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== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== 第2次UWF ===
=== 第2次UWF ===
幼い頃、[[藤波辰爾|藤波辰巳]]に憧れてプロレスラーを志す。[[岡山理科大学附属高等学校]]では相撲部に所属して国体に出場。卒業後、[[1988年]]に[[UWF|第2次UWF]]の入団テストを受けて合格し、[[1989年]]5月21日に鈴木実(現:[[鈴木みのる]])戦でデビューを果たした。新人の頃は[[前田日明]]、[[高田延彦]]、[[山崎一夫]]の付き人を行っていたが、付き人としての忙しさは「もう体が3つ欲しかった」と語るほどであった<ref name="kaminoge"/>。この3人からは買い物の釣銭を小遣いとしてもらうなどかわいがってもらい、[[宮戸優光]]や[[安生洋二]]などからは食事の世話をしてもらった<ref name="kaminoge"/>。[[中野龍雄]](中野巽耀)からは礼儀作法を教わったが、実際は中野の機嫌の取り方を覚える作業であった<ref name="kaminoge"/>。同年10月25日、デビュー5試合目となる前田との試合で膝蹴りをくらい眼窩底を骨折、1年の欠場を余儀なくされた。[[1990年]]12月1日に復帰するが、直後にUWFは解散。
幼い頃、[[藤波辰爾|藤波辰巳]]に憧れてプロレスラーを志す。[[岡山理科大学附属高等学校]]では相撲部に所属して国体に出場。卒業後、[[1988年]]に[[UWF|第2次UWF]]の入団テストを受けて合格し、[[1989年]]5月21日に鈴木実(現:[[鈴木みのる]])戦でデビューを果たした。新人の頃は[[前田日明]]、[[髙田延彦|高田延彦]]、[[山崎一夫]]の付き人を行っていたが、付き人としての忙しさは「もう体が3つ欲しかった」と語るほどであった<ref name="kaminoge"/>。この3人からは買い物の釣銭を小遣いとしてもらうなどかわいがってもらい、[[宮戸優光]]や[[安生洋二]]などからは食事の世話をしてもらった<ref name="kaminoge"/>。[[中野龍雄]](中野巽耀)からは礼儀作法を教わったが、実際は中野の機嫌の取り方を覚える作業であった<ref name="kaminoge"/>。同年10月25日、デビュー5試合目となる前田との試合で膝蹴りをくらい眼窩底を骨折、1年の欠場を余儀なくされた。[[1990年]]12月1日に復帰するが、直後にUWFは解散。


=== UWFインターナショナル ===
=== UWFインターナショナル ===
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帰国後、UWFインターの中心選手に成長する中で、[[1993年]]に旗揚げされた[[パンクラス]]の影響により[[ガチンコ|シュート]](真剣勝負)への渇望を募らせる。一方、[[レオン・ホワイト|ベイダー]]参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、[[垣原賢人]]を相手にシュート志向の試合を行った。
帰国後、UWFインターの中心選手に成長する中で、[[1993年]]に旗揚げされた[[パンクラス]]の影響により[[ガチンコ|シュート]](真剣勝負)への渇望を募らせる。一方、[[レオン・ホワイト|ベイダー]]参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、[[垣原賢人]]を相手にシュート志向の試合を行った。


[[1995年]]6月18日、[[ゲーリー・オブライト]]に勝利するが、オブライトの無気力かつ不可解な戦い方に「お客さんに見せる試合ではない」と涙を流す<ref name="kaminoge"/>。同日、団体エースの[[高田延彦]]が突然引退宣言、翌7月には[[第17回参議院議員通常選挙|参院選]]に出馬するなどして周囲を困惑させる<ref name="kaminoge"/>。代わってメインを務めた田村は、試合後のコメントで高田への反感を露にした。
[[1995年]]6月18日、[[ゲーリー・オブライト]]に勝利するが、オブライトの無気力かつ不可解な戦い方に「お客さんに見せる試合ではない」と涙を流す<ref name="kaminoge"/>。同日、団体エースの[[髙田延彦|高田延彦]]が突然引退宣言、翌7月には[[第17回参議院議員通常選挙|参院選]]に出馬するなどして周囲を困惑させる<ref name="kaminoge"/>。代わってメインを務めた田村は、試合後のコメントで高田への反感を露にした。


