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1981年8月に国際プロレスが崩壊し、木村、[[アニマル浜口]]、寺西の3人は『'''[[国際軍団]]'''』として新日本に参戦した。同年9月23日に木村と浜口は新日本の[[田園コロシアム]]での興行に姿を現した上で決意表明したと同時に、剛は浜口が発した挑発の最初のターゲットとされた<ref>『忘れじの国際プロレス―国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語―』( [[ベースボール・マガジン社]]、2014年)p17</ref>。[[1982年]]5月には木村の渡米に帯同し、[[ロサンゼルス]]地区で『'''ライジング・サンズ'''』(ミスター・トヨ&'''ミスター・ゴー''')を結成。同年7月23日に[[ラスベガス]]で[[エイドリアン・ストリート]]&ダイヤモンド・ティモシー・フラワーズから[[NWA王座一覧#封印・廃止・統合されたナショナルベルト|NWAアメリカス・タッグ王座]]を奪取し、8月20日にロサンゼルスで[[ヘクター・ゲレロ]]&[[マンド・ゲレロ]]に敗れるまでの1ヶ月間防衛した。
1981年8月に国際プロレスが崩壊し、木村、[[アニマル浜口]]、寺西の3人は『'''[[国際軍団]]'''』として新日本に参戦した。同年9月23日に木村と浜口は新日本の[[田園コロシアム]]での興行に姿を現した上で決意表明したと同時に、剛は浜口が発した挑発の最初のターゲットとされた<ref>『忘れじの国際プロレス―国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語―』( [[ベースボール・マガジン社]]、2014年)p17</ref>。[[1982年]]5月には木村の渡米に帯同し、[[ロサンゼルス]]地区で『'''ライジング・サンズ'''』(ミスター・トヨ&'''ミスター・ゴー''')を結成。同年7月23日に[[ラスベガス]]で[[エイドリアン・ストリート]]&ダイヤモンド・ティモシー・フラワーズから[[NWA王座一覧#封印・廃止・統合されたナショナルベルト|NWAアメリカス・タッグ王座]]を奪取し、8月20日にロサンゼルスで[[ヘクター・ゲレロ]]&[[マンド・ゲレロ]]に敗れるまでの1ヶ月間防衛した。


帰国後も精彩を欠いて軍団入りも認められず、同世代の長州、藤波、[[谷津嘉章]]らから大きく後れを取り、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまう。一方で新人の[[田延彦|高田伸彦]]や[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。
帰国後も精彩を欠いて軍団入りも認められず、同世代の長州、藤波、[[谷津嘉章]]らから大きく後れを取り、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまう。一方で新人の[[田延彦|高田伸彦]]や[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。


[[1984年]]の「'84新春黄金シリーズ」では、1月26日の[[滋賀県]][[大津市]]皇子山体育館大会で[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]にわずか46秒で地獄突き一発で敗れた<ref>{{Cite web|url=http://www.puroresu.com/newjapan/results/nj198401newyear.html|title=NJPW 1984 New Year Golden Series|accessdate=2015-09-10|publisher=Puroresu.com}}</ref>。その後1月30日の[[函館市民体育館]]大会からシリーズ最終戦である2月9日大阪府立体育館大会まで欠場したまま、5年9か月参戦していた新日本を退団<ref>『日本プロレス事件史』vol.8([[ベースボール・マガジン社]])P30 - P31</ref>。
[[1984年]]の「'84新春黄金シリーズ」では、1月26日の[[滋賀県]][[大津市]]皇子山体育館大会で[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]にわずか46秒で地獄突き一発で敗れた<ref>{{Cite web|url=http://www.puroresu.com/newjapan/results/nj198401newyear.html|title=NJPW 1984 New Year Golden Series|accessdate=2015-09-10|publisher=Puroresu.com}}</ref>。その後1月30日の[[函館市民体育館]]大会からシリーズ最終戦である2月9日大阪府立体育館大会まで欠場したまま、5年9か月参戦していた新日本を退団<ref>『日本プロレス事件史』vol.8([[ベースボール・マガジン社]])P30 - P31</ref>。

2020年12月23日 (水) 04:35時点における版

剛 竜馬
プロフィール
リングネーム 剛 竜馬
Mr.GO
THE NINJA GO
八木 宏
本名 八木 宏
ニックネーム プロレスバカ
花の若武者
身長 185cm
体重 108kg
誕生日 (1956-03-23) 1956年3月23日
死亡日 (2009-10-18) 2009年10月18日(53歳没)
出身地 東京都新宿区三光町生まれ
兵庫県神戸市育ち
スポーツ歴 レスリング
野球
デビュー 1972年9月9日
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剛 竜馬(ごう りゅうま、1956年3月23日 - 2009年10月18日)は、日本プロレスラー俳優。本名:八木 宏(やぎ ひろし)。

