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アルメニアは、古代の文化遺産を持つ、単一、多政党制、民主主義の[[国民国家]]である。[[ウラルトゥ]]が成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・[[サトラピー]]に取って代わられた。[[アルメニア王国]]は紀元前1世紀に[[ティグラネス2世|ティグラネス大王]]のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めて[[キリスト教]]を公教として採用した国家となった<ref>({{Cite book|last=Garsoïan|first=Nina|author-link=Nina Garsoïan|title=Armenian People from Ancient to Modern Times|editor=R.G. Hovannisian|publisher=[[Palgrave Macmillan]]|year=1997|page=81|volume=1}})</ref><ref>{{Cite book|last=Stringer|first=Martin D.|title=A Sociological History of Christian Worship|url=https://archive.org/details/sociologicalhist00stri|year=2005|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-81955-8|page=[https://archive.org/details/sociologicalhist00stri/page/n101 92]}}</ref><ref>Smaller nations that have claimed a prior official adoption of Christianity include [[Osroene]], the [[Silures]], and [[San Marino]]. See [[Timeline of official adoptions of Christianity]].</ref>。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年である<ref>{{Cite book|first=René|last=Grousset|title=Histoire de l'Arménie|publisher=Payot|year=1947|edition=1984|page=122}}. Estimated dates vary from 284 to 314. Garsoïan (''op.cit.'' p. 82), following the research of Ananian, favours the latter.</ref>。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に[[東ローマ帝国]]と[[サーサーン朝]]の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活して[[バグラトゥニ朝アルメニア|アルメニア王国]]となった。東ローマとの戦争で衰退し、[[1045年]]に王国は陥落し、アルメニアはすぐに[[大セルジューク朝|セルジューク]]トルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後に[[キリキア・アルメニア王国]]は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。 |
アルメニアは、古代の文化遺産を持つ、単一、多政党制、民主主義の[[国民国家]]である。[[ウラルトゥ]]が成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・[[サトラピー]]に取って代わられた。[[アルメニア王国]]は紀元前1世紀に[[ティグラネス2世|ティグラネス大王]]のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めて[[キリスト教]]を公教として採用した国家となった<ref>({{Cite book|last=Garsoïan|first=Nina|author-link=Nina Garsoïan|title=Armenian People from Ancient to Modern Times|editor=R.G. Hovannisian|publisher=[[Palgrave Macmillan]]|year=1997|page=81|volume=1}})</ref><ref>{{Cite book|last=Stringer|first=Martin D.|title=A Sociological History of Christian Worship|url=https://archive.org/details/sociologicalhist00stri|year=2005|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-81955-8|page=[https://archive.org/details/sociologicalhist00stri/page/n101 92]}}</ref><ref>Smaller nations that have claimed a prior official adoption of Christianity include [[Osroene]], the [[Silures]], and [[San Marino]]. See [[Timeline of official adoptions of Christianity]].</ref>。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年である<ref>{{Cite book|first=René|last=Grousset|title=Histoire de l'Arménie|publisher=Payot|year=1947|edition=1984|page=122}}. Estimated dates vary from 284 to 314. Garsoïan (''op.cit.'' p. 82), following the research of Ananian, favours the latter.</ref>。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に[[東ローマ帝国]]と[[サーサーン朝]]の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活して[[バグラトゥニ朝アルメニア|アルメニア王国]]となった。東ローマとの戦争で衰退し、[[1045年]]に王国は陥落し、アルメニアはすぐに[[大セルジューク朝|セルジューク]]トルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後に[[キリキア・アルメニア王国]]は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。 |
