「ゲンナジー・パルシン」の版間の差分
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それと並行してソ連代表スタッフとして働く。1978年からジュニア代表監督に就任、81年には[[コロラドスプリングス]]で開かれた世界ジュニア大会で優勝。1986年からA代表監督に就任、[[1986年バレーボール男子世界選手権|1986年世界選手権]]準優勝、[[1987年バレーボール男子欧州選手権|1987年欧州選手権]]優勝、[[1988年ソウルオリンピックのバレーボール競技|1988年ソウル五輪]]銀メダル<ref name="kyodo20060504">{{Cite web|author=共同通信|date=2006-05-04|url=http://www.47news.jp/CN/200605/CN2006050401002320.html|title=パルシン監督が退任表明 JTで全日本2度優勝|accessdate=2010-09-10}}</ref>、と数々の勝利に導く。また、在任中には[[シンガポール]]で行われた世界バレーボールフェスタで、世界オールスターチーム監督も経験した。 |
それと並行してソ連代表スタッフとして働く。1978年からジュニア代表監督に就任、81年には[[コロラドスプリングス]]で開かれた世界ジュニア大会で優勝。1986年からA代表監督に就任、[[1986年バレーボール男子世界選手権|1986年世界選手権]]準優勝、[[1987年バレーボール男子欧州選手権|1987年欧州選手権]]優勝、[[1988年ソウルオリンピックのバレーボール競技|1988年ソウル五輪]]銀メダル<ref name="kyodo20060504">{{Cite web|author=共同通信|date=2006-05-04|url=http://www.47news.jp/CN/200605/CN2006050401002320.html|title=パルシン監督が退任表明 JTで全日本2度優勝|accessdate=2010-09-10}}</ref>、と数々の勝利に導く。また、在任中には[[シンガポール]]で行われた世界バレーボールフェスタで、世界オールスターチーム監督も経験した。 |
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[[ソ連崩壊]]後の1992年から[[トルコ]]・[[イスタンブール]]の[[ネタシュ・イスタンブール]](NETAŞ İstanbul)男子監督に就任。トルコリーグ([[:tr:Aroma Erkekler Voleybol 1. Ligi]])で1995/96シーズン準優勝、翌1996/97シーズンはCEVカップ([[:en:Challenge Cup (volleyball)]])準優勝、リーグ優勝とカップ戦優勝の国内2冠。また、同年には[[バレーボールトルコ男子代表|トルコ男子代表]]監督として、欧州予選を勝ちぬき[[1998年バレーボール世界選手権|1998年世界選手権]]出場権を獲得。同年には全トルコ年間最高外国籍監督賞を受賞する。 |
[[ソビエト連邦の崩壊]]後の1992年から[[トルコ]]・[[イスタンブール]]の[[ネタシュ・イスタンブール]](NETAŞ İstanbul)男子監督に就任。トルコリーグ([[:tr:Aroma Erkekler Voleybol 1. Ligi]])で1995/96シーズン準優勝、翌1996/97シーズンはCEVカップ([[:en:Challenge Cup (volleyball)]])準優勝、リーグ優勝とカップ戦優勝の国内2冠。また、同年には[[バレーボールトルコ男子代表|トルコ男子代表]]監督として、欧州予選を勝ちぬき[[1998年バレーボール世界選手権|1998年世界選手権]]出場権を獲得。同年には全トルコ年間最高外国籍監督賞を受賞する。 |
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1999年[[オレーク・アントロポフ]]と共に来日、[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ]]・[[JTサンダーズ]]監督に就任<ref name="kyodo20060504" />。在任中、2001年・2004年と2度[[黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会|全日本選手権]]優勝するものの、リーグでは2位が3度と優勝には届かなかった<ref name="kyodo20060504" />。2006年に勇退<ref name="kyodo20060504" />、後任はアントロポフが務めた。 |