来歴

国際プロレス時代

父親は板前であったが[1]、母親が家出して消息不明となり、妹たちに楽をさせたいと[2][3]、中学卒業を待たずに上京。日本プロレスに数ヶ月練習生として通っていたが[4]、デビューはできなかった。その理由として「日本プロレス関係者に『中学を卒業してから来るように』と言われたから」[5]とも、「先輩レスラーに無理やり飲酒させられ身体を壊したから」[6]とも言われる。また日本プロレス時代、同じ新弟子として藤波辰爾と出会う[6]

その後1971年国際プロレス第1回新人選手公募から選出され入団[4]1972年9月9日に群馬県藤岡市立体育館の米村勉戦でデビュー。

1973年になると全日本プロレスとの対抗戦にも出場した他、遅れて入団した大卒新人の鶴見五郎と共に清美川梅之預かりの海外武者修行に出され、カナダで一緒になった吉田光雄と3、4ヶ月間タッグを組んだこともある。しかし、遠征先ではパスポートの提示を求められることが少なくなく、18歳未満という理由で試合に出場できないこともあったという[7]1976年7月に凱旋帰国し、国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネームを『剛竜馬』と決定する。葉書に目を通していた菊池孝によれば、リングネームは、遠征先であったフランスが開発した超音速旅客機コンコルドにあやかった「コンコルド八木」が一番多く、ヒロ・マツダの名を取った「ヒロ・八木」のリングネームもあったという[8]。後に剛と同様にリングネームを公募した長州は、「『剛竜馬』のような格好いい名前にしてくれ」と関係者に懇願したという。若く容姿にも恵まれた人気者で、次代の国プロを背負う期待の星と目されていた。当時の髪型は後にトレードマークになる角刈りではなく、七三分けだった。また、別の時期には長髪にもしていた。

1976年11月25日には、初の金網デスマッチに挑戦し(対ジプシー・ジョー[9]1977年には「第6回IWAワールド・シリーズ」並びにIWAワールド・シリーズと同時開催されたIWA世界タッグ王座争奪トーナメントに出場。IWAワールド・シリーズはBブロック6位に終わり、IWA世界タッグ王座争奪トーナメントはサンダー杉山とのコンビで出場したものの、準決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗退している(トーナメントはクイン&ヘスが優勝)[10]

その一方で、試合運びが単調で、技を失敗することも少なくなかった。それ故に、マッチメーカーであったグレート草津によるマッチメイクにより、前座に甘んじることが多くなった[11]。剛は原進入団直後から、国際退団をほのめかすようになり、1978年に予定されていたカナダマリタイム地区遠征も拒否した。マイティ井上が慰留したものの、剛は受け入れるつもりはなかった[11]

新日本プロレス時代

「'78スーパー・ファイト・シリーズ」開催中の1978年4月16日に行われた広島県東広島市大会にて、選手会長のラッシャー木村に対して国際プロレス退団を申し出たが、木村からこの話を聞いた吉原功は、4月18日に東京から巡業が行われていた長崎県島原市へ向かい、剛と話し合いの席を持つことになった。その席で吉原は、「剛が国際を退団し、新日本プロレスに行くという噂が出ている」と選手に対して発言した。その後、剛と吉原並びに選手会との話し合いが行われ、剛は国際を退団するつもりはないと弁明したが、草津、井上、寺西勇は激怒し、井上は「新日本に行った暁にはぶっ殺す」と発言したという[11][12][13]。剛は当日の島原市体育館大会はカードから外され、国際から逃げるかのように、5月3日のシリーズ最終戦千葉県君津駅前広場大会まで、そのままシリーズを欠場した[14]。剛は、高杉正彦若松市政に別れの挨拶を行い、高杉と若松は、島原市内のバス停留所で、長崎空港行きのバスに乗車した剛を見送った[15]

その後は東京へは戻らずに、兵庫県西宮市の実家に身を寄せ[11]、1978年5月5日、剛は国際プロレスを退団[16]。5月11日の全日本プロレス「'78スーパー・パワー・シリーズ」大阪府立体育館大会に突如現れてフリー宣言を行った[11]。翌5月12日にジャイアント馬場が吉原に連絡を入れたために、国際は剛がなぜ全日本の大阪大会に出現したのか、説明を求められることになった[11]