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[[16世紀]]から[[19世紀]]の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、[[オスマン帝国]]と[[ペルシア帝国|ペルシャ帝国]]の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアは[[ロシア帝国]]に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。[[第一次世界大戦]]中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、[[第一次世界大戦]]で組織的に絶滅させられた。1918年、[[ロシア革命]]後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、[[アルメニア第一共和国]]が成立した。1920年には[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]に編入され、1922年には[[ソビエト連邦]]の建国メンバーとなった。1936年には、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。[[1991年]]、[[ソ連崩壊|ソビエト連邦の解散]]に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。[[ナゴルノ・カラバフ]]をめぐってアゼルバイジャンと、[[アルメニア人虐殺]]に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立しており、幾度となく紛争が発生している。[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争|2020年の紛争]]では事実上敗北し、支配下に置いていた領土の大部分をアゼルバイジャンに返還することとなっている<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35162198.html|title=アルメニア首相、ナゴルノ・カラバフ地域めぐる停戦で合意|work=CNN.co.jp|agency=[[CNN]]|date=2020-11-10|accessdate=2020-11-17}}</ref>。 |
[[16世紀]]から[[19世紀]]の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、[[オスマン帝国]]と[[ペルシア帝国|ペルシャ帝国]]の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアは[[ロシア帝国]]に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。[[第一次世界大戦]]中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、[[第一次世界大戦]]で組織的に絶滅させられた。1918年、[[ロシア革命]]後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、[[アルメニア第一共和国]]が成立した。1920年には[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]]に編入され、1922年には[[ソビエト連邦]]の建国メンバーとなった。1936年には、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。[[1991年]]、[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦の解散]]に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。[[ナゴルノ・カラバフ]]をめぐってアゼルバイジャンと、[[アルメニア人虐殺]]に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立しており、幾度となく紛争が発生している。[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争|2020年の紛争]]では事実上敗北し、支配下に置いていた領土の大部分をアゼルバイジャンに返還することとなっている<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/world/35162198.html|title=アルメニア首相、ナゴルノ・カラバフ地域めぐる停戦で合意|work=CNN.co.jp|agency=[[CNN]]|date=2020-11-10|accessdate=2020-11-17}}</ref>。 |
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アルメニアは[[開発途上国|発展途上国]]であり、人間開発指数(2018年)では81位にランクされている<ref>{{Cite web|url=http://hdr.undp.org/sites/all/themes/hdr_theme/country-notes/ARM.pdf|title=Human Development Report|date=2019|publisher=United Nations Development Programme (UNDP)|accessdate=27 July 2020}}</ref>。その[[経済]]は、主に工業生産と鉱物抽出に基づいている。[[ユーラシア経済連合]]、[[欧州評議会]]、[[集団安全保障条約|集団安全保障条約機構]]に加盟している。アルメニアは1991年に宣言された事実上の独立国である[[アルツァフ共和国|アルツァフ]]を支持している。また、世界最古の国教会である[[アルメニア教会|アルメニア使徒教会]]を国内の主要な宗教施設として認めている<ref>The republic has [[separation of church and state]]</ref>。[[アルメニア文字|アルメニア語のユニークなアルファベット]]は、西暦405年に[[メスロプ・マシュトツ]]によって作成された。 |
