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* 1000本安打:1984年8月7日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]17回戦(横浜スタジアム)、5回表に[[久保文雄]]から二塁内野安打 ※史上134人目 |
* 1000本安打:1984年8月7日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]17回戦(横浜スタジアム)、5回表に[[久保文雄]]から二塁内野安打 ※史上134人目 |
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* 100本塁打:1984年8月20日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、3回表に[[尾花高夫]]から2ラン ※史上134人目 |
* 100本塁打:1984年8月20日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、3回表に[[尾花髙夫|尾花高夫]]から2ラン ※史上134人目 |
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* 1000試合出場:1984年8月29日、対[[広島東洋カープ]]20回戦(ナゴヤ球場)、1番・[[右翼手]]として先発出場 ※史上250人目 |
* 1000試合出場:1984年8月29日、対[[広島東洋カープ]]20回戦(ナゴヤ球場)、1番・[[右翼手]]として先発出場 ※史上250人目 |
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* 1500試合出場:1989年7月12日、対[[中日ドラゴンズ]]12回戦([[阪神甲子園球場]])、6番・左翼手として先発出場 ※史上93人目 |
* 1500試合出場:1989年7月12日、対[[中日ドラゴンズ]]12回戦([[阪神甲子園球場]])、6番・左翼手として先発出場 ※史上93人目 |
2020年12月23日 (水) 05:05時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市西区 |
生年月日 | 1954年1月8日(70歳) |
身長 体重 |
173 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1975年 ドラフト1位 |
初出場 | 1976年4月7日 |
最終出場 | 1991年10月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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田尾 安志(たお やすし、1954年1月8日 - )は、香川県三豊市生まれ、大阪府大阪市西区出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)・監督、コーチ、野球解説者、タレント。
現役引退後は、東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた。2019年、琉球ブルーオーシャンズの設立に参加し、初代ゼネラルマネージャーを経て、2020年のキャンプイン直前から同シーズン終了後の退団までシニアディレクター兼打撃総合コーチを務めた。
夫人は歌手のMADAM REY(マダムレイ)。歯科医師の田尾耕太郎は長男。二男はSoushiとして音楽活動・ラジオ関西“MADAM REYのメッチャ★ROCK”でラジオパーソナリティをつとめ、長女の志織もパンダと名乗り音楽活動に励んでいる。
経歴
プロ入りまで
野球は小学5年生から始める。創設間もないリトルリーグ選抜に選ばれ関西地区で優勝し全国大会でも準優勝した。水泳でも大阪市で3位に入った[1]。
泉尾高校ではエースとして活躍。1972年夏の甲子園府予選は、2回戦で近大付高、準々決勝で大商大付高を降す。準決勝で浪商に敗退するが好投手として注目された。泉尾高校の野球部は田尾の入部時に先輩部員は5人しかいない弱小野球部で、キャッチボールで田尾の球が取れないほどだった。高校時代に関西大学野球部の練習に参加したが、関西大学は翌年度からスポーツ推薦枠を廃止、同志社大学社会学部社会学科産業関係学専攻へ進学する[2]。
同志社大学では投手で四番打者、登板しない試合も野手として出場することが多かった。1年上の笹本信二とバッテリーを組み活躍。関西六大学野球リーグでは3回優勝。1973年の全日本大学野球選手権大会は準決勝に進むが、エース田村政雄を擁する中大に完封負け。同年の明治神宮野球大会は決勝で駒大に敗れ準優勝。1974年春季リーグでは、個人最高打率.548のリーグ記録を残し首位打者を獲得、秋季リーグでも2季連続で首位打者となる。同年の明治神宮野球大会もベスト4に喰い込む。リーグ通算では打者として70試合出場、211打数78安打、打率.370、10本塁打、37打点。投手として35試合登板、14勝3敗、防御率2.12、112奪三振。ベストナイン(外野手)3度受賞。大学2年時から3年連続で日米大学野球の日本代表に選出された。