剛は1978年5月18日にマツダが在住しているフロリダ州タンパへ渡った[11]。当時売り出し中の藤波辰巳を中心にジュニアブームを起こしていた新日本プロレスに、藤波とのシングルマッチを直訴。同年6月16日放送のテレビ朝日ワールドプロレスリング』に剛がマツダとともに登場し、テロップには「剛竜馬、藤波に挑戦!」と流れた[11]。これを見ていた吉原は激怒し、同年6月28日に高田馬場にあった国際プロレス事務所にて記者会見を行い、「剛の出場停止の仮処分申請を東京地裁に提出する」と発表した(後に仮処分申請は却下)[11]。剛も同年6月30日に東京スポーツに対し、タンパから国際電話にて反論声明を出し、その中で「契約書には1回しかサインおらず、国際との契約は無効である」「国際は給料の遅配がすでに発生しており、父と妹2人に生活費を仕送りする身において厳しい状況に置かれていた」「父が国際の幹部と大阪(同年6月26日開催の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会当日とされる)で話し合いの席を持とうとしたが無視された」などと、国際の内部事情を暴露した内容となった[12]。国際にとっては、1974年に発生したストロング小林の離脱劇の再現となった[11]。同年7月27日に日本武道館[17]、11月30日に広島県立体育館において[18]、藤波が保持するWWFジュニアヘビー級王座に2度挑戦した。11月にはマツダ率いる『狼軍団』の一員としてプレ日本選手権にも出場し、杉山、上田馬之助マサ斎藤と共闘。予選リーグ戦では長州からリングアウト勝ちを収めている[18]

その後、タンパのマツダのもとで再修行を積み、1979年10月2日の大阪府立体育館での3度目の挑戦ではコーナーポスト上からの場外プランチャ・スイシーダを放ち、逆さ押さえ込みで藤波に初勝利。弱冠23歳でWWFジュニアヘビー級王座を奪取するも、蔵前国技館でのリターン・マッチに敗れ2日天下に終わった。これにより、剛は藤波を生涯のライバルと定め、新日本に正式入団する。1980年3月31日には古巣である国際プロレスの後楽園ホール大会に逆上陸して阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦。同年の「MSGシリーズ」では予選トーナメントで長州に敗れるも、敗者復活戦で木戸修を破って決勝リーグに進出[19]スタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントダスティ・ローデスとも対戦したが、無得点の最下位に終わっている[19]

1981年テレビ朝日系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に菅原文太鶴田浩二梅宮辰夫東映配役陣と共に刑事役で第13話までレギュラー出演したが剛のみ途中降板し、俳優業はこの1作のみに留まった。

1981年8月に国際プロレスが崩壊し、木村、アニマル浜口、寺西の3人は『国際軍団』として新日本に参戦した。同年9月23日に木村と浜口は新日本の田園コロシアムでの興行に姿を現した上で決意表明したと同時に、剛は浜口が発した挑発の最初のターゲットとされた[20]1982年5月には木村の渡米に帯同し、ロサンゼルス地区で『ライジング・サンズ』(ミスター・トヨ&ミスター・ゴー)を結成。同年7月23日にラスベガスエイドリアン・ストリート&ダイヤモンド・ティモシー・フラワーズからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取し、8月20日にロサンゼルスでヘクター・ゲレロ&マンド・ゲレロに敗れるまでの1ヶ月間防衛した。

帰国後も精彩を欠いて軍団入りも認められず、同世代の長州、藤波、谷津嘉章らから大きく後れを取り、タイトルに絡むこともなく新日本の前座戦線に定着してしまう。一方で新人の高田伸彦山崎一夫らを道場でしごき、鬼教官として怖れられていたという。

1984年の「'84新春黄金シリーズ」では、1月26日の滋賀県大津市皇子山体育館大会でアブドーラ・ザ・ブッチャーにわずか46秒で地獄突き一発で敗れた[21]。その後1月30日の函館市民体育館大会からシリーズ最終戦である2月9日大阪府立体育館大会まで欠場したまま、5年9か月参戦していた新日本を退団[22]

第1次UWF時代

1984年4月、アントン・ハイセルを巡る新日本の内紛から分裂した第1次UWFの旗揚げメンバーに名を連ねた。しかし、外国人レスラーのブッキング窓口を巡るトラブルのため[23]、木村と共に在籍4ヶ月で退団となった。「新間寿への義理で協力していただけ[24]」とも言われている。なお、剛はブッカーとしてレオ・バークフレンチ・マーテルザ・UFOなどを来日させていた。

少ない試合数ながらも第1次UWFでは無敗であった。ただし、シングル戦はなくすべて木村とのタッグである。なお、佐山聡(当時スーパータイガー)から入場テーマ曲『Eye of the Tiger』を譲られている。

全日本プロレス時代

1984年11月からは全日本プロレスに転出し、前述の対抗戦以来の全日本マット登場となった。移籍と同時に馬場と仲間割れした木村以下、剛と同門の鶴見、アポロ菅原、高杉と『国際血盟軍』を結成した。なお、乱入の現場には井上も居たが、結局「国際血盟軍」には加入しなかった。阿修羅・原は後に一匹狼的な立場に置かれた際に「国際血盟軍」との共闘を頻繁に行っている。