アルメニアは[[開発途上国|発展途上国]]であり、人間開発指数(2018年)では81位にランクされている<ref>{{Cite web|url=http://hdr.undp.org/sites/all/themes/hdr_theme/country-notes/ARM.pdf|title=Human Development Report|date=2019|publisher=United Nations Development Programme (UNDP)|accessdate=27 July 2020}}</ref>。その[[経済]]は、主に工業生産と鉱物抽出に基づいている。[[ユーラシア経済連合]]、[[欧州評議会]]、[[集団安全保障条約|集団安全保障条約機構]]に加盟している。アルメニアは1991年に宣言された事実上の独立国である[[アルツァフ共和国|アルツァフ]]を支持している。また、世界最古の国教会である[[アルメニア教会|アルメニア使徒教会]]を国内の主要な宗教施設として認めている<ref>The republic has [[separation of church and state]]</ref>。[[アルメニア文字|アルメニア語のユニークなアルファベット]]は、西暦405年に[[メスロプ・マシュトツ]]によって作成された。 |
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住民の大半は[[アルメニア人]](98.1%)。ほかに[[ロシア人]](0.3%)、[[クルド人]](0.1%)、[[アッシリア人]](0.1%)。[[公用語]]は[[アルメニア語]]。旧ソ連の構成国であったこともあり、[[ロシア語]]も幅広く通用する。ほかに少数民族として、[[アゼルバイジャン人]]も存在する。 |
住民の大半は[[アルメニア人]](98.1%)。ほかに[[ロシア人]](0.3%)、[[クルド人]](0.1%)、[[アッシリア人]](0.1%)。[[公用語]]は[[アルメニア語]]。旧ソ連の構成国であったこともあり、[[ロシア語]]も幅広く通用する。ほかに少数民族として、[[アゼルバイジャン人]]も存在する。 |
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アルメニアの賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外、特にアルメニアの3倍の賃金を得られる[[ロシア]]に、季節労働者として[[出稼ぎ]]に行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて外国に出ていく。就労先の国で家庭を持つ男性も多く、そのためアルメニアは人口が減っており、1991年の[[ソ連崩壊]]時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/data.html|title=アルメニア基礎データ|accessdate=2019年2月16日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite news |title=男だけが消えた 旧ソ連の小さな国 |newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2014-1-28 |author=Anaïs Coignac |url=http://www.newsweekjapan.jp/picture/126657.php|accessdate=2014-07-31}}</ref>。 |
アルメニアの賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外、特にアルメニアの3倍の賃金を得られる[[ロシア]]に、季節労働者として[[出稼ぎ]]に行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて外国に出ていく。就労先の国で家庭を持つ男性も多く、そのためアルメニアは人口が減っており、1991年の[[ソビエト連邦の崩壊]]時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/armenia/data.html|title=アルメニア基礎データ|accessdate=2019年2月16日|publisher=}}</ref><ref>{{Cite news |title=男だけが消えた 旧ソ連の小さな国 |newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2014-1-28 |author=Anaïs Coignac |url=http://www.newsweekjapan.jp/picture/126657.php|accessdate=2014-07-31}}</ref>。 |
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2020年12月25日 (金) 23:06時点における版
- アルメニア共和国
- Հայաստանի Հանրապետություն
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(国旗) 国章 - 国の標語:Մեկ Ազգ , Մեկ Մշակույթ
(アルメニア語: 一つの国家、1つの文化) - 国歌:Մեր Հայրենիք
我が祖国 -
公用語 アルメニア語 首都 エレバン 最大の都市 エレバン 独立
- 日付ソビエト連邦より
1991年9月21日通貨 ドラム(AMD) 時間帯 UTC+4 (DST:なし) ISO 3166-1 AM / ARM ccTLD .am 国際電話番号 374
アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)、通称アルメニアは、ユーラシア大陸の南コーカサスの内陸国である。西アジアのアルメニア高原に位置し[3] [4]、西にトルコ、北にジョージア、東に事実上の独立した共和国アルツァフ共和国とアゼルバイジャン、南ではイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァンに国境を接する[5]。