8月18日にオブライトと再戦、勝利した直後、リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする<ref name="kaminoge"/>。しかし実現することなく、UWFインターは[[新日本プロレス]]との対抗戦へと突入した。田村はこの対抗戦への参加を拒否したため(ただし[[リングス]]移籍後、[[長州力]]、[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]の引退試合で花束を渡すゲストとして、新日本のリングに上がったことがある)、同団体を干される格好となる。またこの年、資金難にあえぐ会社側と契約の問題で揉めたこともあり、数か月間ノーギャラで過ごし、練習も一人でスポーツジムに通って行っていた<ref name="kaminoge"/>。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含めて周囲からは自身を気に掛ける言葉もなかった。唯一『[[週刊ファイト]]』のUWF担当記者だった波々伯部哲也が「おこめ券」をくれたため、今でも田村は波々伯部に感謝している<ref name="kaminoge"/>。
8月18日にオブライトと再戦、勝利した直後、リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする<ref name="kaminoge"/>。しかし実現することなく、UWFインターは[[新日本プロレス]]との対抗戦へと突入した。田村はこの対抗戦への参加を拒否したため(ただし[[リングス]]移籍後、[[長州力]]、[[山崎一夫 (プロレスラー)|山崎一夫]]の引退試合で花束を渡すゲストとして、新日本のリングに上がったことがある)、同団体を干される格好となる。またこの年、資金難にあえぐ会社側と契約の問題で揉めたこともあり、数か月間ノーギャラで過ごし、練習も一人でスポーツジムに通って行っていた<ref name="kaminoge"/>。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含めて周囲からは自身を気に掛ける言葉もなかった。唯一『[[週刊ファイト]]』のUWF担当記者だった波々伯部哲也が「おこめ券」をくれたため、今でも田村は波々伯部に感謝している<ref name="kaminoge"/>。
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2020年12月23日 (水) 04:30時点における版

田村 潔司
基本情報
本名 田村 潔
通称 孤高の天才
赤いパンツの頑固者
Uの遺伝子を継ぐ者
回転体
PRIDEからの刺客
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1969-12-17) 1969年12月17日(55歳)
出身地 岡山県岡山市
所属 UWF
UWFインターナショナル
リングス
U-FILE CAMP
身長 180cm
体重 84kg
階級 ミドル級
バックボーン プロレス相撲
テーマ曲 Flame Of Mind(内田光一
テンプレートを表示
YouTube
チャンネル
活動期間 2016年6月25日 -
ジャンル ハウツーとスタイル
登録者数 8780人
総再生回数 1,219,479回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2020年7月21日時点。
テンプレートを表示

田村 潔司(たむら きよし、1969年12月17日 - )は、日本男性プロレスラー総合格闘家。本名・旧リングネーム:田村 潔(読み同じ)。岡山県岡山市出身。U-FILE CAMP主宰。初代、第3代リングス無差別級王者

来歴

第2次UWF

幼い頃、藤波辰巳に憧れてプロレスラーを志す。岡山理科大学附属高等学校では相撲部に所属して国体に出場。卒業後、1988年第2次UWFの入団テストを受けて合格し、1989年5月21日に鈴木実(現:鈴木みのる)戦でデビューを果たした。新人の頃は前田日明高田延彦山崎一夫の付き人を行っていたが、付き人としての忙しさは「もう体が3つ欲しかった」と語るほどであった[1]。この3人からは買い物の釣銭を小遣いとしてもらうなどかわいがってもらい、宮戸優光安生洋二などからは食事の世話をしてもらった[1]中野龍雄(中野巽耀)からは礼儀作法を教わったが、実際は中野の機嫌の取り方を覚える作業であった[1]。同年10月25日、デビュー5試合目となる前田との試合で膝蹴りをくらい眼窩底を骨折、1年の欠場を余儀なくされた。1990年12月1日に復帰するが、直後にUWFは解散。

UWFインターナショナル

UWF崩壊後、UWFインターナショナルに籍を移し、頭角を現す。1992年5月8日、異種格闘技戦でボクシング世界ランカーのマシュー・サード・モハメッドに裸絞めで一本勝ち。同年末に渡米し、ルー・テーズのもとでレスリング技術などを学ぶ。