現役時代
1975年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。監督の与那嶺要のコメントが「アンダースロー用の代打で期待している」と書いてあり[3]、田尾はレギュラー取って3割を打ってやるぐらいの気持ちで入団したという[3]。
ルーキーイヤーの1976年は、4月17日に左翼手、五番打者として先発出場したものの、その後は代打起用にとどまり「二軍でやらせてもらえませんか」とコーチに相談して、二軍に行かせてもらった[3]。大学時代は投手だったので、守備、走塁に関してはまったくプロのレベルに達していなかった[3]。5、6月にきっちり二軍で練習と実戦を積み、8月から一軍で左翼手として起用されるようになる[3]。同年は44試合に先発、打率.277で新人王に輝いた。
1977年はウィリー・デービスの新入団もあって開幕からレギュラーを外れ、出場機会も減少する。しかし1978年には左翼手の定位置を奪還、1979年には初の規定打席(32位、打率.251)に到達した。1980年は主に一番打者として起用され打率.299(9位)、1981年には打率.303(10位)を記録。同年から4年連続で打率3割を超え、3年連続でベストナインを獲得。1982年から1984年にかけて3年連続の最多安打を記録、1982年は最多出塁数のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献した。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは全6試合に右翼手、一番打者として先発。日本一はならなかったが23打数7安打1打点の記録を残す。1982年は打率.351(2位)、1983年は打率.318(3位)の好成績を残すが、首位打者のタイトル獲得には及ばなかった(次項にて詳述)。
1985年、杉本正・大石友好との交換トレードで西武ライオンズに移籍。チームの顔であった田尾の放出は、多くの中日ファンにも衝撃を与え、有志が田尾のトレード撤回を求めて署名活動を行う事態にまで発展した。田尾がトレードを通告されたのはキャンプイン直前の1月24日であった[4]。また、移籍直後にナゴヤ球場で行われた中日対西武のオープン戦や、当時年間数試合、同球場にて近鉄バファローズ主催で行われていた、パ・リーグ公式戦の西武戦開催時には、中日ファンが多数球場に詰めかけた。田尾の打席時に中日時代の応援歌が流され、翌日のスポーツ紙などに大きく掲載されたこともある。このように、他球団の選手となった後も、かつての地元名古屋で根強い人気を誇った[5]。
1985年は開幕から三番打者として起用されるが、打率.268(25位)と伸び悩む。田尾曰く「同年のキャンプ初日に西武の選手が体が出来上がっていたのを見て焦って調整して、左ひじを痛めてそのまま治らず、西武時代の2年は打率.268、打率.265と振るわなかった。」[6]と述べている。しかし同年のリーグ優勝に貢献。1985年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全6試合に右翼手、三番打者として起用され、22打数7安打。1986年には自身3回目となる広島東洋カープとの日本シリーズ出場で初めて日本一を経験した。このシリーズでは4試合に先発し、20打数6安打1打点を記録。
1987年、吉竹春樹・前田耕司との交換トレードにより学生時代からの念願だった阪神タイガースに移籍。先発出場の機会は減るもののここ一番の強さを発揮し、1988年には、村山との確執(後述)から出場機会が減少したが、3本のサヨナラ本塁打(うち、鹿取義隆から2本、津田恒美から1本)を放った。シーズン3本のサヨナラ本塁打は当時のプロ野球記録だったが(1993年にヤクルトスワローズのジャック・ハウエルが更新、現在は5本)、田尾の場合シーズン4本塁打のうち3本がサヨナラ本塁打だった。1991年、前年阪神移籍後では初の規定打席にも到達(到達自体も5年ぶり)し復調したかにみえたが、この年視力が著しく悪化し過去最低の成績に終わったこともあり現役引退を決断した。体力はまだまだやれる自信があったと後年語っている。
五打席敬遠
1982年10月18日、田尾は首位打者争いでトップの大洋の長崎啓二に1厘差まで迫っていた[7]。この日の大洋対中日は中日のシーズン最終戦で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った[8]。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった[8]。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった[8]。