1999年[[オレーク・アントロポフ]]と共に来日、[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vリーグ]]・[[JTサンダーズ]]監督に就任<ref name="kyodo20060504" />。在任中、2001年・2004年と2度[[黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会|全日本選手権]]優勝するものの、リーグでは2位が3度と優勝には届かなかった<ref name="kyodo20060504" />。2006年に勇退<ref name="kyodo20060504" />、後任はアントロポフが務めた。 |
2020年12月26日 (土) 00:27時点における版
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基本情報 | ||||
国籍 | ラトビア[1] | |||
生年月日 | 1939年5月29日(85歳) | |||
出身地 | マハチカラ | |||
ラテン文字 | Gennadiy PARSHINE | |||
ロシア語表記表記 | Геннадий ПАРШИН |
ゲンナジー・ヴァシリエヴィチ・パルシン(ロシア語: Геннадий Васильевич Паршин、{{{2}}}ラテン翻字: Gennadiy Vasiliyevich Parshine、1939年5月29日 - )は、ソビエト連邦・マハチカラ出身のバレーボール指導者。元ソビエト連邦男子代表監督。FIVB公認インストラクター(レベル3)。ソ連・カザフスタン・ラトビア功労監督。
現カザフスタン男子代表監督。
来歴
若年時代はアルマトイで過ごす。1961年アルマトイスポーツアカデミー卒業。
1968年から1992年までリガの強豪・ラジオテクニカ・リガ(ru:Радиотехник (волейбольный клуб))男子監督として活躍。ヨーロッパ・ウィナーズカップ(en:CEV Top Teams Cup)連覇を含む優勝3回(1973/74・1974/75・1976/77)、ソ連トップリーグ(現ロシアスーパーリーグ)で1983/84シーズン優勝および準優勝6回、スパルタキアード(ru:Спартакиада、ソ連における国体)優勝1回と数々の栄冠に輝く。
それと並行してソ連代表スタッフとして働く。1978年からジュニア代表監督に就任、81年にはコロラドスプリングスで開かれた世界ジュニア大会で優勝。1986年からA代表監督に就任、1986年世界選手権準優勝、1987年欧州選手権優勝、1988年ソウル五輪銀メダル[2]、と数々の勝利に導く。また、在任中にはシンガポールで行われた世界バレーボールフェスタで、世界オールスターチーム監督も経験した。
ソビエト連邦の崩壊後の1992年からトルコ・イスタンブールのネタシュ・イスタンブール(NETAŞ İstanbul)男子監督に就任。トルコリーグ(tr:Aroma Erkekler Voleybol 1. Ligi)で1995/96シーズン準優勝、翌1996/97シーズンはCEVカップ(en:Challenge Cup (volleyball))準優勝、リーグ優勝とカップ戦優勝の国内2冠。また、同年にはトルコ男子代表監督として、欧州予選を勝ちぬき1998年世界選手権出場権を獲得。同年には全トルコ年間最高外国籍監督賞を受賞する。
1999年オレーク・アントロポフと共に来日、Vリーグ・JTサンダーズ監督に就任[2]。在任中、2001年・2004年と2度全日本選手権優勝するものの、リーグでは2位が3度と優勝には届かなかった[2]。2006年に勇退[2]、後任はアントロポフが務めた。
その後はトルコ男子代表コーディネーター、2008年10月からカザフスタン男子代表監督に就任した。
エピソード
2005年1月16日Vリーグ対サントリー・サンバーズ戦において、判定に反感を持ったパルシンは副審の背中を小突いた。これに対しVリーグ機構は同月20日、パルシンに対しVリーグ史上初となる2試合の出場停止処分を下した。
本来の規定であれば、試合中の暴力行為であるためその場で失格し退場処分だが、当試合の審判は口頭の注意のみだったため、のちの処分となった。また正しいルール適用が行われなかったとして、主審および副審、ジュリーの3人も処分された。
関連項目
脚注
- ^ JT公式(Internet Archive) (2006年5月4日). “チームトピックス”. 2010年9月16日閲覧。
- ^ a b c d 共同通信 (2006年5月4日). “パルシン監督が退任表明 JTで全日本2度優勝”. 2010年9月10日閲覧。
- ^ Vリーグ公式. “1月16日のサントリー対JT戦について”. 2010年9月10日閲覧。
- ^ 共同通信 (2005年1月20日). “JT監督は2試合出場停止 Vリーグ初の処分”. 2010年9月10日閲覧。
外部リンク
- スタッフプロフィール(JTサンダーズ公式(Internet Archive))
- パルシン・ゲンナジー監督が勇退(2006年5月8日付JTサンダーズ公式)