帰国後、UWFインターの中心選手に成長する中で、1993年に旗揚げされたパンクラスの影響によりシュート(真剣勝負)への渇望を募らせる。一方、ベイダー参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、垣原賢人を相手にシュート志向の試合を行った。

1995年6月18日、ゲーリー・オブライトに勝利するが、オブライトの無気力かつ不可解な戦い方に「お客さんに見せる試合ではない」と涙を流す[1]。同日、団体エースの高田延彦が突然引退宣言、翌7月には参院選に出馬するなどして周囲を困惑させる[1]。代わってメインを務めた田村は、試合後のコメントで高田への反感を露にした。

8月18日にオブライトと再戦、勝利した直後、リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする[1]。しかし実現することなく、UWFインターは新日本プロレスとの対抗戦へと突入した。田村はこの対抗戦への参加を拒否したため(ただしリングス移籍後、長州力山崎一夫の引退試合で花束を渡すゲストとして、新日本のリングに上がったことがある)、同団体を干される格好となる。またこの年、資金難にあえぐ会社側と契約の問題で揉めたこともあり、数か月間ノーギャラで過ごし、練習も一人でスポーツジムに通って行っていた[1]。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含めて周囲からは自身を気に掛ける言葉もなかった。唯一『週刊ファイト』のUWF担当記者だった波々伯部哲也が「おこめ券」をくれたため、今でも田村は波々伯部に感謝している[1]

同年12月9日、K-1のリングで約4か月ぶりの試合を行う。UWFインターの所属選手として出場し、お互い素手と裸足によるアルティメット特別ルールでパトリック・スミスと対戦。この試合は消滅が秒読みであったUWFの最後の希望としての試合であり、田村は自分の性格上、負けたら格闘界を去っていたと後年振り返っている[1]。開始すぐにタックルを決め、ヒールホールドで秒殺一本勝ち。後の対談では相手の玉袋筋太郎から「パトスミ戦なんてバーリ・トゥードの本当の先駆けだったわけだしね」とこの試合について語られている[1]。この試合は、バーリ・トゥードにおける日本人プロレスラーの初勝利である。

その後、UWFインターの大会に出場させてもらえるようになったが、後輩の桜庭和志や格下外国人との試合ばかり、それも第1試合や第2試合という前座の扱いになる。また、新日本との対抗戦以来続いていた旧プロレス的な試合を続ける団体との方向性の違いにより、田村は退団の決意を固める。1996年5月27日の桜庭戦で勝利した後、レガースを脱いで客席に放り込み、同団体を去った。

リングス

1996年に大方の予想を覆しパンクラスではなくリングスに移籍。両団体から誘いがあったが(パンクラス社長尾崎允実は勧誘を否定)、「正式に契約の場を設けてくれた」という理由でリングスに決めたという。

6月29日、ディック・フライ戦に裸絞めで一本勝ちしてデビュー戦を飾る。その後順調に勝ち星を重ね、長井満也山本宜久らリングス・ジャパン生え抜きとの対戦でも勝利。リングスでの名勝負としては、引退直前であった前田日明との対戦であり、左のミドルキックで前田の脇腹がみるみる赤くなったが、最終的には前田がスリーパーで勝った試合である[1]。前田とはその年のメガバトルトーナメントで再戦し、今度は田村が腕十字で一本勝ち。リングス旗揚げ以降、前田に勝利した唯一の日本人選手となった。前田日明の引退後はエースの座を受け継いで活躍し、スピード感溢れる試合は「回転体」と称された。プロレスライターの中には田村こそが停滞していたリングスに勢いをつけた救世主であったと後年になって評価する者もいた[1]

1999年4月23日、当時UFC世界ミドル級王者だったフランク・シャムロックと対戦し、引き分ける。KOKルール採用後はリングス・ネットワーク外の強豪選手と数多く対戦。2000年2月26日、キング・オブ・キングス決勝トーナメント1回戦でヘンゾ・グレイシーに判定勝ち。その後もレナート・ババルアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラパット・ミレティッチなどと激闘を展開した。

しかし連戦への不満や契約による専属拘束などを巡って前田と反目、2000年4月20日に当時保持していたリングス無差別級王座をギルバート・アイブルに奪われた試合後のインタビューにて団体への不満をもらす。その後2001年にリングスを退団。