敬遠行為そのものはこの他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもあるが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合だったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招くこととなる。
試合前の時点で中日は全日程を終えた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでおり、中日が勝つか引き分けなら中日の優勝だが、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグ優勝が掛かった大一番だった[注 1]。フジテレビも急遽、『月曜ナイター 大洋×中日』を放送し、大洋球団主催試合歴代トップ[注 2][注 3]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。このような試合であったが、大洋は田尾に5打席連続敬遠を行い、走者として出塁した田尾が失点に絡むケースもあり試合は大敗。この結果、中日の優勝が決まった。
世論は中日のリーグ優勝よりも、大洋が勝利よりも個人記録を優先した行為を問題視していた。納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[注 4]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。
「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」などと反論されて抗議は退けられたが、一段落した後も、世論は大洋の行為に疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書『プロ野球データブック[信頼性要検証]』で大洋の行為を糾弾した。
当時大洋監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明し、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。
引退後
野球評論家に転身する。フジテレビと専属契約を結び、東海テレビ・関西テレビの野球中継にも出演する他、ニッポン放送解説者、サンケイスポーツ(大阪本社)野球評論家として活動。「プロ野球ニュース」(フジテレビ)のメインキャスターや「週刊!田尾スポ」(関西テレビ、関西ローカル)の司会など、タレント活動も展開。明るく爽やかなキャラクターで、幅広い層に親しまれる。地元の海の釣り舟の船頭役で、映画『釣りバカ日誌9』にも出演する。
2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任。自身初の監督・コーチ経験となる。田尾の要請で就任したのはヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広の2人である[10]。3月26日のパシフィック・リーグ公式戦開幕試合(千葉マリンスタジアムでの対千葉ロッテマリーンズ戦)では、田尾自らがスターティングメンバーを発表し、エース岩隈久志投手の被安打5失点1での完投によりスコア3対1で球団初勝利を収めた。しかし、翌3月27日の開幕2試合目には0対26と大敗。このシーズンは結局38勝97敗1分という成績不振で、同年シーズン終了後に解任された。解任後、宮城県では解任に反対する団体東北若鷲会による署名活動が行われ、3000人以上の署名が集まり球団へ提出される事態に発展した。
ただし、当時の球団代表であった島田亨は、球団の地元人気に貢献した実績を認めつつ、監督の要請を引き受けたことへの感謝を表明しており、シーズン終盤までは三木谷の要請もあって来季も続投させる方針としていたものの、フロント幹部とのやり取りの最中に選手層の薄さや選手陣のミスプレーを論い、チーム編成への不満を口にする一方、トレードや補強の話題に終始し、敗戦内容を生かした今後の改善策や戦略、チーム作りなどの関して具体性を伴ったプランを示そうとしないなど、指導者として選手を信頼しフロントと協調してチーム作りに尽力する姿勢が欠落しており、その後のやり取りでもその態度が改善される見込みがなかったため、今後の球団の発展のためにもこれ以上続投させることは難しいと判断せざるをえなかったと回想しており、成績不振による解任という報道内容を否定している[11][12]。なお、田尾自身は、後に島田らフロント幹部を通じてではなく、可能な限り三木谷と直接会話をすることを希望していたが、島田たちからは本業での多忙を理由に再三に渡り三木谷との会話を拒否されたことや、島田たちのビジネスライクな対応が気に食わず、フロント幹部への不信感が募っていたことを大久保博元との対談などで明らかにしている[注 5] [13][14]。
