「WAR (プロレス)」の版間の差分
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旗揚げ直後、[[越中詩郎]]らの[[平成維震軍]](反選手会同盟)が参戦して来たことを契機に、天龍らWAR勢は[[新日本プロレス]]に積極的に参戦。後に[[長州力]]との約6年ぶりの対決(1993年)や[[アントニオ猪木]]との対戦(1994年)を実現させた<ref name="war1992"/>。 |
旗揚げ直後、[[越中詩郎]]らの[[平成維震軍]](反選手会同盟)が参戦して来たことを契機に、天龍らWAR勢は[[新日本プロレス]]に積極的に参戦。後に[[長州力]]との約6年ぶりの対決(1993年)や[[アントニオ猪木]]との対戦(1994年)を実現させた<ref name="war1992"/>。 |
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新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後は、[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]をはじめとしたインディペンデント団体、[[UWFインターナショナル]]、女子団体である[[LLPW-X|LLPW]](現:LLPW-X)など幅広く交流を進めた<ref name="war1994">「天龍源一郎 引退記念特別号 下巻」pp36 - 38 『ロマン大爆発』</ref>。その中でも天龍は団体の代表として、[[大仁田厚]]との電流爆破[[デスマッチ]](1994年)、[[高田延彦]]との二度にわたる一騎討ち(1996年)などジャンルを問わず、精力的に参戦<ref name="war1994"/>。また、団体内対抗勢力として、それまで天龍の側近的存在であった[[冬木弘道]]が[[邪道 (プロレスラー)|邪道]]、[[外道 (プロレスラー)|外道]]らと共に冬木軍を結成し天龍と対決する構図を作り上げ、冬木は「理不尽大王」の異名を取るなど脚光を浴びた。このほか、「相撲軍団」、「反WAR軍」なども活動していた。これ以外にも、LLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や6人タッグ王座の創立、一連の抗争劇による代表の[[武井正智]]の試合出場など幅広い路線で話題を振り撒いた。しかし、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていった。 |
新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後は、[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]をはじめとしたインディペンデント団体、[[UWFインターナショナル]]、女子団体である[[LLPW-X|LLPW]](現:LLPW-X)など幅広く交流を進めた<ref name="war1994">「天龍源一郎 引退記念特別号 下巻」pp36 - 38 『ロマン大爆発』</ref>。その中でも天龍は団体の代表として、[[大仁田厚]]との電流爆破[[デスマッチ]](1994年)、[[髙田延彦|高田延彦]]との二度にわたる一騎討ち(1996年)などジャンルを問わず、精力的に参戦<ref name="war1994"/>。また、団体内対抗勢力として、それまで天龍の側近的存在であった[[冬木弘道]]が[[邪道 (プロレスラー)|邪道]]、[[外道 (プロレスラー)|外道]]らと共に冬木軍を結成し天龍と対決する構図を作り上げ、冬木は「理不尽大王」の異名を取るなど脚光を浴びた。このほか、「相撲軍団」、「反WAR軍」なども活動していた。これ以外にも、LLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や6人タッグ王座の創立、一連の抗争劇による代表の[[武井正智]]の試合出場など幅広い路線で話題を振り撒いた。しかし、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていった。 |
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もともと天龍を一枚看板とした団体であり、団体内におけるライバルや後継のエース([[荒谷望誉|荒谷信孝]]を売り出したが、大成せず)が育たなかった<ref name="war1998">「天龍源一郎 引退記念特別号 下巻」pp46 - 47 『IWGPヘビー初戴冠新日本の頂点に立つ!』</ref>ことが、最終的に観客動員の低下につながった。また旗揚げ当初は社長兼エースである天龍を中心として一枚岩を誇っていたが、天龍の義弟である武井正智が社長に就任した頃から団体内部に亀裂が生じ、1994年には[[石川孝志|石川敬士]]が離脱し、[[新東京プロレス|東京プロレス]]を設立。さらに後に冬木弘道、[[折原昌夫]]らの退団を招く形となった。 |