しかし、木村の試合後のマイクパフォーマンス以外に華のないファイトスタイルで尻すぼみになり、全日本内におけるポジションも下位グループにとどまった[25]。またジャパンプロレスの大量移籍で全日本で日本人選手が飽和状態となったため、カルガリーハリケーンズスーパー・ストロング・マシンヒロ斎藤高野俊二)と入れ替わりに「エキサイティング・ウォーズ'86」シリーズ中の1986年3月2日の岩手県陸前高田市民体育館大会の対石川敬士戦をもって、高杉や菅原と共に全日本に移籍してわずか1年4カ月で整理解雇された。解雇の原因は、目立ちたいがために、馬場やジョー樋口和田京平タイガー服部ミスター林レフェリーの機嫌を悪くさせたためであった(菅原も同様の理由だった)。最終的に陸前高田大会翌日に、原軍治リングアナウンサーが3人を事務所に呼び出し、馬場が直接解雇通告を行ったという。鶴見によれば、仙台市内のホテルにて馬場と剛・菅原が食事した際、菅原が馬場が掲げるプロレススタイルを否定する発言を行ったため、馬場の逆鱗に触れてしまい、帰り際、剛・菅原は鶴見に対して「馬場のプロレスは面白くない」と発言した所、鶴見は2人に対して「馬場になんて事を言ったんだ!」と激怒したという。さらに鶴見は、以前から「剛の全日本在籍期間は短い期間に終わるだろう」と感じていたという[25][26]。これにより剛は、昭和3団体(国際・新日本・全日本)をシリーズ中に退団または解雇される格好となった。全日本在籍中にはタイガー・ジェット・シンハーリー・レイスらにシングルマッチで挑む機会を与えられたが、未勝利に終わっている。

解雇後は北沢幹之が経営する建築内装業の下働きをしていた[27]が、1986年4月末よりマサ斎藤のブッキングで渡米し、スーパー・ニンジャこと高野俊二のタッグパートナー "Ninja Go" としてAWAに参戦。高野やビル・アーウィンと組んでスコット・ホール&カート・ヘニングが保持していたAWA世界タッグ王座に挑戦したほか、ラリー・ズビスコのパートナーとなってミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)とも対戦した[28]

その後、1987年7月の全日本「サマー・アクション・シリーズ」に1シリーズだけ復活招聘され、アジアタッグ王座争奪リーグ戦に鶴見と組んで参戦したが、三つ巴の最下位に終わった。なお、ピンフォールを取られたのはすべて剛である。最終戦の7月30日、東京都東村山市民スポーツセンター大会の対谷津&仲野信市戦(剛のパートナーは木村)をもって、全日本マットから再び去った。心肺能力などは高い評価を受けていたが、体の硬さと不器用さが響き、第一線に出ることなくメジャー団体から放逐されることとなり、自らのタニマチが経営していたお好み焼き屋の店長に転身した[6]

パイオニア戦志時代

新間寿・寿恒親子の『世界格闘技連合』構想に主要メンバーとして当初大仁田厚らと名が挙がっていた[注 1]が、新団体旗揚げを計画した高杉から声を掛けられ[6]、やはり全日本リストラ組で元同僚の菅原を加えて1988年11月15日にアニマル浜口ジムで『パイオニア戦志』の設立を発表。団体名は菊池孝の発案である[6]。この団体は、1966年から短期間活動して消えた『東京プロレス』に続く日本で2番目かつ20数年振りのインディー団体で、大仁田のFMWより半年早かった。

剛自身はパイオニア戦志設立の発案者ではなかったが、旧知の藤波との関係を生かしリング調達や会場確保に新日本プロレスの協力を得たことや、それまでの実績を考慮され、団体のエースの座に就くことになった[6]

千葉県浦安市に道場兼合宿所『パイオニアGYMぽぱい』を確保し、プロレス志願者の養成にも注力。翌1989年4月30日に、大仁田対剛のシングル対決をメインイベントとして行った旗揚げ戦は、藤波や北尾光司らを来賓に招き、物珍しさもあって後楽園ホールをほぼ満員にしたが、藤波に試合内容を酷評された[6]

半年後の10月の第2戦に菅原の姿は無く(剛の姿勢に不信感を抱いたことから離脱[6])、新倉史祐が代役を務め、更にメインの青柳政司戦では、当日のカード変更や両者レフェリーストップの裁定に客が暴動寸前になり、激怒した立会人の浜口が剛と青柳を控室からリングに引きずり戻し、往復ビンタして試合再開させる珍事まで起きた。剛は「(青柳に後頭部を)蹴られたら、目ん玉が飛び出したから手で押し戻したよ」と語り、その後飛蚊症に悩まされるようになる。