監督退任後は再びフジテレビ・東海テレビ・関西テレビ・ニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツ野球評論家等を務めた。ニッポン放送の中継では、2017年以降2020年現在、4年連続でセントラル・リーグの優勝決定試合の解説担当となっている[15]。
2007年2月18日の東京マラソンに参加し、完走した。その後、同年12月9日のホノルルマラソンにも夫婦で出場(TBSの番組企画)、完走している。
2019年7月18日には、株式会社BASEが琉球ブルーオーシャンズ(沖縄県内を本拠地を定める初めてのプロ野球球団)を設立したことに伴って、同球団のエグゼクティブ・アドバイザーに就任することが発表された。同球団は既存の独立リーグに参加しない一方で、将来のNPB加盟を目標に置いていることから、就任後は野球解説者・評論家としての活動と並行しながらの活動となる[16]。7月26日付でゼネラルマネージャーに正式就任したことが発表された[17]。球団初のキャンプイン前日(2020年1月24日)に、役職をシニアディレクター兼打撃総合コーチへ変更。「グラウンドで選手を指導したい」という自身の希望に沿った変更[18]で、楽天監督時代の2005年以来15年振りの現場復帰を果たしたが、同年シーズン終了後、退団が決定した[19]。
2020年3月に自身の公式Youtubeチャンネルを開設。本人は低評価が高評価を大幅に上回る不評な動画を公開しまった時にも「苦言は自分を律してくれるものという考えが根っこにあるから、批判もありがたく感じることができる」と受け入れる姿勢を示している[20]。
人物
野球人として
現役時代は俊足巧打の外野手として鳴らした。甘いマスクと華のあるプレー、実直な姿勢などが幅広い年代のファンに愛され、イチローも子供の頃に憧れた選手として名前を挙げている。打席での構えでバットをグルグル回す「円月打法」から広角に打ち分け、安打製造機と呼ばれた[3]。
左利き(左投左打・食事も左)だが、ペンのみ右手を使用。
柔和な風貌とは対照的に硬骨漢で知られ、上層部相手にも「言うべきことは言う」という姿勢を貫いており、多くのエピソードを持つ。中日時代は選手会長として球団側に物申す選手であった(人気・実力を持ちながらトレードに出されたのはそれが一因とされる〈後述〉)。また、西武時代には監督の森祇晶が、「清原和博を三塁にして、秋山幸二を中堅、田尾に一塁を守らせる」構想を練ったが田尾は反対した。そのことがスタメン起用の減少、シーズンオフのトレードにつながったとも言われるが定かではない。田尾本人は「森監督は勝負師でしたが、僕とは馬が合わなくて、根本(陸夫)さんにトレードに出してくれと直訴し阪神に行くことになったんですよ」と語っている[3]。阪神時代も、チーム成績が低迷したため若手育成目的の選手起用をする監督の村山実に対し、勝つための野球をすべきであると主張した。田尾によると「その年の開幕前、村山監督に助言を求められ、言いたいことを言ったら、イヤな奴と思われたんでしょう。5月に二軍行きを命じられたんですよ。その時、村山監督がいる間はクビにならないと決めた。僕のエネルギー源でしたね。弱みを見せないで、やる気を前面に出しながら、若手の模範になってやろうと。それで二軍で結果を残して、一軍に上げざるを得ない状況にして、そのあとサヨナラ本塁打を3本打ったんですよ。翌年も1本打っているんですが、僕のサヨナラ本塁打は村山監督の時だけなんですよ」と語っている[3]。徒党を組んだり派閥を作ったりすることも嫌っており、中日時代には当時「犬猿の仲」と噂され、それぞれを筆頭にチーム内が二派に分かれているとも言われた星野仙一、谷沢健一の両者ともそれぞれ普通に付き合っていた。
チームが広島と激しく優勝争いをしていた1984年のシーズン中、選手会長として優勝時の年俸アップを球団に打診したが色よい返事が得られなかった[21]。優勝を逸してシーズンが終わった後「希望通り2位になりましたよ」と球団サイドとの話し合いで発言した[21]。田尾が西武にトレードされたのはそのあとである[注 6]。
2005年シーズンに楽天の監督を務めた際は、選手を「使えない」と否定することから入らないことを心掛けていた[20]。しかし、その一方試合後のコメントでは選手陣のミスプレーや好不調に苦言を呈する場面も少なくなく、開幕2日目の投壊による大敗後には「二軍のレベルにも達していない」と辛辣な発言をしていた。実際、西武時代の監督であった広岡達朗も現役時代の田尾の後輩との接し方やその際の言動に関して「相手のミスや弱点を見抜くことはできるものの、そこからそれをどう改善していくのかについては見出すことが得意ではなく、指導者に必要とされる根気強くサポートできるだけの器量や辛抱強さに欠いていると思われる部分が見受けられる」と評したこともある。