U-FILE CAMP設立後

田村はリングス在籍時にも、前田道場にはあまり顔を出さずサンボの道場に出稽古に赴いたり、設備の整ったジムに通うなど独自のトレーニングを行っていた。そして2000年、総合格闘技ジム・U-FILE CAMPを設立。自ら代表をつとめ、UWFインター時代の同僚・大江慎とともに一般会員への格闘技指導も始める。

2002年2月24日、PRIDE初参戦となったPRIDE.19のミドル級(-93kg)タイトルマッチでヴァンダレイ・シウバと対戦し、パウンドで削られた末に2RKO負けを喫し王座獲得に失敗した[1]

2002年6月23日、PRIDE.21ボブ・サップと対戦するが、1R11秒でTKO負け。試合後、「結果に対して言い訳するつもりはないですけど、開き直って言わせて貰うと、体重差があり過ぎて、どうにもならなかったです。前回は完全燃焼できましたけど、今回は今から試合できちゃう位、体力が残ってるんで・・・。」とコメントした。

2002年9月7日、DEEP初参戦となったDEEP 6th IMPACTで美濃輪育久と対戦し、判定決着も明確な実力差で圧倒して勝利する。試合後のマイクアピールでは、「美濃輪選手のおかげで今日はいい試合ができました」と健闘を讃えた。

2002年11月24日、PRIDE.23で師匠高田延彦の引退試合の相手を務め、2Rに右フックでKO勝ち[1]。試合が終わった後に高田からは「お前は男だ!」という言葉をかけてもらった[1]。試合後のマイクアピールでは「高田さん、ありがとうございました。そして色々と、暖かい目で見ていただいて、色々とご迷惑をおかけして、すみませんでした。今、正直、何を言っていいか分かりませんが、今日引退される実感がないんですが、最後に22年間、夢と感動を与えていただいて、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。」とコメントした。

2003年8月10日、PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦のミドル級グランプリ1回戦で吉田秀彦と対戦。袖車絞めで一本負けを喫した。この試合では、一度だけ入場曲を変えて入場した。

2003年12月31日、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003ロニー・セフォーと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。開催前には、桜庭との対戦オファーがあるも、これを準備期間の短さを理由に拒否したため実現しなかった。

2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDで吉田道場の瀧本誠に判定勝利。柔道金メダリストへの勝利により、UWF系の面目を保った。

2005年11月23日には、DSEの協力のもと、UWF系ファイトスタイルのプロレス興行U-STYLE Axis有明コロシアム)を開催、ジョシュ・バーネットに腕ひしぎ十字固めで一本勝ちしたが、動員の面では苦戦し、興行的には失敗に終わった。

2006年2月26日、PRIDE.31でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとリングス時代に敗れて以来6年ぶりの再戦をしたが、リベンジはならなかった。試合後、「言葉にならないぐらい悔しい」、「ノゲイラとやりたい。ノゲイラが心の中に染みついた。僕に無差別級グランプリに出る権利は無いと思うけど、純粋にノゲイラを追いかけたい。」とコメントした。同年12月31日、PRIDE 男祭り 2006においてミノワマンと再戦しKO勝ち。試合後は2003年8月に敗れた吉田秀彦との対戦を希望した。

2007年4月8日、榊原体制最後の興行となったPRIDE.34のリング上にスーツ姿で登場。覆面姿で登場した桜庭との対戦を示唆した。

2007年6月14日、タレントの桜井悠美子と婚約したことを発表。同年7月7日に入籍し、7月28日に結婚披露宴が行われた。

2007年6月29日、イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)旗揚げ戦「闘今BOM-BA-YE」へ緊急参戦、U-STYLEのタッグマッチを行う(参戦発表はわずか4日前の6月25日だった)。IGF社長のアントニオ猪木と確執のある前田日明との繋がりが深い田村の参戦は大きなサプライズとなった。

2007年7月16日、HERO'Sに初参戦し、金泰泳と対戦。本戦2R、延長1Rを戦い抜くが、0-3の判定負けを喫した。試合後、「ベストの体調じゃなかったけど、出ると決めた以上はベスト。自分の力の無さを感じた。」、「次のHERO'S?階段を踏み外したのだから上がる資格は無い」とコメントした。9月8日には、IGF「GENOME」にてモンターニャ・シウバとU-STYLEルールで対戦。パンチ、キックでダウンを奪われるなど劣勢であったが、7分49秒フロントスリーパーホールドで勝利。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!所英男と対戦し、ストレートアームバーで一本勝ち。試合後のリング上で、勝利者賞のトロフィーをプレゼンターであった前田日明から投げつけられるトラブルがあった。