1990年からは『パイオニア軍団』の名で青柳、栗栖正伸らと共闘し新日へ再参戦。5月4日の緒戦(剛&高杉対長州&佐々木健介)では勝利したが、練習不足で主に高杉が試合中にグロッキーになる場面も目立ち、またもや藤波に内容を酷評され、マッチメーカーの長州からも冷遇された。

10月の移動中の交通事故を乗り越えて、12月にはヘビー級転向後の藤波と念願のシングル再戦(博多スターレーン敗者追放マッチ)に漕ぎ着けた。週刊ゴングの直前インタビューで剛は「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きて行けない、プロレス馬鹿ですよ」と語っていた。しかし、藤波のジャンピング・エルボー・バットに沈み、生中継を実況した辻義就に「プロレスバカというよりもプロレスカバですね」と蔑まれた。藤波戦敗退、新日本との業務提携終了をもって、パイオニア戦志は活動休止した。

オリエンタルプロレス時代

1991年2月には、経営難に陥ったパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、元横綱北尾光司をエースに立てた別動隊の母体としようとする動きがあり、当時のメガネスーパー田中八郎社長から既に支度金も受け取っていたという。しかし、数々の因縁により選手会のほぼ全員から猛反対を喰らい立消えになった[6]。1年半の休止後に、ジャパン女子プロレス(1992年2月解散)の代表を務めていた持丸常吉の協力を得て[6]1992年6月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。

ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』、『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、海外遠征の利益をピンハネするなどの[6]ギャラ搾取に怒った選手会が、代表の剛の永久追放処分を発表。剛にとっては1986年の全日本解雇に次ぐ2度目の団体解雇となった。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションユニバーサル・プロレスリング宮川道場との交流戦で食い繋いだ。なお、オリプロは1993年12月に崩壊している。

剛軍団、厚木プロレス、冴夢来プロレス時代

三度フリーランスとなった剛は米マットに活路を求め、設立間もないECWハードコアマッチにも挑んだ。帰国後はIWA格闘志塾の伝で『屋台村プロレス』で酔客相手にレスリング・ユニオンのセミプロとの試合をこなす有様だったが、一部マスコミの支援を受け、1993年8月に一人一党の『剛軍団』を旗揚げ。ジェシー・バーを相方に、クラシカルな正統派プロレスリングを標榜し、ご当地プロレス団体の嚆矢とも言える『厚木プロレス』名義での自主興行を地元で打ったり、小規模な地方巡業を細々と行ったりしたが執拗に再戦を呼び掛けた藤波からは、「二度と名前を出さないで貰いたい」と絶縁宣言されてしまう。

そんな苦境の中、1994年8月1日の後楽園ホール自主興行で自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神X(正体は島田宏)とのシングルマッチを含むダブルヘッダーが決定。2連戦の第1試合はチャボ・ゲレロビリー・ジャック・ヘインズに剛&バーが勝利し、CWUSA認定インターナショナル・タッグチャンピオンを防衛したものの、剛が首を負傷した。宇宙魔神X戦は「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合は場外乱闘で何度も「ショア」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場から大声援が沸き起こる。試合後のマイクアピールで剛は、「私はプロレスしかできない『プロレスバカ』です!そんな馬鹿で不器用な男ですがまた会場に来てください!」と発言し客の喝采と大量の「バカ」コールを浴び、マスコミでも大々的に取り上げられた。『プロレスバカPB)』なるニックネームが定着したのは、この試合の前後で、会場で「バカ」コールが起きるようになり、剛も「見る方のプロレスバカの皆さん」とマイクアピールで応酬した。

「プロレスバカ」のちょっとしたブームが起きる中で、格闘技バラエティー番組『リングの魂』(テレビ朝日)にも、数回連続で出演していた。これは、同番組で注目を集めていた(剛自身の先輩でもある。)アニマル浜口に挑戦する企画で「出演を直訴する手紙を自筆で送った」ものだったが、宛先には『リングの』と書かれていた。この時期から『週刊プロレス』編集部へ頻繁に電話をかけるようになる[29]

1994年はこれらのムーブメントの余勢を駆って平成維震軍旗揚げ戦のメイン(越中対シン)に乱入しマイクアピールを行ったり、現役復帰した浜口とのタッグでWARにも出陣してリング内外で「気合ダー!」、「ショア!」 の応酬を展開するなど、久方ぶりにその存在を印象付けた。特に浜口とのタッグは、リングアナウンサーから「リンたまタッグ」と呼ばれたこともある。