楽天監督時代には球団オーナーの三木谷浩史との確執が取りざたされた。監督就任時には田尾が「フランチャイズが仙台なので、ユニフォームに『東北』、『仙台』などの地域名を入れて欲しい」と三木谷に言い、三木谷が「いい案だねえ」と答えたのにもかかわらずユニフォームには地域名は一文字も入ってなかったとのこと。なお、退団後の2010年から「TOHOKU」と入った限定ユニフォームという形でこの案は採用されている。 ただし、島田の回想によると、三木谷本人は球団の地元での人気の基盤を作った功績は全く否定しておらず、来季も田尾の続投を期待していたものの、結局は島田たちフロント幹部の結論を受け入れざるを得なかったという[11]。
山崎武司は「田尾監督の指導によるフォームの改造が、楽天時代に好成績を残すことができるようになった要因の一つだと思っています」と述べている[22]。
監督退任後の2006年には『行列のできる法律相談所』にゲスト出演し、監督解任時の交渉について語っている。3年契約の途中での契約解除だったこともあり、楽天フロントに「残りの契約分は功労金を出すことは約束するが、楽天および球団の名誉を棄損する言動を行った場合は減額する」という条件を出されたことに激怒し、2006年の1年分の補償だけは認めたものの、それ以外の功労金に対しては拒否する態度を示した。
家族・交友関係
趣味はギターで、作詞や作曲も行うほどの腕前。現役時代にさだまさしとジョイントライブを行ったこともある。また、CBS・ソニーよりシングル「主人公」(さだまさしの楽曲のカヴァー)をリリースしたほか、現役引退後は一時期「さだ企画」(さだまさしの事務所)に所属していた。
また、釣り好きとしても知られ、釣り番組の出演も多い。元ニッポン放送アナウンサーの松本秀夫とは釣り仲間である。
山下大輔と交友があり、楽天の監督になった際、山下をヘッドコーチとして招聘した[23]。
夫人のマダムレイとの出会い・結婚のきっかけは、夫人の母が平和台球場のウグイス嬢経験者だったこと、夫人の父が医師兼医療法人経営者だったことと田尾が実弟を白血病で若くして失ったことにより健康管理に注目するようになったことだという。田尾がその夫人と結婚したての時に金田正一が田尾の自宅を訪れ、まだ若かった夫人が朝食にお好み焼きを出すのを見た金田が「野球選手がこんなもん(食事)じゃあかん。自分の給料の3分の1は体に使わないとだめだ」と田尾を叱ったという[24]。
夫人は歌手としてライブハウスでの演奏活動を中心に行っているが、イーグルス監督在任中はライブ活動を中断して田尾のサポート活動に専念していた。監督解任後の2006年から再び歌手活動を再開している。
家族に対しても筋を通す性格であり、実子も野球をしていたが「お前の実力では(野球で)飯を食えない」と諭し、野球をあきらめさせたという。次男はミュージシャンの田尾洋輔として活動[25]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976 | 中日 | 67 | 183 | 166 | 19 | 46 | 6 | 3 | 3 | 67 | 21 | 0 | 3 | 0 | 0 | 16 | 0 | 1 | 27 | 3 | .277 | .344 | .404 | .748 |
1977 | 96 | 166 | 152 | 19 | 42 | 6 | 1 | 6 | 68 | 19 | 1 | 0 | 4 | 1 | 9 | 0 | 0 | 31 | 3 | .276 | .315 | .447 | .762 | |
1978 | 102 | 372 | 339 | 42 | 93 | 12 | 0 | 11 | 138 | 47 | 3 | 2 | 2 | 3 | 27 | 1 | 1 | 61 | 3 | .274 | .327 | .407 | .734 | |
1979 | 123 | 419 | 383 | 47 | 96 | 22 | 1 | 13 | 159 | 50 | 0 | 5 | 3 | 1 | 30 | 0 | 2 | 66 | 7 | .251 | .308 | .415 | .723 | |
1980 | 122 | 498 | 472 | 60 | 141 | 29 | 3 | 7 | 197 | 34 | 16 | 9 | 3 | 2 | 20 | 1 | 1 | 47 | 7 | .299 | .327 | .417 | .745 | |
1981 | 124 | 513 | 462 | 72 | 140 | 17 | 6 | 15 | 214 | 53 | 7 | 11 | 5 | 3 | 41 | 7 | 2 | 62 | 11 | .303 | .360 | .463 | .823 | |
1982 | 129 | 565 | 497 | 92 | 174 | 25 | 3 | 14 | 247 | 41 | 9 | 10 | 7 | 3 | 58 | 7 | 0 | 32 | 5 | .350 | .416 | .497 | .913 | |