2008年4月29日、DREAM.2のミドル級グランプリ1回戦で船木誠勝と対戦し、パウンドでTKO勝ち。試合後、「煽りVTRで昔を思い出した。1分弱でお互いの20年をぶつけ合った感じだった。複雑な気持ちだったけど、今はスッキリしている」と語った。後日、右手中指骨骨折の診断により2回戦を欠場した。

2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜のメインイベントで桜庭和志と12年半ぶりに対戦し、判定勝ちを収めた。試合後、「お客さん向けの試合ができなかった。個人的には終わったかなと。」とコメントした。また、この試合中に右手を骨折した[2]

2019年10月25日、プロレスリング・ノアの親会社であるリデットエンターテイメントの社外取締役&エグゼクティブディレクターに就任することが発表された。

人物・エピソード

  • リングへの入場時には、ゆっくりと時間をかけ四方に礼をした後、対戦相手を一瞥するパフォーマンスで有名(リングス時代から続けている)。
  • UWFインター時代の1993年、高田延彦との対戦では試合前の握手を拒否し、高田に平手打ちを見舞った。
  • 実家は寿司屋。リングス所属時代、WOWOWで田村の特番が組まれたときは両親も出演し、インタビューに応じていた。
  • 入門前、履歴書を持って上京し、いきなり新生UWF道場に行くも前田日明に「あっち行ってろ」と言われ退散した。その後、正式に応募して入団テストを受け、トップの成績で合格した。
  • 1995年、K-1のリングでパトリック・スミスに勝利したときには歓喜の涙を流した。「対抗戦を拒否したことでUWFインターの試合にも新日本の試合にも出られず、自分の居場所がなかった。この試合で負けたら引退を覚悟していた。思い出すと今でも泣きそうになる」とのちに振り返っている。当時、他流試合は珍しいものであり、田村は自らの進退もかけて臨んでいたことから注目度の高い一戦であった。
  • UWFインター時代の後輩桜庭和志から、数度にわたって対戦要求を受けているが、田村はことごとく拒否。桜庭は田村に対してあまりいい感情を持っていないといわれるが、UWFインター末期においてアンダーカードの試合を続けていた田村を見かね、自ら進んで対戦相手となったこともあり、両者の心底に何があるのかははっきりとはしなかった(ただし、私生活では桜庭とは何度か食事等をしており、その内容が書籍「孤高の選択」に書かれている)。
  • 黎明期の修斗やシューティング団体は当時のUWFの商売敵に値していたが、田村自身は「眼中っていうか、情報が無いというか」と2017年の座談会で話している[1]
  • 自分が新日本との対抗戦を拒否した理由としては「Uインターで築き上げたものは、Uインターの中でこそ意味があるんですよ。インターの若い選手が新日本と対抗戦をすることによって、その選手個人の価値は上がるけど、インターとしては何も残らない」という考えがあった[1]
  • キックボクサーの立嶋篤史とはUインター時代以来の友人であり、DREAM.2の船木戦では立嶋がセコンドを務めた。
  • ヘンゾ・グレイシー戦の時にUWFのテーマで入場した際は会場が割れんばかりの歓声が起こった。
  • MMAの選手であるが公式にではないがプロレスに関しての知識がかなり深い。