1995年4月2日に『週刊プロレス』の発行元「ベースボールマガジン社」が主催した、東京ドームでのオールスター興行『夢の懸け橋〜憧夢春爛漫〜』の第4試合に参戦した際には、6万人の観客席から「ショア!」、「バカ!」、「1,2,3,4,剛!」の掛け声が鳴り響き、レスラー人生の絶頂を極めた。そのため剛は東京ドームでシングルマッチを行ったレスラーの一人になった。同年5月4日にはプロレスマニアのバカ社長率いるハードコアパンクバンド『猛毒』の単独ライブ『'95 ビッグチャレンジ・スーパーマグマシリーズ』(三軒茶屋HEAVEN'S DOOR)に登場し、観客が弁当代わりに持参していたバナナを掲げつつ、曲に合わせてただ延々と「ショア!」と叫び続け、暗黒プロレス団体666設立の切っ掛けを作る。

1996年1月16日のレスラー生活25周年記念後楽園ホール大会に向けて、妻と2人の子供と共にポスター貼りをする模様が専門誌や『バトルウィークリー』(テレビ東京スポーツTODAY』の1コーナー)で取り上げられたことから、新スポンサーも獲得。個人プロダクション『冴夢来プロジェクト』を2月21日に設立、4月17日の後楽園ホール大会以降は1994年に活動を休止した新格闘プロレスと提携して『冴夢来プロレス』を名乗り、弁当付きの無料プロレスという太っ腹な企画で関東一円を巡業した。勢いでPRIDE参戦さえ表明したが、スポンサーと衝突して1年程で崩壊した。この時代に入門した美濃輪育久は、剛の最後の弟子でもある。1997年前後にはIWA・JAPANにも参戦している。

なお、藤拓地所も剛と決裂後、IWA・JAPANのスポンサーになっている。

現役時代末期

迷走期

全日本とオリプロの解雇、藤波との確執、新団体の経営失敗などの数多のトラブルによって団体からのオファーはほとんど来なくなり[29]、剛が上がるリングは、鶴見五郎率いる国際プロレスプロモーション等しかなくなった。他には2000年ミスター・ポーゴWWSの、カボチャやスイカを凶器に用いる『野菜デスマッチ』などに呼ばれた程度だったが、金銭問題や体調不良により数戦だけで契約解除された。新日本への再々参戦を訴え続けたものの、この時期の新日本は路線変更が実施された時期でもあり、マット界からフェードアウトしていたのは明らかだった。同年3月の第2回メモリアル力道山にも参加した。

2001年12月9日には鶴見の計らいで引退試合を組まれたが、ギャラに納得できない剛が会場入りをドタキャンし、本人不在のままテンカウントゴングが鳴されるという前代未聞の引退セレモニーとなった。

2003年1月15日、剛は新宿区新宿3丁目のJR新宿駅西口切符売り場で、浦安市の主婦が財布を手提げかばんに入れようとしたところ、財布を奪い取り逃走したものの近くにいた男性会社員に取り押さえられ、警視庁新宿署で窃盗の疑いで逮捕された。調べに対して剛は、「財布が落ちていたので拾って渡そうとしただけ」と容疑を否認している。

東京スポーツは、この事件の報道に合わせる形で剛が2001年のゲイビデオ『極太親父』に偽名で出演していたことを1面写真入りで報じ、大騒動に発展した。同時に借金が原因で妻子とも別居中であり、派遣で働く男性数名と同居していることも報じられた。剛は他にも『格闘家〜燃える肉弾〜』『でかんしょ旋風児』『野郎四人衆』『侍、一本』『VG-men』などの作品に出演していたことが発覚したが[注 2]、後に剛は「自分の体で稼ぐことの何が悪いのか」と事実を認めている。

なお、これ以前に田中秀和が2001年1月の『ストロングニュース』で存在を示唆しており、また週刊プロレスの投書欄『あぶない木曜日』でも「信じられないようなビデオに出演している」との噂が立っていたため、少なくとも関係者の間では周知だったとみられる。

後に2019年のニュースでは、当時の相場でも高くて5万円程度だったゲイオナニービデオの相場を剛本人が交渉によって7万円程度にふっかけて交渉成立に至ったことが伝えられたが、吉田豪が同ニュースで「あの知名度の人が一生言われるネタを作っちゃうと思うと、50万とかでも安い」と語った[30]

晩年

釈放後の2004年5月、剛はNPO法人WAP』のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの連戦で一部マニアの注目を集めた[31]。しかし、腰痛を理由に欠場し「金返せ」コールを止めない客の求めで担架に乗せられたまま「ショア!」させられたりするうち[32]、1年後の後楽園ホール大会で自然消滅となった。半引退状態を経た2006年7月、DDTで復帰戦(対マッスル坂井)が行われたが過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、あまり話題にならなかった。