1983 | 130 | 574 | 506 | 74 | 161 | 26 | 3 | 13 | 232 | 61 | 9 | 7 | 3 | 3 | 60 | 5 | 2 | 50 | 5 | .318 | .391 | .458 | .849 | |
1984 | 130 | 603 | 536 | 94 | 166 | 21 | 6 | 20 | 259 | 49 | 3 | 5 | 10 | 3 | 54 | 5 | 0 | 50 | 8 | .310 | .371 | .483 | .854 | |
1985 | 西武 | 127 | 534 | 477 | 66 | 128 | 21 | 5 | 13 | 198 | 60 | 1 | 4 | 2 | 3 | 50 | 1 | 2 | 33 | 10 | .268 | .338 | .415 | .753 |
1986 | 106 | 341 | 313 | 42 | 83 | 12 | 2 | 8 | 123 | 28 | 6 | 2 | 5 | 2 | 20 | 1 | 1 | 35 | 3 | .265 | .310 | .393 | .702 | |
1987 | 阪神 | 104 | 262 | 249 | 27 | 55 | 8 | 2 | 6 | 85 | 12 | 0 | 1 | 4 | 2 | 7 | 1 | 0 | 28 | 2 | .221 | .240 | .341 | .582 |
1988 | 80 | 160 | 140 | 21 | 42 | 9 | 0 | 4 | 63 | 21 | 1 | 0 | 2 | 1 | 17 | 6 | 0 | 18 | 1 | .300 | .373 | .450 | .823 | |
1989 | 84 | 266 | 252 | 20 | 72 | 13 | 0 | 5 | 100 | 27 | 0 | 2 | 3 | 1 | 9 | 0 | 1 | 30 | 9 | .286 | .312 | .397 | .709 | |
1990 | 119 | 428 | 386 | 41 | 108 | 14 | 0 | 11 | 155 | 50 | 2 | 1 | 2 | 0 | 40 | 1 | 0 | 56 | 13 | .280 | .347 | .402 | .749 | |
1991 | 40 | 93 | 84 | 2 | 13 | 0 | 1 | 0 | 15 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 18 | 3 | .155 | .237 | .179 | .415 | |
通算:16年 | 1683 | 5977 | 5414 | 738 | 1560 | 241 | 36 | 149 | 2320 | 574 | 58 | 62 | 55 | 28 | 467 | 36 | 13 | 644 | 93 | .288 | .344 | .429 | .773 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | 楽天 | 6位 | 136 | 38 | 97 | 1 | .281 | 51.5 | 88 | .255 | 5.67 | 51歳 |
通算:1年 | 136 | 38 | 97 | 1 | .281 | Bクラス1回 |
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初出場:1976年4月7日、対阪神タイガース1回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に梅田邦三の代打として出場
- 初先発出場:1976年4月17日、対ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場)、5番・左翼手として先発出場
- 初安打・初打点:1976年7月27日、対読売ジャイアンツ17回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に正岡真二の代打として出場、小川邦和から2点適時打
- 初本塁打:1976年9月19日、対読売ジャイアンツ23回戦(後楽園球場)、4回表に堀内恒夫から2ラン
- 節目の記録
- 1000本安打:1984年8月7日、対横浜大洋ホエールズ17回戦(横浜スタジアム)、5回表に久保文雄から二塁内野安打 ※史上134人目
- 100本塁打:1984年8月20日、対ヤクルトスワローズ22回戦(明治神宮野球場)、3回表に尾花高夫から2ラン ※史上134人目
- 1000試合出場:1984年8月29日、対広島東洋カープ20回戦(ナゴヤ球場)、1番・右翼手として先発出場 ※史上250人目
- 1500試合出場:1989年7月12日、対中日ドラゴンズ12回戦(阪神甲子園球場)、6番・左翼手として先発出場 ※史上93人目
