T. Bury, ed., The New Cambridge Modern History, Vol. 10: The Zenith of European Power, 1830-70 (1960) p 266.
- ^ Roy Bridge, "Allied Diplomacy in Peacetime: The Failure of the Congress 'System,' 1815–23" in Alan Sked, ed., Europe's Balance of Power, 1815–1848 (1979), pp 34–53
- ^ C.W. Crawley, "International Relations, 1815-1830" in C.W. Crawley, ed., The New Cambridge Modern History: Volume 9, War and Peace in an Age of Upheaval, 1793-1830. Vol. 9 (1965) pp 669-71, 676-77, 683-86.
- ^ Frederick B. Artz, Reaction & Revolution: 1814–1832 (1934) p 170.
- ^ Paul W. Schroeder, The Transformation of European Politics: 1763–1848 (1996) p 800.
- ^ René Albrecht-Carrié, A diplomatic history of Europe since the Congress of Vienna (1958) pp 65-68, 84-106.
- ^ Erich Eyck, Bismarck and the German Empire (1964) pp 58-68
- ^ René Albrecht-Carrié, A diplomatic history of Europe since the Congress of Vienna (1958) pp 163-206.
- ^ Reynolds 1994, p. 13.
参考文献
- Albrecht-Carrié, René. A Diplomatic History of Europe Since the Congress of Vienna (1958), 736pp; basic survey
- Bartlett, C. J. Peace, War and the European Powers, 1814-1914 (1996) brief overview 216pp
- Clark, Christopher. Iron Kingdom: The Rise and Downfall of Prussia 1600-1947. Penguin Books, 2007
- Kennedy, Paul. The Rise and Fall of the Great Powers Economic Change and Military Conflict From 1500-2000 (1987), stress on economic and military factors
- Kissinger, Henry. Diplomacy (1995), 940pp; not a memoir but an interpretive history of international diplomacy since the late 18th century
- Langer, William. An Encyclopedia of World History (5th ed. 1973); highly detailed outline of events
- Simms, Brendan. Three Victories and a Defeat. Penguin Books, 2008.
- Strachan, Hew. The First World War. Simon & Schuster, 2006