アルメニアは、古代の文化遺産を持つ、単一、多政党制、民主主義の国民国家である。ウラルトゥが成立したのは紀元前860年で、紀元前6世紀にはアルメニア・サトラピーに取って代わられた。アルメニア王国は紀元前1世紀にティグラネス大王のもとで絶頂期を迎え、紀元3世紀末から4世紀初頭には世界で初めてキリスト教を公教として採用した国家となった[6][7][8]。国家がキリスト教を採用した正式な日付は301年である[9]。古代アルメニア王国は、5世紀初頭頃に東ローマ帝国とサーサーン朝の間で分裂した。バグラトゥニ朝のもと、9世紀にバグラトゥニ王国が復活してアルメニア王国となった。東ローマとの戦争で衰退し、1045年に王国は陥落し、アルメニアはすぐにセルジュークトルコの侵略を受けた。アルメニア公国と後にキリキア・アルメニア王国は、11世紀から14世紀の間に地中海の海岸に位置していた。
16世紀から19世紀の間に、東アルメニアと西アルメニアで構成される伝統的なアルメニアの祖国は、オスマン帝国とペルシャ帝国の支配下にあり、何世紀にもわたって、2つのどちらかによって繰り返し支配された。19世紀までには、東部アルメニアはロシア帝国に征服され、西部アルメニアはオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦中、150万人のアルメニア人がオスマン帝国の先祖代々の土地に住んでいたが、第一次世界大戦で組織的に絶滅させられた。1918年、ロシア革命後、ロシア帝国が消滅した後、ロシア以外のすべての国が独立を宣言し、アルメニア第一共和国が成立した。1920年にはザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入され、1922年にはソビエト連邦の建国メンバーとなった。1936年には、アルメニア・ソビエト社会主義共和国を含む構成国が完全な連邦共和国へと変貌を遂げ、トランスコーカサス州は解散した。1991年、ソビエト連邦の解散に伴い、現代のアルメニア共和国が独立した。ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立しており、幾度となく紛争が発生している。2020年の紛争では事実上敗北し、支配下に置いていた領土の大部分をアゼルバイジャンに返還することとなっている[10]。
アルメニアは発展途上国であり、人間開発指数(2018年)では81位にランクされている[11]。その経済は、主に工業生産と鉱物抽出に基づいている。ユーラシア経済連合、欧州評議会、集団安全保障条約機構に加盟している。アルメニアは1991年に宣言された事実上の独立国であるアルツァフを支持している。また、世界最古の国教会であるアルメニア使徒教会を国内の主要な宗教施設として認めている[12]。アルメニア語のユニークなアルファベットは、西暦405年にメスロプ・マシュトツによって作成された。
国名
正式名称はアルメニア語(アルメニア文字)で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。通称、Հայաստան(Hayastan)。
英語の公式表記は、Republic of Armenia。通称、Armenia。
日本語の表記は、アルメニア共和国。通称、アルメニア。
アルメニア人は自らをհայ(hay)ハイ(複数形はհայեր(hayer)ハイェル、またはհայք(hayk')ハイク)、国をハヤスタン、またはՀայք(Hayk')ハイクと呼ぶ[13][14]。
正式名称Hayastani Hanrapetut'yunの語源は、アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトとペルシャ語で国を示す接尾語スターン (地名)から来ている[15]。アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
歴史
先史時代にはクラ・アラクセス文化があったことが知られており、文明の早い時期から車輪が使われていた。
紀元前6世紀ごろには国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。
1世紀頃にはキリスト教の布教(十二使徒聖タデヴォス、聖バルトゥロメウスが伝道し、殉教した)、2世紀にはアルメニア高地の各地にキリスト教徒がかなりの数に上ったと伝える(カエサリアのエウセビウス(260年 - 339年)『教会史』)。
紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とした[16]。
405年 - 406年、アルメニア文字がメスロプ・マシュトツ(361年 - 440年)によって創始された。
その後、サーサーン朝ペルシアの支配下に入り(en:Persian Armenia)、さらにアラブの侵攻を受けるが(en:Ostikanate of Arminiya)、9世紀半ばにはバグラト朝が興り(en:Kingdom of Armenia (Middle Ages))、独立を回復した。
しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝(en:Seljuq Armenia)、en:Zakarid Armenia、モンゴル(en:Mongol Armenia)・ティムール朝(en:Turkmen Armenia)などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった[17]。
1636年にアルメニアはオスマン帝国(en:Armenians in the Ottoman Empire)とサファヴィー朝ペルシア(en:Armenians in the Persianate)に分割統治された。
1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア領となる。
19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。
ロシア革命後に民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立されるが、赤軍の侵攻により崩壊し、1920年にアルメニア社会主義ソビエト共和国が成立した。1936年まではザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成していた。
1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起こり、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突し、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に発展した。