2007年からは剛の弟子の畠中浩旭が北海道で立ち上げた『アジアンプロレスリング』に遠征し、2008年12月18日の力道山OB会&プロレス主催『昭和プロレス第2弾興行』第4試合のバトルロイヤルにも出場した。メンバーは他に小林邦昭タイガー戸口木村健悟ドン荒川ジャイアント小馬場アントニオ小猪木がいた。

2009年8月30日、ユニオンプロレスで剛に顔が似ていたためあやかってアナグラムのリングネームを名乗っている竜剛馬と『夢のタッグ』を組み、小笠原和彦(元極真会館)・松崎和彦の『ダブル和彦』組と対戦した。9月3日新木場1stRING宮本和志自主興行(剛・松崎組対鶴見・佐野直組)が、剛の生涯最後の試合となった。が、この頃にはかつてパンプアップされていた筋肉は見る影も無く、剛もただリングに立っているだけでまともに試合も出来ない程衰えていた。

死去

2009年10月7日、剛は自転車を運転中に交通事故に遭った[33]。同月13日、連絡がないことを心配した剛の長男が厚木市の自宅を訪ね、翌日再訪した長女が倒れている剛を発見し病院に搬送した[34]が、4日後の10月18日1時11分、敗血症のため死去[35][36]。53歳没。

剛は交通事故の際に開放骨折した右手首の傷口から細菌が入り込み[37]アルコール性肝障害による体力低下も重なって[38]、全身に感染したものとみられている[39]。また死去する数日前に幾人かのレスラー仲間に電話をかけていたが、電話に出た者はいなかったという[34][40]

死去当日の剛の通夜には浜口、鶴見、三宅綾、松崎、宮本らが[37]、10月19日の剛の告別式には浜口ら約30名のプロレス関係者が参列した[41]戒名は『観照宏徳信士[33]。浜口は葬儀後、「彼(剛)はね、早く両親を亡くしたために、自分で妹さんの進学費用も出していた心優しい男だったんですよ」と涙ながらに想い出を語った。

人物

私生活では1987年に結婚、1男2女をもうけるが2005年に離婚している。剛はファイトマネーなどの稼ぎを一切家庭に入れなかったため、家族の生活費は妻が自ら働いて捻出していた[42]。さらに前述の通り、2003年に剛が窃盗罪で逮捕されたため愛想が尽きたことが離婚につながったという[42]。ただ離婚後も長男とは関係が続いていたため、元妻ともたまに顔を合わせることはあり、結局告別式の喪主も元妻が務めた[43]

得意技

腕ひしぎ逆十字固め
ラリアット - 晩年に多く使用。
ジャーマン・スープレックス
サイド・スープレックス
リバース・スープレックス
バックドロップ
ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ

獲得タイトル

新日本プロレス
NWAハリウッド・レスリング
  • NWAアメリカス・タッグ王座:2回(w / ブラック・ゴールドマン、ラッシャー木村
チャンピオンシップ・レスリング・USA

ドラマ出演

その他の出演

  • 真心ブラザーズの楽曲『空にまいあがれ』のプロモーションビデオ(1996年) - 剛竜馬が出演している。映像の30秒過ぎから登場。首に鎖を巻き、筋肉を誇示するポーズをとったり、ジャイアントスイングを披露するシーンなどがある。

脚注

注釈

  1. ^ 世界格闘技連合はジャパン女子プロレスを改変する予定だったが、結局立消えとなった。後に新間はFMWの創設に顧問という肩書きで関わるが、旗揚げを見届けぬままフェードアウトしている。新間親子は猪木の団体・UFOでも『世界格闘技連合』の名前を再利用している。
  2. ^ 剛の他に数名の男子プロレスラーの出演作があることが確認されている。
  3. ^ 後に中嶋勝彦世界ジュニアヘビー級王座を18歳11ヵ月で獲得するなど、更新されている。また女子も含めれば、全日本女子プロレスが20歳以下を対象とした王座として創設した全日本ジュニア王座も存在。