もともと天龍を一枚看板とした団体であり、団体内におけるライバルや後継のエース([[荒谷望誉|荒谷信孝]]を売り出したが、大成せず)が育たなかった<ref name="war1998">「天龍源一郎 引退記念特別号 下巻」pp46 - 47 『IWGPヘビー初戴冠新日本の頂点に立つ!』</ref>ことが、最終的に観客動員の低下につながった。また旗揚げ当初は社長兼エースである天龍を中心として一枚岩を誇っていたが、天龍の義弟である武井正智が社長に就任した頃から団体内部に亀裂が生じ、1994年には[[石川孝志|石川敬士]]が離脱し、[[新東京プロレス|東京プロレス]]を設立。さらに後に冬木弘道、[[折原昌夫]]らの退団を招く形となった。 |
2020年12月23日 (水) 04:31時点における版
WAR(ダブリュー・エー・アール)は、かつて存在した日本のプロレス団体。設立当初は「Wrestle and Romance(レッスル・アンド・ロマンス)」の略とされていたが後に「Wrestle Association R(レッスル・アソシエーション・アール)」に変更された。
歴史
SWS崩壊後、その一派である「レボリューション」のメンバーが中心となり、1992年7月14日の後楽園ホールで旗揚げ戦を開催[1]。SWS時代から友好を保っていたWWFの選手を招聘したり、SWSの親会社であったメガネスーパーからも期間限定ながら資金援助も受けていたが、旗揚げ戦後、間もなくして、天龍源一郎を中心に他団体へ積極的な交流路線に乗り出し、順調な観客動員を記録。
旗揚げ直後、越中詩郎らの平成維震軍(反選手会同盟)が参戦して来たことを契機に、天龍らWAR勢は新日本プロレスに積極的に参戦。後に長州力との約6年ぶりの対決(1993年)やアントニオ猪木との対戦(1994年)を実現させた[1]。
新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後は、FMWをはじめとしたインディペンデント団体、UWFインターナショナル、女子団体であるLLPW(現:LLPW-X)など幅広く交流を進めた[2]。その中でも天龍は団体の代表として、大仁田厚との電流爆破デスマッチ(1994年)、高田延彦との二度にわたる一騎討ち(1996年)などジャンルを問わず、精力的に参戦[2]。また、団体内対抗勢力として、それまで天龍の側近的存在であった冬木弘道が邪道、外道らと共に冬木軍を結成し天龍と対決する構図を作り上げ、冬木は「理不尽大王」の異名を取るなど脚光を浴びた。このほか、「相撲軍団」、「反WAR軍」なども活動していた。これ以外にも、LLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や6人タッグ王座の創立、一連の抗争劇による代表の武井正智の試合出場など幅広い路線で話題を振り撒いた。しかし、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていった。
もともと天龍を一枚看板とした団体であり、団体内におけるライバルや後継のエース(荒谷信孝を売り出したが、大成せず)が育たなかった[3]ことが、最終的に観客動員の低下につながった。また旗揚げ当初は社長兼エースである天龍を中心として一枚岩を誇っていたが、天龍の義弟である武井正智が社長に就任した頃から団体内部に亀裂が生じ、1994年には石川敬士が離脱し、東京プロレスを設立。さらに後に冬木弘道、折原昌夫らの退団を招く形となった。
1998年に全選手の解雇を発表[3]。以後は団体ではなく興行会社として2000年7月16日の後楽園ホールで行われたWAR8周年記念大会まで活動。団体として余力のある内に経営を停止。2006年7月27日の後楽園ホールで天龍が最高顧問を務めるDRAGON GATEの支援を受け、6年ぶりとなる興行が行われた[4]。会場は旧来のファンが集い超満員となり、天龍自身も2試合に出場した。これによりWARは団体としてのけじめをつけたとして活動を停止[4]。なお、WARではIJ王座というタイトルをシングル、タッグともに有していたが天龍の意向により団体活動終了後もIJ王座は主にDRAGON GATEを中心として継続することとなった。しかし、その後IJタッグはDRAGON GATE内にて新設されたオープン・ザ・ツインゲート選手権と統一王座戦が行われ、ツインゲートに統一されて消滅、IJシングルも目立った防衛戦が行われないまま、現在は消滅している。
「夢の懸け橋」を巡る対応