1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立を遂げた[18]。10月17日、大統領選挙でレヴォン・テル=ペトロシャンが圧勝した。
しかし、カラバフをめぐるアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いている。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となった。
政治
政体は共和制である。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。
一院制の国民議会があり、任期が4年である。定数は131議席で、そのうち75議席が大選挙区制、56議席は比例代表制(2012年時点)。
州知事と大都市の市長は任命制である。
国防組織としてアルメニア共和国軍が存在し、内陸国のため海軍は存在せず、アルメニア陸軍、アルメニア空軍、アルメニア国境軍の3軍種により構成される。
新憲法民主化制下で
1995年7月、新議会選挙および新憲法草案について国民投票が行われる。議会選挙では共和国ブロックが勝利、新憲法についての選挙では大統領任期5年、議会解散権、首相任免権付与などの内容が採択された。
1996年9月、新憲法のもとで初の大統領選挙が実施された。初代大統領のレヴォン・テル=ペトロシャンが再選される。
1998年、テル=ペトロシャンの辞任に伴い大統領選挙が行われ、ロベルト・コチャリャンが選出される。1999年10月、国会内で首相、国会議長など8名が死亡した銃撃事件が起こった(アルメニア議会銃撃事件)[19]。
その後、おおむね政情は安定していたが、コチャリャンの任期終了に伴い2008年に行われた大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出。対立候補であった元大統領のテル=ペトロシャン陣営はこの結果に異議を唱え、大規模な抗議活動が発生、同年3月1日から3月20日まで非常事態宣言が発令されるなど、政情が一時不安定になった。同年4月にサルキシャンは大統領に就任。その後、任期中の2015年に大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する改憲を成立させた。2018年に2期10年の任期が満了したが、同年4月17日にサルキシャンは大統領退任に伴い首相に鞍替えしたことから、長期政権や汚職疑惑に野党や一部の国民が反発、大規模な抗議活動へと発展した。これを受けてサルキシャンは4月23日に辞任を表明、5月1日に議会選挙が行われたが、最大野党のニコル・パシニャン党首しか出馬しなかったことを理由に与党は反対、否決された。この結果を受けたパシニャン支持派が首都エレバンで大規模な抗議活動やゼネラル・ストライキが起こり12月に総選挙となり首相が率いる改革派が勝利した[20]。
国際関係
ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと対立している。トルコとも歴史認識をめぐって対立していたが、2009年10月10日にスイスでトルコとの国交調印式が行われた。
地方行政区画
アルメニアは11の地方(marzer、単数はmarz)に分かれる。
- アラガツォトゥン地方 (Արագածոտնի մարզ)
- アララト地方 (Արարատի մարզ)
- アルマヴィル地方 (Արմավիրի մարզ)
- ゲガルクニク地方 (Գեղարքունիքի մարզ)
- コタイク地方 (Կոտայքի մարզ)
- ロリ地方 (Լոռու մարզ)
- シラク地方 (Շիրակի մարզ)
- シュニク地方 (Սյունիքի մարզ)
- タヴシュ地方 (Տավուշի մարզ)
- ヴァヨツ・ゾル地方 (Վայոց Ձորի մարզ)
- エレバン (Երևան)
地理
アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1,000 - 3,000メートルであり、3,000メートル級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4,090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。
国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通りアララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5,165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラス川(アラクス川、キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800メートル以上。1万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。
中央部にセヴァン湖(標高1,900メートル、深さは36 - 80メートル。高山の淡水湖で、ここで採れる魚は「イシュハン・ヅーク(魚の王子さま)」と呼ばれる)が存在する。森林は少なく、急流となった小規模な河川が多い。森林地帯は国土の15%で、可耕地は17%、牧草地は30%、乾燥不毛地は18%を占めている。
隣国のトルコやイラン同様、地震が多い。1988年に発生したアルメニア地震では2万5,000人もの死者を出した。
鉱物資源に富み、鉄鉱石、ボーキサイト、銅、亜鉛、モリブデンが産出する。また、南部のシェニーク地方ではウラニウム鉱床も確認されている。石灰岩は全国に分布する。
気候
気候の特徴としては、日照時間が多いことが挙げられている。アララト盆地(首都エレバン)では年間2,711時間で、40℃を超える時もある。ケッペンの気候区分によると、低地はステップ気候(BS)、高地は亜寒帯湿潤気候(Df)である。低地は雨が少なく、高地は多い。高地特有の大陸性乾燥気候で、四季がある。年平均降水量は地域によって差があるが200 - 900ミリである。
首都エレバンの平均気温は11.4℃、年降水量は318ミリ。1月の平均気温は氷点下5.5℃、8月は25.5℃である。しかしながら高地に位置すること、冬季に前線が停滞することなどから天候は変化に富んでおり、エレバンに限定しても氷点下25℃から40℃まで気温が変化する。
主な都市
- エレバン - アルメニアの首都であり、世界最古の都市のひとつでもある。北緯40度10分、東経44度31分に位置する。人口約106万人(2004年)。