戦績

総合格闘技

総合格闘技 戦績
48 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
33 5 13 9 6 2 0
13 4 3 4 2
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
桜庭和志 2R(10分/5分)終了 判定3-0 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜 2008年12月31日
船木誠勝 1R 0:57 TKO(パウンド) DREAM.2 ミドル級グランプリ2008 開幕戦
【ミドル級グランプリ 1回戦】
2008年4月29日
所英男 3R 3:08 ストレートアームバー K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!! 2007年12月31日
× 金泰泳 2R(10分/5分)終了+延長R終了 判定0-3 HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦 2007年7月16日
ミノワマン 1R 1:18 KO(サッカーボールキック) PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日
× アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ 1R 2:24 腕ひしぎ十字固め PRIDE.31 Dreamers 2006年2月26日
瀧本誠 3R(10分/5分/5分)終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND 2005年6月26日
アリエフ・マックモド 1R 5:06 TKO(タオル投入) PRIDE.29 SURVIVAL 2005年2月20日
ロニー・セフォー 1R 2:20 腕ひしぎ十字固め PRIDE SPECIAL 男祭り 2003 2003年12月31日
× 吉田秀彦 1R 5:06 袖車絞め PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦
【ミドル級グランプリ 1回戦】
2003年8月10日
高田延彦 2R 1:00 KO(右フック) PRIDE.23 2002年11月24日
美濃輪育久 5分3R終了 判定3-0 DEEP2001 6th IMPACT in ARIAKE COLOSSEUM 2002年9月7日
× ボブ・サップ 1R 0:11 TKO(右フック→パウンド) PRIDE.21 2002年6月23日
× ヴァンダレイ・シウバ 2R 2:28 KO(右ストレート) PRIDE.19
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】
2002年2月24日
× グスタボ・シム 5分2R終了 判定0-2 リングス 10th ANNIVERSARY WORLD TITLE SERIES
【ワールドタイトル決定トーナメント ミドル級 1回戦】
2001年4月20日
× レナート・ババル 2R(10分/5分)終了 判定0-2 リングス KING of KINGS GRAND-FINAL 2001年2月24日
× アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ 2R 2:29 腕ひしぎ十字固め リングス KING of KINGS Aブロック
【2回戦】
2000年10月9日
グロム・ザザ 5分2R終了 判定3-0 リングス KING of KINGS Aブロック
【1回戦】
2000年10月9日
パット・ミレティッチ 2R(10分/5分)終了 判定2-0 リングス Millennium Combine III 2000年8月23日
ジェレミー・ホーン 5分2R終了 判定3-0 コロシアム2000 2000年5月26日
× ギルバート・アイブル 1R 13:13 KO(パンチ連打) リングス Millennium Combine
【リングス無差別級タイトルマッチ】
2000年4月20日
× レナート・ババル 5分2R終了 判定0-1 リングス KING of KINGS GRAND-FINAL
【準決勝】
2000年2月26日
ヘンゾ・グレイシー 5分2R終了 判定3-0 リングス KING of KINGS GRAND-FINAL
【準々決勝】
2000年2月26日
ボリス・ジュリアスコフ 2R 1:17 チョークスリーパー リングス RISE 7th KING of KINGS Bブロック
【2回戦】
1999年12月22日
デイブ・メネー 5分2R終了 判定3-0 リングス RISE 7th KING of KINGS Bブロック
【1回戦】
1999年12月22日
ヨープ・カステル 12:17 腕ひしぎ十字固め リングス RISE 5th
【RINGS無差別級タイトルマッチ】
1999年8月19日
山本宜久 20分終了 時間切れ リングス RISE 4th 1999年6月24日
ビターゼ・タリエル 9:11 チョークスリーパー リングス RISE 3rd
【RINGS無差別級タイトルマッチ】
1999年5月22日
フランク・シャムロック 20分終了 時間切れ リングス RISE 2nd 1999年4月23日
金原弘光 20:14 腕ひしぎ十字固め リングス RISE 1st 1999年3月22日
ヴァレンタイン・オーフレイム 6:08 腕ひしぎ十字固め リングス 前田日明引退試合 〜The Final〜 1999年2月21日
× 高阪剛 9:22 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回FNRカップ GRAND FINAL
1999年1月23日
山本健一 11:26 TKO(膝蹴り) リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回FNRカップ SEMI-FINAL
1998年12月23日
× ニコライ・ズーエフ 3:17 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回FNRカップ Bブロック 1st ROUND
1998年11月20日
アンドレイ・コピィロフ 1:35 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回FNRカップ Bブロック 1st ROUND
1998年11月20日
バロージャ・クレメンチェフ 7:51 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1998
第1回FNRカップ Aブロック 1st ROUND