1995年4月2日に東京ドームで開催されたベースボール・マガジン社主催の「夢の懸け橋」の興行についてはWARは参加せず、当初より、決定していた隣の後楽園ホール大会を優先。当初は主催者側より、参加要請されたものの、SWS時代に「週刊プロレス」編集長であったターザン山本(山本隆司)の編集方針に対して取材拒否をした関係から、参加を拒否。この日、WARの興行には新日本プロレスから長州力や越中詩郎らが参加し、こちらも満員を記録。試合会場に入りきれないファンのために後楽園ホール内の別の場所でクローズドサーキットによる同時上映も開催されている。武井が後年の発言で(「噂の真相」のターザン関連の記事や「週刊プロレス」で連載したエッセイなど)、参加要請に難色を示したところ、ターザン山本から「これでWARもマイナーに追い込むしかないね」といった発言をされ、この発言を伝え聞いた天龍も激怒し、参加拒絶となったと語っている。因みに参加拒否を明確にした直後、天龍は実話雑誌のインタビューで、WAR(天龍)が「週刊プロレス」の取材を解禁した事情について、平成維震軍のWAR参戦により同誌の方から取材させてほしいと依頼してきたと話している。なお、取材解禁後初のターザン山本による天龍へのインタビューは、ぎこちない雰囲気のなかで行われたと武井は証言している。 また、1996年に新日本プロレスが起こした『週刊プロレス』に対する取材拒否騒動に対しても、UWFインターナショナルと共に同調して同誌に取材拒否を行った。
「プロレス連合會」の結成
1996年、東京プロレスのオーナーとI.W.A.JAPANを離脱した佐藤昭雄により、『日本プロレスリング共同機構(略称「FFF(ファイティング・フォー・フューチャー)」)』の設立が発表された。これは乱立するインディペンデント団体を統一する受け皿として設立したもので、佐藤の動きに呼応する形で、WARを離脱して間もない冬木軍やWARにも参戦していたターザン後藤ら『真FMW』も参加を表明。これに対し、東京プロレス設立の経緯に加えて、看板選手であった冬木軍を事実上引き抜かれたのも同然と考えたWARはFFFに対抗するべく、交流するインディー諸団体に働きかけてインディー団体の集合体「プロレス連合會」を発足させた。これにはI.W.A.JAPAN、格闘技塾 武輝道場、大日本プロレス、レッスル夢ファクトリー、冴夢来プロレスが加わった。連合會側は、FFFへの不参加を表明した石川敬士ら東京プロレスの残党を参戦させるなど、FFFとの対決姿勢を見せたが発足わずかで、大日本プロレスが方向性の相違から連合會を離脱するなど、足並みが乱れる。さらに肝心な対抗相手であったFFFが資金難などから、旗揚げ戦も行えずに崩壊したことから、連合會も有名無実化し、1997年には自然消滅の形となった。
タイトル
- この王座に使用されたチャンピオンベルトはテレビ東京系列の番組「開運!なんでも鑑定団」に出品された力道山の時代の日本ヘビー級王座を所有者の承諾を得て借用[2]。
- 2006年8月6日にDRAGON GATEで復活して2007年9月22日にオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座として統一されたが2010年9月29日に天龍プロジェクトで復活。
所属選手
旧「レボリューション」からの参加
中途加入
- 維新力浩司
- ザ・グレート・シンジャ(現:佐藤昭雄)
- 荒谷信孝
- 一宮章一
- 大刀光修(現:大刀光)
- 嵐(初代)(現:大黒坊弁慶)
- 嵐(2代目)
- ウルティモ・ドラゴン
- 超電戦士バトレンジャー
- 石井智宏
- 片岡亮
- 邪道
- 外道
- 刃(現:BADBOY非道)
- 松岡則生
- 竹崎純外
- 坂下博志
- 板倉広
- 菊地淳
- 田村忍
参考文献[5]
スタッフ
レフェリー
リングアナウンサー
アルバイト
- 藤井達樹(現:ドン・フジイ)
来日外国人選手
- アースクエイク
- アブドーラ・ザ・ブッチャー
- エル・ヒガンテ
- キング・ハク
- クラッシャー・バンバン・ビガロ
- ケリー・フォン・エリック
- ザ・ウォーロード
- ザ・バーザーカー
- ザ・バーバリアン
- ジ・アンダーテイカー
- シコシス
- ジミー・スヌーカ
- スタン・レーン
- タイフーン
- ダミアン
- チャボ・ゲレロ
- ディック・スレーター
- ドインク・ザ・クラウン
- デスマスク
- ドクター・ルーサー
- ドス・カラス
- トニー・ホーム
- ネグロ・カサス
- ノーマン・スマイリー
- ミスター・ヒューズ
- バンピーロ・カサノバ
- ビッグ・タイトン
- フベントゥ・ゲレーラ
- ブレイク・ビバリー
- ポール・ダイヤモンド
- ボウ・ビバリー
- ボブ・バックランド
- ミッシング・リンク
- ミル・マスカラス
- ライオン・ハート
- ランス・ストーム
- リック・フレアー
- レイ・ミステリオ・ジュニア
- ロード・ウォリアー・アニマル
参考文献[5]
参考文献
- スポーツアルバムNo.54「天龍源一郎 引退記念特別号 下巻」 2015年 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2