- クマイリ - 第2の都市で、人口は21万人。
- ヴァナゾール - 人口17万人の第3の都市。
経済
IMFの統計によると、2013年のアルメニアのGDPは104億ドルである。1人あたりのGDPは3,173ドルで、南コーカサス3国の中ではもっとも低く、世界平均の約30%の水準に留まっている[2]。
主要産業は、農業、工業、宝飾品加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は国民の8%に過ぎない。農業では綿、ぶどう、野菜の栽培が盛ん。穀物としては小麦と大麦を産する。
アルメニアは新生代、中生代の造山帯の中央に位置し、国内に多数の火山性塊状硫化物鉱床が点在する。このため、規模は小さいものの貴金属を産する。鉱物資源は金(2003年時点の採掘量は1.8トン)、銀(同4トン)、銅(同1.8万トン)である。
アルメニアはエネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから、国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震のあと、独立後の1995年まで6年半にわたって閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されているロシア型加圧水型原子炉440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成をめどにロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。
国民
住民の大半はアルメニア人(98.1%)。ほかにロシア人(0.3%)、クルド人(0.1%)、アッシリア人(0.1%)。公用語はアルメニア語。旧ソ連の構成国であったこともあり、ロシア語も幅広く通用する。ほかに少数民族として、アゼルバイジャン人も存在する。
アルメニアの賃金は安いため、就労年齢に達した男性は、国外、特にアルメニアの3倍の賃金を得られるロシアに、季節労働者として出稼ぎに行くことが多い。アルメニア人男性の9割が職を求めて外国に出ていく。就労先の国で家庭を持つ男性も多く、そのためアルメニアは人口が減っており、1991年のソビエト連邦の崩壊時に350万人だった人口は2017年時点で290万人となっている[21][22]。
宗教
宗教では、非カルケドン派のひとつであるアルメニア教会の信者が大部分を占める。ほかにギリシャ正教やカトリックの信徒がいる。301年に世界で初めてキリスト教を国教化したことで有名。
少数民族であるクルド人やアゼルバイジャン人の多くはイスラム教を信仰し、クルド人の中にはヤズディ教の信者も存在する。なお、イスラム教に改宗したアルメニア人であるヘムシン人と呼ばれる民族が、隣国トルコなどに存在する。
教育
教育制度は、5 - 6歳までの幼稚園や保育園、6 - 7歳から中等教育(10 - 11年制。小学校にあたるのが1 - 3年生、中学校にあたるのは4 - 8年生、高等学校にあたるのが9 - 10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く)、その上は大学である。義務教育期間は中等教育の8年生まで。授業料は無料で、全国に1,439校ある(2003年現在)[23]。
2011年には小学校でのチェス学習を義務化している。
文化
古くからワインの製造が盛んで、特にブランデーは有名。アルメニア・コニャックと呼ばれる。
アルメニア語は、インド・ヨーロッパ語族の仲間で、印欧祖語から派生したといわれている。
石の建造物
石が古くから使われてきた。紀元前9 - 8世紀以降、多くの要塞、城市、防備用建築などを石で作り上げてきた。エレバンのバザールやトゥマニヤン記念館はアルティクで産出した凝灰岩でできている。スペンディアリアン記念オペラ・バレー劇場や共和国広場にかつてあったレーニン像の石は、パンバク地方産の花崗岩である。マテナダラン(メスロプ・マシトツ記念古文書収蔵館)、ジェノサイド犠牲者碑のモニュメント、共和国広場の水飲み場「七つの泉」などは、淡灰色の玄武岩でできている。地下鉄駅の入り口ホールは多彩な大理石で飾られている[24]。
音楽
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食文化
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映画
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スポーツ
サッカーで、国内リーグであるアルメニア・プレミアリーグがある。あまりA代表では名を残したことはないが、2016年夏、当時ドルトムント所属だったヘンリク・ムヒタリアンがマンチェスター・ユナイテッドへと移籍し、アルメニア初のイングランド上陸選手となった。なおムヒタリアンは1991年にソ連から独立してからの歴代得点王である。
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世界遺産
世界遺産として3か所の文化遺産が指定されている。991年に創建されたハフパット修道院とサナヒン修道院、4世紀に創立したゲガルド修道院とアザト川上流域、4世紀に建立されたエチミアツィンの大聖堂と教会群およびズヴァルトゥノツの考古遺跡がある。
祝祭日
アルメニアでは伝統的なアルメニア暦も使用される。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Ամանօր | |
1月6日 | クリスマス(ユリウス暦基準) | Սուրբ Ծնունդ | 12月31日からクリスマス休暇。 |
1月28日 | 軍隊の日 | Հայոց բանակի օր | |
4月7日 | 女性と母性の日 | ||
4月24日 | 虐殺の犠牲者の記念日 | Եղեռնի զոհերի հիշատակի օր | 1915年–1922年のトルコ政府による虐殺 |
5月9日 | 戦勝と平和の日 | ||
5月28日 | 1918年の共和国の日 | I Հանրապետության օր | |
7月5日 | 憲法の日 | Սահմանադրության օր | 1995年に憲法が制定されたことを祝す。 |
9月21日 | 独立の日 | Անկախության օր | 十字架挙栄祭と同一 |
12月7日 | 1988年大地震、犠牲者の記念日[25] |
脚注
- ^ “アルメニア基礎データ=外務省” (英語) (2014年10月). 2019年2月16日閲覧。
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年11月9日閲覧。