1998年10月23日
山本宜久 18:54 フロントネックロック リングス FIGHTING INTEGRATION 6th 1998年9月21日
成瀬昌由 24:33 アキレス腱固め リングス FIGHTING INTEGRATION 5th 1998年8月28日
坂田亘 9:48 腕ひしぎ十字固め リングス CAPTURED 〜AKIRA MAEDA LAST MATCH〜 1998年7月20日
高阪剛 30分終了 時間切れ リングス FIGHTING INTEGRATION 4th 1998年6月27日
× ビターゼ・タリエル 3:39 TKO(ドクターストップ) リングス FIGHTING INTEGRATION 3rd
【RINGS無差別級タイトルマッチ】
1998年5月29日
× ヴァレンタイン・オーフレイム 4:51 アキレス腱固め リングス FIGHTING INTEGRATION 2nd 1998年4月16日
ディック・フライ 7:46 チョークスリーパー リングス FIGHTING INTEGRATION 1st 1998年3月28日
セルゲイ・スーセロフ 9:27 アキレス腱固め リングス Battle Genesis Vol.3 1998年3月3日
イリューヒン・ミーシャ 18:12 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1997 GRAND-FINAL
【決勝】
1998年1月21日
前田日明 14:44 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1997 SEMI-FINAL
【準決勝】
1997年12月23日
ヨープ・カステル 6:30 ヒールホールド リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1997 2回戦
【2回戦】
1997年11月20日
ハンス・ナイマン 10:34 腕ひしぎ十字固め リングス WORLD MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1997 1回戦
【1回戦】
1997年10月25日
エルヴィス・シノシック 10:11 ストレートアームバー リングス Battle Genesis Vol.2 1997年10月14日
ヴォルク・ハン 12:48 腕ひしぎ十字固め リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.7 1997年9月26日
× ハンス・ナイマン 9:03 TKO リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.6 1997年8月13日
ビターゼ・タリエル 13:32 TKO リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.5 1997年7月22日
× ニコライ・ズーエフ 10:30 腕ひしぎ足固め リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.4 1997年6月21日
グロム・ザザ 8:15 KO リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.3 1997年5月23日
高阪剛 13:47 アンクルホールド リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.2 1997年4月22日
クリストファー・ヘイズマン 6:52 三角絞め リングス Battle Genesis Vol.1 1997年4月4日
× 前田日明 7:54 チョークスリーパー リングス FIGHTING EXTENSION 1997 Vol.1 1997年3月28日
アンドレ・マナート 1R 2:11 チョークスリーパー リングス・オランダ The Final Challenge 1997年2月2日
× ヴォルク・ハン 12:36 アキレス腱固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1996 GRAND-FINAL
【決勝】
1997年1月22日
山本宜久 9:49 腕ひしぎ十字固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1996 SEMI-FINAL
【準決勝】
1996年12月21日
長井満也 6:13 腕ひしぎ十字固め リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1996 2nd.Round
【2回戦】
1996年11月22日
イリューヒン・ミーシャ 14:40 チョークスリーパー リングス MEGA-BATTLE TOURNAMENT 1996 1st.Round
【1回戦】
1996年10月25日
× ヴォルク・ハン 10:32 リバースアームロック リングス MAELSTROM 7th 1996年9月25日
モーリス・スミス 10:58 腕ひしぎ十字固め リングス MAELSTROM 6th 〜旗揚げ5周年記念大会〜 1996年8月24日
ウィリー・ピータース 10:47 三角絞め リングス MAELSTROM 5th 1996年7月16日
ディック・フライ 3:41 チョークスリーパー リングス MAELSTROM 4th 1996年6月29日
パトリック・スミス 1R 0:55 ヒールホールド K-1 HERCULES 1995年12月9日

グラップリング

勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
桜庭和志所英男 (w ヴァンダレイ・シウバ) 15分終了ドロー RIZIN.1 2016年4月17日
× ヒカルド・リボーリオ 1:02 アームバー ADCC 2001
【88kg未満級 2回戦】
2001年4月11日

獲得タイトル

総合格闘技

プロレス

  • メガバトルトーナメント1997 優勝(1997年)
  • 初代U-STYLE王座

著書

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 東邦出版『KAMINOGE』vol.65 p110-129
  2. ^ 田村が右手骨折、桜庭倒しの代償大きく 日刊スポーツ 2009年1月1日

関連項目

外部リンク

前王者
王座新設
初代RINGS無差別級王者

1998年1月21日 - 1998年5月29日

次王者
ビターゼ・タリエル
前王者
ビターゼ・タリエル
第3代RINGS無差別級王者

1999年5月22日 - 2000年8月20日

次王者
ギルバート・アイブル