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[[ソ連崩壊]]に伴い同地は新しく成立した[[ウクライナ]]の一部となった。当初はウクライナを離脱しチェコスロバキアへの再併合を求める声もあったが、チェコスロバキアが[[チェコ|チェコ共和国]]と[[スロバキア]]に分裂したため議論されなくなった。しかし[[2008年]]には[[ムカーチェヴェ]]にて、[[ルシン人]]の[[民族主義]]政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言するなど、現在でも「[[ウクライナ人]]」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。 |
[[ソビエト連邦の崩壊]]に伴い同地は新しく成立した[[ウクライナ]]の一部となった。当初はウクライナを離脱しチェコスロバキアへの再併合を求める声もあったが、チェコスロバキアが[[チェコ|チェコ共和国]]と[[スロバキア]]に分裂したため議論されなくなった。しかし[[2008年]]には[[ムカーチェヴェ]]にて、[[ルシン人]]の[[民族主義]]政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言するなど、現在でも「[[ウクライナ人]]」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。 |
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ハンガリーの[[オルバーン・ヴィクトル]]政権は、ザカルパッチャ州でハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、[[ハンガリーの国旗]]が掲揚されている地域もある<ref>[https://mainichi.jp/articles/20191223/ddm/007/030/088000c 復活始めた「大ハンガリー」民族主義オルバン政権 隣国の市に財政支援]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年12月23日(国際面)同日閲覧</ref>。 |
ハンガリーの[[オルバーン・ヴィクトル]]政権は、ザカルパッチャ州でハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、[[ハンガリーの国旗]]が掲揚されている地域もある<ref>[https://mainichi.jp/articles/20191223/ddm/007/030/088000c 復活始めた「大ハンガリー」民族主義オルバン政権 隣国の市に財政支援]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年12月23日(国際面)同日閲覧</ref>。 |
2020年12月25日 (金) 23:24時点における版
- ザカルパッチャ州
- Закарпатська область
-
州旗 州章 -
国 ウクライナ 州庁所在地 ウージュホロド 面積
- 総計
- 陸地
- 水域全ウクライナ第23位
12,777 km²
? km²
? km² (?%)人口(2006年)
- 総計
- 人口密度全ウクライナ第17位
1,241,887人
98.02人/km²地区 13 領域共同体 x,xxx 市町村総数
- うち市の数
- うち町の数
- うち村の数
10
9
579州知事 {{{州知事}}} ISO 3166-2:UA UA-21 電話番号コード +380-31 公式サイト 合同庁
ザカルパッチャ州、ザカルパート州[1](ザカルパッチャしゅう、ザカルパートしゅう、ウクライナ語:Закарпатська областьザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの最も西に位置する州である。州庁所在地はウージュホロド。州名は、州の位置する地域の伝統的な名称からとられた。ロシア語名はザカルパチア州(Закарпатская область)。
歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地方である。
概要
ザカルパッチャ州は、ウクライナ・カルパート山脈の南西部から越カルパート低地にかけての地域ザカルパッチャ(越カルパート地域)[2]に位置している。ウクライナ人が多く住む地方であり西ウクライナの一部でもあった。しかしカルパティア山脈という障壁により、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国などウクライナと異なる国家に統治され続けた。
9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。
16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された。オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、ロシア帝国もロシア革命で崩壊したため、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力は西ウクライナ人民共和国に合流し、ドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を企図した。しかし、ポーランド・ウクライナ戦争により西ウクライナ人民共和国はポーランドに敗れ、結局合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はルーマニアへ亡命、国は亡びた。「カルパート・シーチ」は同年5月まで武力闘争を続けたが敗れた。
ハンガリー王国時代には、ベレグ、ウング、ウゴチャ、マーラマロシュ、シャーロシュ、ゼンプレーン県の各一部の地域となった。
第二次世界大戦末期の1944年11月にはソビエト連邦軍がナチス・ドイツとハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナの地域はザカルパート・ウクライナの国号の下、独立を宣言した。しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナと合併することになり、1945年7月には消滅した。1946年には、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された。
ソビエト連邦の崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となった。当初はウクライナを離脱しチェコスロバキアへの再併合を求める声もあったが、チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキアに分裂したため議論されなくなった。しかし2008年にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言するなど、現在でも「ウクライナ人」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。
ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル政権は、ザカルパッチャ州でハンガリー人が多く住む自治体へ財政支援を行っており、ハンガリーの国旗が掲揚されている地域もある[3]。
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西ウクライナ人民共和国の地図
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戦間期のチェコスロバキア共和国の地図
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チェコスロバキアにおけるカルパティア・ルテニア
主な都市
- ヴィノフーラジウ(Виноградів) / (ナジセーレーシュ)(Nagyszőlős) / Vinohradiv
- ウージュホロド(Ужгород) / (ウングヴァール)(Ungvár) / Uzhhorod
- ベーレホヴェ(Берегове) / (ベレクサース)(Beregszász) / Bergsoß / Berehove
- ([1])
人口
2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。
- 総人口: 1,258,300人[4]
- 都市人口: 466,000人(37%);農村人口: 792,300人(63%)[5]
- 性別人口:男性は 605,500人(48%);女性は 652,800人(52%)[6]
ウクライナ人の他、ハンガリー人、ルーマニア人、ロシア人、ロマ、スロヴァキア人、ドイツ人、ルシン人などが居住する。かつてはユダヤ人の人口も多かった。なお、ルシン人はウクライナ人と合わせてルテニア人とも呼ばれる多数民族である。このほか、同じく古来からのウクライナ人の一派であるフツル人も山岳地域を中心に居住している。
出身者
- ユーリー・ヴェネーリン - ウクライナ人の歴史家
- ミルトン・フリードマンの両親(アメリカ出身のユダヤ系経済学者)
- ロバート・マックスウェル(ヤーン・ルドヴィーク・ホッホ、ホッホ・ヤーノシュ・ラヨシュ) Robert Maxwell - イギリスのビジネスマン。ユダヤ系
- ムンカーチ・ミハーイ - ハンガリーの画家
脚注
- ^ 『世界地名大辞典2 ヨーロッパ・ソ連II』朝倉書店、昭和49年による表記。
- ^ 伝統的に、時期によってハンガリー・ルーシ、カルパート・ルーシ(カルパティア・ルテニア)、ルーシ国、ポドカルパート・ルーシ、カルパート・ウクライナ、ザカルパート・ウクライナと呼ばれる。
- ^ 復活始めた「大ハンガリー」民族主義オルバン政権 隣国の市に財政支援『毎日新聞』朝刊2019年12月23日(国際面)同日閲覧
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
参考文献
- 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』(世界各国史; 20)-東京:山川出版社、1998年. ISBN 9784634415003
- 中公新書; 1655)-東京 :中央公論新社、2002年. ISBN 4121016556 黒川祐次著『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』(
- Історія міст і сіл Української РСР: Закарпатська область. — Київ: УРЕ АН УРСР.