ウクライナ・ポーランド戦争 (1918年‐1919年)
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ウクライナ・ポーランド戦争 | |||||||
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ウクライナ独立戦争中 | |||||||
ウクライナ; 西ウクライナ; ポーランド; ハンガリー; ルーマニア王国; ソビエトロシア | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ポーランド ルーマニア王国 ハンガリー民主共和国 チェコスロバキア |
西ウクライナ人民共和国 ウクライナ人民共和国 | ||||||
指揮官 | |||||||
J.ピウスツキ | Y.ペトルーシェヴィチ | ||||||
戦力 | |||||||
ポーランド軍:190,000人 ルーマニア軍:4,000人 ハンガリー軍:620人 |
西ウクライナ軍:75,000人 ウクライナ軍:35,000人 | ||||||
被害者数 | |||||||
10,000人 | 15,000人 |
ウクライナ・ポーランド戦争(ウクライナ語: Українсько-польська війна;ポーランド語: Wojna polsko-ukraińska)は、1918年から1919年にかけてガリツィア地方の支配を巡って、西ウクライナ人民共和国とポーランド共和国との間に行われた戦争である。オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年11月1日にポーランドによる西ウクライナのリヴィウへの侵攻から始まった。第一次世界大戦に勝利を収めた連合国は、ウクライナ人をドイツ・オーストリアの同盟者と見なしてポーランドを支援した。ウクライナの軍勢が東方へ撤退する途中、ハンガリーとルーマニアが戦争に介入し、ポーランド側に味方してウクライナのザカルパッチャとブコビナを占領した。1919年7月にウクライナ軍は反撃を試みたが、国際的支援や物資不足のために撤退せざるを得なかった。1919年7月17日にポーランド軍がガリツィア全地域を確保したことにより戦争は終結し、西ウクライナ人民共和国の政府はウクライナ人民共和国へ亡命した。
参考文献
[編集]- 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- 中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (
- 中井和夫著 『ウクライナ・ナショナリズム』東京大学出版会、1998年.
- Литвин М. Українсько-польська війна 1918—1919 рр. / Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича НАН України; Інститут Східно-Центральної Європи. — Л., 1998.
- Hupert, W. Zajęcie Małopolski Wschodniej i Wołynia w roku 1919 — Lwów, 1929.
- Kozłowski, M. Między Sanem a Zbruczem: Walki o Lwów i Galicję Wschiodnią 1918–1919 — Kraków, 1990.
外部リンク
[編集]- ウクライナ・ポーランド戦争。目撃者の記録 - ウェイバックマシン(2008年1月16日アーカイブ分)
- 「ウクライナ・ポーランド戦争」『ウクライナ百科事典』
- ガリツィアの歴史