出典

  1. ^ 『G SPIRITS』VOL.46(辰巳出版、2018年、 ISBN 9784777820047) p18 - 33のマイティ井上による証言。また、国際プロレス離脱のときの理由として周囲には、当時板前の父親が病弱で、店を継ぐためと漏らしていたという。
  2. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史』vol.23(ベースボール・マガジン社、2016年)ISBN 9784583624587、P19
  3. ^ 剛竜馬ほどかわいそうなレスラーはいないターザンカフェ 2009年10月22日
  4. ^ a b 門馬忠雄 『ニッポン縦断プロレスラー列伝』(エンターブレイン、2002年) ISBN 9784757709508 、p160 - 161
  5. ^ 剛竜馬選手が死亡のニュース小鹿注意報!(グレート小鹿ブログ) 2009年10月18日
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『G SPIRITS 』VOL.46(辰巳出版、2018年)ISBN 9784777820047 p34 - 43の高杉正彦による証言
  7. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史』vol.23(ベースボール・マガジン社、2016年)ISBN 9784583624587、P20
  8. ^ 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史』vol.23(ベースボール・マガジン社、2016年)ISBN 9784583624587、P21
  9. ^ IWE 1976 Yumo(Bravery)Series”. Puroresu.com. 2015年3月16日閲覧。
  10. ^ IWE 1977 The 6th IWA World Series”. Puroresu.com. 2016年6月19日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 』vol.23(ベースボール・マガジン社、2016年)ISBN 9784583624587、P23-P26
  12. ^ a b 『東京12チャンネル時代の国際プロレス』(辰巳出版、2019年)ISBN 978-4777822898、P163-P165
  13. ^ 実録・国際プロレス 2017, p. 339.
  14. ^ IWE 1978 Super Fight Series”. PURORESU.COM. 2018年4月3日閲覧。
  15. ^ 実録・国際プロレス 2017, p. 340.
  16. ^ 『忘れじの国際プロレス―国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語―』(ベースボール・マガジン社、2014年)p110
  17. ^ NJPW 1978 Summer Fight Series”. Puroresu.com. 2016年6月19日閲覧。
  18. ^ a b NJPW 1978 Pre-Japanese Championship Series”. Puroresu.com. 2016年6月19日閲覧。
  19. ^ a b NJPW 1980 The 3rd Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2016年6月19日閲覧。
  20. ^ 『忘れじの国際プロレス―国際プロレス解散から33年。語り継がれる魂の物語―』( ベースボール・マガジン社、2014年)p17
  21. ^ NJPW 1984 New Year Golden Series”. Puroresu.com. 2015年9月10日閲覧。
  22. ^ 『日本プロレス事件史』vol.8(ベースボール・マガジン社)P30 - P31
  23. ^ 『Gスピリッツ』Vol.46(辰巳出版、2017年)ISBN 4777820041)、P32
  24. ^ ラッシャー木村の懐古談より
  25. ^ a b 実録・国際プロレス 2017, pp. 208–209.
  26. ^ プロレス界を揺るがした10人の悪党 2008.
  27. ^ 週刊ゴング別冊『プロレス虚泡団体の真実』(竹内宏介ISBN 4930943124
  28. ^ The AWA matches fought by Ryuma Go in 1986”. Wrestlingdata.com. 2016年6月19日閲覧。
  29. ^ a b プロレスバカの剛竜馬はマット界の捨て子だったターザンカフェ 2009年10月20日
  30. ^ プロレスラー・剛竜馬出演のゲイビデオについてサムソン高橋が撮影当時の心境を語る「本当につらいだけの撮影でした」【聞き手:吉田豪・久田将義】 ニコニコニュース 2019/01/21 11:30(ドワンゴ、2019年1月21日閲覧)
  31. ^ 「プロレス バカ」剛竜馬が来社 日刊スポーツ 2004年8月20日
  32. ^ プロ格コラム 2004年12月28日
  33. ^ a b 剛竜馬さん葬儀・告別式に浜口氏ら参列『デイリースポーツ』 2009年10月19日
  34. ^ a b 三宅稜ブログ~本音でよろしいですか?2009年10月20日
  35. ^ “プロレスバカ”として一世を風靡した剛竜馬さん死去 kamipro.com 2009年10月18日
  36. ^ 剛竜馬さん死去…国際、新日などで活躍 『デイリースポーツ』 2009年10月18日
  37. ^ a b サムライTVニュース 2009年10月19日
  38. ^ 「プロレスバカ」剛竜馬さん敗血症で死去 『日刊スポーツ』 2009年10月19日
  39. ^ 『東京スポーツ』 2009年10月20日付 6面
  40. ^ 剛竜馬さん急死…昭和の“プロレスバカ”53歳早すぎる 『スポーツ報知』 2009年10月19日
  41. ^ 剛竜馬さん棺に「プロレス馬鹿」Tシャツ 『日刊スポーツ』 2009年10月20日
  42. ^ a b プロレスラー剛竜馬さんの妻が告白〈上〉「プロレスバカ」が晩年に愛した息子との日々 - スポーツ報知・2020年8月21日
  43. ^ プロレスラー剛竜馬さんの妻の告白<中>「プロレスバカ」が天国へ逝った日…2009年10月18日 - スポーツ報知・2020年8月22日
  44. ^ 『週刊プロレス』」第77巻、ベースボール・マガジン社、1985年。 

参考文献

外部リンク