- 1500本安打:1990年7月5日、対読売ジャイアンツ16回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に宮本和知から右前安打 ※史上185人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:7回 (1980年 - 1986年)
背番号
- 2 (1976年 - 1986年)
- 8 (1987年 - 1991年)
- 88 (2005年、2020年)
関連情報
著書
- 『イチロー天才の理由』(大栄出版、1995年11月、ISBN 4886825133)
- 『実戦野球教室:楽しく早くうまくなる』(小学館(小学館基本攻略シリーズ)、1998年10月、ISBN 409204108X)
- 『イチロー進化論:なぜ「一流のメジャー」になれたのか』(小学館文庫、2001年7月、ISBN 409402316X)
- 『星野仙一猛虎革命』(小学館文庫、2002年5月、ISBN 4094023178)
- 『絶対うまくなるバッティング:確率を高め距離が伸びるスイングづくり』(日本文芸社、2003年)
- 『優勝へ!星野阪神「大躍進の秘密」』(小学館文庫、2005年、ISBN 4094023186)
- 『トッププロに学ぶ野球上達テクニックバッティング』(成美堂出版、2005年)
- 『DVD上達レッスン:野球バッティング』(成美堂出版、2006年)
出演
現在の出演番組
- 野球道 (フジテレビ系列)[注 7]
- すぽると!(フジテレビ)
- プロ野球ニュース(フジテレビ→フジテレビONE、1992年4月 - 1994年3月・1995年4月 - 1997年3月・2000年4月 - 2001年3月・2003年 - 2004年)
- スポーツWAVE(フジテレビ・1994年4月 - 1995年3月)
- ニッポン放送ショウアップナイター(土・日曜は予備カードがJRN系列局向けの裏送りカードを兼ねる場合も担当)
- J SPORTS STADIUM『野球好き』(2012年より東海テレビ制作分に出演。テレビ新広島制作分でも達川光男が現場復帰して解説者不在となった1995年・1998年 - 2000年・2005年の地上波同時放送時に出演していた。また、2012年には達川とのダブル解説で出演している)
- 土曜スペシャル(テレビ東京・不定期出演ながら、夫人や同世代のタレントとの二人旅で数多くの出演がある)
- 爆釣!田尾安志の釣りブログ(スカイ・A sports+・2013年3月29日 - )
過去の出演番組
- ショウアップナイターストライク!(ニッポン放送・NRN系、元レギュラー。現在でも不定期に出演、冬季野球オフ期間のみ)
- ほんまもん(NHK・ヒロインの母親の元恋人役として1回きりの出演)
- 松本ひでおのショウアップナイターネクスト!(ニッポン放送・不定期出演、シーズンオフ時のみ)
- ドラゴンズHOTスタジオ(東海テレビ・不定期)
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ディスコグラフィー
脚注
注釈
- ^ この試合前の勝率は中日が.572、巨人が.569。中日が敗れた場合には.568となり、巨人を下回っていた。
- ^ ビデオリサーチ調べ
- ^ 1977年9月26日以降。
- ^ 日本プロフェッショナル野球協約第177条[9]参照のこと。
- ^ ただし、島田nによると、三木谷当人は田尾の会話を避けていたわけではなく、実際に楽天本社での業務で多忙だったために島田らフロント幹部とも連絡が取りにくい状況にあったという。
- ^ このトレードでは中日フロントへの不信感が高まったため、ファンによる中日新聞不買運動が起きた。当初は大島康徳が西武に行く予定だった。身内の中日スポーツよりも先にスポーツニッポンが報じた。(日本プロ野球トレード大鑑1936-2001(2001年2月20日発行・ベースボールマガジン社 P57)より)
- ^ 東海テレビ制作のローカル中継には、年数回の出演にとどまっている(同じ系列局である関西テレビプロ野球解説者であることから、阪神タイガース戦など)。また、2011年からは北海道文化放送制作の中継にも出演する。またテレビ新広島制作中継にも出演経験がある。
出典
- ^ 天才たちはこうして生まれた!?野球を始めたきっかけ
- ^ 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、63頁。ISBN 978-4062192606。
- ^ a b c d e f g h “スペシャルインタビュー 田尾 安志”. プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2. セガゲームス. 2016年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月11日閲覧。