- ^ Central Intelligence Agency (2014). The CIA World Factbook 2015. Skyhorse Publishing. p. 5241. ISBN 978-1-62914-903-5
- ^ The UN classification of world regions Archived 25 June 2002 at the Wayback Machine. places Armenia in Western Asia; the CIA World Factbook “Armenia”. The World Factbook. CIA. 10 October 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。2 September 2010閲覧。 “Armenia”. National Geographic. 8 August 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。16 April 2009閲覧。,
{{cite encyclopedia}}
: 出典が入力されていません。 (説明), (Italian) Calendario Atlante De Agostini (111 ed.). Novara: Istituto Geografico De Agostini. (2015). p. sub voce. ISBN 9788851124908 and Oxford Reference Online Oxford Reference. Oxford Reference Online. (2004). doi:10.1093/acref/9780199546091.001.0001. ISBN 9780199546091 . also place Armenia in Asia. - ^ The Oxford Encyclopedia of Economic History. Oxford University Press. (2003). p. 156. ISBN 978-0-19-510507-0
- ^ (Garsoïan, Nina (1997). R.G. Hovannisian. ed. Armenian People from Ancient to Modern Times. 1. Palgrave Macmillan. p. 81)
- ^ Stringer, Martin D. (2005). A Sociological History of Christian Worship. Cambridge: Cambridge University Press. p. 92. ISBN 978-0-521-81955-8
- ^ Smaller nations that have claimed a prior official adoption of Christianity include Osroene, the Silures, and San Marino. See Timeline of official adoptions of Christianity.
- ^ Grousset, René (1947). Histoire de l'Arménie (1984 ed.). Payot. p. 122. Estimated dates vary from 284 to 314. Garsoïan (op.cit. p. 82), following the research of Ananian, favours the latter.
- ^ “アルメニア首相、ナゴルノ・カラバフ地域めぐる停戦で合意”. CNN.co.jp. CNN. (2020年11月10日) 2020年11月17日閲覧。
- ^ “Human Development Report”. United Nations Development Programme (UNDP) (2019年). 27 July 2020閲覧。
- ^ The republic has separation of church and state
- ^ 伝説ではこのハイ族の族長アルメナケが一族を率い、自らを王と名乗り、一族をアルメニア族と名乗った事が、アルメニアの起源とされている
- ^ 造山運動に伴う火山活動でできた石が豊富であり、石の国=カラスタンとも呼ばれる(中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年 20ページ)
- ^ Armenica.org:Chronology
- ^ そのため、エルサレムの聖墳墓教会の塗油台の壷は特別に2個おく事が認められている。他は、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五大総主教座(ローマはカトリック教会、残りは東方正教会)、及び、コプト教会のアレクサンドリア総主教座が各1個。合計8個
- ^ その中の一部は11世紀にトルコ南東部のキリキアに移住しキリキア・アルメニア王国を建国、14世紀末まで独立を保った
- ^ 9月21日、「アルメニアの独立」は、国民投票で承認された。
- ^ 吉村貴之「アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か」『アジ研ワールド・トレンド』第8巻第4号(通巻第79号)、アジア経済研究所広報部、2002年4月、30頁、ISSN 13413406、NAID 40005089033。
- ^ “アルメニア選挙、改革派が圧勝 対ロ関係維持が焦点”. 2019年3月19日閲覧。
- ^ “アルメニア基礎データ”. 2019年2月16日閲覧。
- ^ Anaïs Coignac (2014年1月28日). “男だけが消えた 旧ソ連の小さな国”. ニューズウィーク 2014年7月31日閲覧。
- ^ メラニア・バグダサリヤン「教育問題」/ 中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年
- ^ 中島偉晴、メラニア・バグダサリアン編著 『アルメニアを知るための65章』 明石書店 2009年 20–21ページ
- ^ 家屋などの倒壊により約2万5千人が死亡、被災地支援に向かった軍用輸送機Ил-76が墜落、兵士69人を含む78名全員死亡。
関連項目
外部リンク
日本政府
観光
その他
- 不思議な、不思議な「アルメニア共和国」
- 高度情報科学技術研究機構 - アルメニア大地震とアルメニア原子力発電所の閉鎖
- 「ナゴルノ・カラバフ:国家のようで国家でない地域」(Hinako Hosokawa),Global News View /2017年7月
- JapanArmenia.com