- ^ 【トレード物語09】キャンプ前に西武へトレードされた中日・田尾安志【85年】
- ^ 田尾安志 (2016年12月25日). “非情トレード、今も昔も 出番つかむ難しさ”. 日本経済新聞社. 2017年8月11日閲覧。
- ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2019年、16-18頁。
- ^ 長崎は.351に対し、田尾は.350。
- ^ a b c “【10月18日】1982年(昭57) 田尾、5連続敬遠で毛の差の2位 “引き換え”に中日V”. スポーツニッポン新聞社 (2007年10月18日). 2007年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月12日閲覧。
- ^ “日本プロフェッショナル野球協約2016” (PDF). 日本プロ野球選手会. pp. 33-34. 2017年8月11日閲覧。
- ^ 『読む野球-9回勝負-』 No.6(アンチ巨人を読む)、主婦の友社〈主婦の友生活シリーズ〉、2014年、172頁。ISBN 978-4072973073。
- ^ a b 島田亨 2006, p. 48-57
- ^ 森川直樹 (2005年11月28日). “来季へ向けて(2)田尾監督解任の真の理由 楽天野球団 三木谷浩史オーナー・島田 亨 社長”. 日経BP社. 2020年9月27日閲覧。
- ^ 【楽天監督 経験者対談・前編】球団オーナーとどう向き合う?【デーブ大久保さんコラボ】 - YouTube
- ^ 【楽天監督 経験者対談・後編】球団運営をめぐる人間模様…。裏ではこんなことがありました - YouTube
- ^ [1] ニッポン放送ショウアップナイターTwitter 2020年10月30日
- ^ “沖縄初のプロ野球球団発足 田尾氏も参加、NPB目指す”. 産業経済新聞社 (2019年7月18日). 2019年7月19日閲覧。
- ^ “エグゼクティブアドバイザーの田尾 安志氏が本日付けで正式にGMに就任したことをお知らせ致します。”. 琉球ブルーオーシャンズ (2019年7月18日). 2019年11月19日閲覧。
- ^ "田尾安志ゼネラルマネージャー 役職変更のお知らせ" (PDF) (Press release). 琉球ブルーオーシャンズ. 24 January 2020. 2020年1月27日閲覧。
- ^ "退団コーチおよび選手のお知らせ" (Press release). 琉球ブルーオーシャンズ. 9 November 2020. 2020年11月21日閲覧。
- ^ a b 解説動画にありがたい低評価 ファン目線、興味深く 日本経済新聞 2020/6/7 3:00(2020年7月1日閲覧)
- ^ a b 玉木正之『プロ野球大事典』新潮社〈新潮文庫〉、1990年、414頁。ISBN 4101070121。原典では年を「1986年」と記載しているが、内容から誤記と判断して修正。
- ^ “【元プロ野球選手に学ぶ】 27年間のプロ野球人生。勝負師として貫き通した野球へのこだわり〜リーダーの自覚。田尾・野村両監督から学んだこと~スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山崎 武司”. NECネクサソリューションズ. 2015年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月11日閲覧。
- ^ 山下監督、楽天コーチへ 田尾氏と30年来の付き合い 時事通信 2004年10月16日
- ^ "金田正一さんが残したもう一つの「大記録」". 日経電子版. 日本経済新聞社. 20 October 2019. 2020年11月17日閲覧。
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) (説明) - ^ “元楽天監督・田尾氏の妻マダム・レイ、カバーアルバム発売記念ライブ 夫も駆け付ける”. スポーツ報知. (2016年11月16日) 2016年11月17日閲覧。
参考文献
- 島田亨『本質眼―楽天イーグルス、黒字化への軌跡』アメーバ・ブックス、2006年7月。ISBN 9784344990333。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 田尾安志 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 田尾 安志(所属事務所 株式会社リクコーポレーションより)
- MADAM REY -マダムレイ- オフィシャルホームページ
- 田尾安志講演活動
- 田尾安志【TAO CHANNEL】 - YouTubeチャンネル
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |