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[[1981年]]、島流し同然で[[メキシコ]]遠征に出され現地で[[グラン浜田]]、[[小林邦昭]]、ジョージ高野とタッグを組む。2年後の1983年、会社とのトラブルでプロレスを辞めようと決め、ジョージが[[カナダ]]・[[カルガリー]]の[[スタンピード・レスリング]]へ転戦する際に仲のよい高野俊二に挨拶しようと同行したところ、ジョージの対戦相手である俊二が急病のため、急遽一試合だけとのことでリングに上がったところ、[[プロモーター]]の[[スチュ・ハート]]に絶賛され、プロレスを続ける<ref name=wpro1725 />。その際プロモーター側から髪を金髪にするよう要求され、ヒロは「日本人の金髪レスラー」の先人である[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]に許しを得るべく連絡を取り、上田との関係ができる<ref name=wpro1725 />。上田とは日本帰国後も行動を共にし、「人のマネはするな」「大きいやつが小回りきかないようなことをやれ」などレスラーとしての心得を直接伝授され<ref name=wpro1725 />、スタイルの礎を築く。 |
2020年12月23日 (水) 04:29時点における版
ヒロ斎藤 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ヒロ斎藤 斎藤 弘幸 |
本名 | 斎藤 弘幸 |
ニックネーム |
ミスター・セントーン 新金狼 |
身長 | 175cm |
体重 | 108kg |
誕生日 | 1961年5月25日(63歳) |
出身地 | 神奈川県川崎市 |
所属 | ドラディション |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー |
山本小鉄 上田馬之助 |
デビュー | 1978年8月26日 |
ヒロ斎藤(ヒロさいとう、本名および旧リングネーム:斎藤 弘幸(さいとう ひろゆき)、1961年5月25日[1] - )は、日本のプロレスラー。神奈川県川崎市出身[1]。ドラディション所属。
来歴
父が厳しく、家を早く出たいと思っていた中学生時代に川崎市体育館で新日本プロレスを観戦して「これだ」と直感しプロレスラーを志す[1]。中学卒業後、アルバイトをしながら山本小鉄に入門を直訴し、1978年に新日本へ入門[1]。1978年8月26日、飯山市民体育館の対魁勝司戦でデビューを果たした[1]。当時の若手はジョージ高野、前田日明、平田淳二、保永昇男、高田延彦、高野俊二、新倉史祐、仲野信市など逸材揃い。ニックネームはチョビ。若手時代は、藤波辰巳の付き人を務めた[1]。
1981年、島流し同然でメキシコ遠征に出され現地でグラン浜田、小林邦昭、ジョージ高野とタッグを組む。2年後の1983年、会社とのトラブルでプロレスを辞めようと決め、ジョージがカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングへ転戦する際に仲のよい高野俊二に挨拶しようと同行したところ、ジョージの対戦相手である俊二が急病のため、急遽一試合だけとのことでリングに上がったところ、プロモーターのスチュ・ハートに絶賛され、プロレスを続ける[1]。その際プロモーター側から髪を金髪にするよう要求され、ヒロは「日本人の金髪レスラー」の先人である上田馬之助に許しを得るべく連絡を取り、上田との関係ができる[1]。上田とは日本帰国後も行動を共にし、「人のマネはするな」「大きいやつが小回りきかないようなことをやれ」などレスラーとしての心得を直接伝授され[1]、スタイルの礎を築く。
新日本の大量離脱によって帰国命令が出され、1985年1月に帰国[1]。ザ・コブラのライバルとして台頭し、5月20日には第12代WWFジュニアヘビー級王座を奪取。同じヒール軍団であるマシン軍団と共闘するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れを起こす。8月、新日を離脱しスーパー・ストロング・マシン&高野俊二(現高野拳磁)とカルガリーハリケーンズを結成、全日本プロレスを主戦場にする[1]。フリーのプロダクション形式でどこのリングにでも上がるという現在のプロレス界に多いプロダクション形式の礎となった。
1986年7月31日、ブラッド・アームストロングを倒し初代世界ジュニアヘビー級王座となった[2]。
1987年4月、全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、長州力率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは後藤達俊、保永昇男らとヒール・ユニットブロンド・アウトローズを結成。かつての盟友スーパー・ストロング・マシンが加わってからユニット名をレイジング・スタッフに改名。
1990年にスーパー・ストロング・マシンと組み第14代IWGPタッグ王座を奪取するも、1993年10月にレイジング・スタッフは分裂、その後しばらくはジュニアタイトル保持の保永をサポートした。
1995年に蝶野正洋、天山広吉、サブゥーと狼群団を結成。その後nWo JAPAN、TEAM 2000、クレイジー・ドッグスと独自のヒール道を邁進している。
2000年にG1 CLIMAXに初出場。予選リーグでは全試合で両者リングアウトを予告、実現させ、リーグ戦を荒らした(その中には優勝者の佐々木健介、当時の同士であった小島聡も含まれる)。これに影響を受けた望月成晃は闘龍門のリングにおいて「両者リングアウト推進委員会」を宣言する。
2006年1月末で新日本プロレスを退団[3]。直後から西村修と行動を共にするようになり、その縁あって無我ワールド・プロレスリングへの参戦、後に正式入団する。その後、無我がドラディションに名前が変わった時は藤波辰爾と行動を共にし、レジェンドレスラーの一人として、今なおリングに上がり続ける。
2017年8月27日、全日本プロレス45周年記念両国大会 ~新たなる決意~にドリー・ファンクJr.とのタッグで出場[4]。
2018年2月16日に後楽園ホールで開催された「プロレスリング・マスターズ」にTEAM 2000のメンバーとして参戦した[5]。
評価
「俺、目立つの嫌いなんですよ。(中略)チャンピオンになりたい欲? 全然ないです。プロレスラーになってからも持ったことがない。だって人前でなんかするのって一番嫌いですから[1]」とヒロ本人が語るように、目立つことを嫌う性格であるため、決して始終スポットライトが当たる選手ではないが、その技術・センスは高い評価を受けている。マサ斎藤、ザ・グレート・カブキをはじめとして、全日本プロレス参戦時代にジャイアント馬場が「ジャパンプロレスの選手は、ヒロ斉藤以外プロレスがわかっていない[6]」と発言したり、ヒロが付け人を務めていた藤波はヒロがプロレスを辞めようとしたり、カルガリーハリケーンズとして新日を離脱しようとした際に必死に引き止めるなどヒロを高く評価する同業者は数多い。
技を掛ける場合も、受ける場合においても自分にも相手にも余計な負担を掛けない高い技術から「ヒロさんは柔らかい」と評価されている。馬場はヒロに対し「お前だったらジャーマンでもなんでも受けてやるから遠慮しないでかけてこい!」と声をかけたことをヒロ自身が証言しており、馬場からもその技術に信頼を置かれていたことが伺える。なお、ヒロは実際に馬場をジャーマンで投げようとしたが、馬場の腰回りが大きすぎて腕が回らず不発に終わった。また、馬場から「お前は日本のハーリー・レイスだ」と言われ、困惑したこともあったという[1]。
人望の高さをうかがわせるエピソードも多い。蝶野が現場責任者に就任していた2002年、ヒロは蝶野の補佐役を担当していた。同年5月の新日本プロレスのドーム大会では、ドン・フライが安田忠夫を入場時に襲撃し試合が成立せず乱闘になった事態を収める際に「ヒロさん!ヒロさん!」とヒロを探す蝶野の姿がテレビに映し出され更に「あいつなんとかしてくださいよ!」と蝶野が叫ぶ姿まで放送された。当のヒロはその際(前述の性格もあり)テレビカメラの存在を気にしたためか蝶野を手で払う「あっちいけ」の仕草をした程度で以後は試合会場に場面は切り替わった。
新日本プロレスで企画宣伝部長を務めた永島勝司もヒロのことを「最高に人が好いし他人を裏切らない。自分を主張するけれども、引っ込むところは引っ込む」「他の誰も真似できないという点ではチョビのセントーンはまさに一級品だ」と評している[7]。
また、武藤敬司が率いる新生nWoと蝶野率いるTEAM2000の抗争時にヒロがフォール負けした際、ヒロは軍団のボスに当たる武藤に「すいません」と詫びたが、武藤は「いえ、いえ」と気を使う仕草をテレビカメラの前で見せている。ヒロは先輩に当たるがレスラーとしての立ち位置、武藤のキャラクターから察するに非常に珍しい例である。その後インタビューを受ける武藤を尻目にヒロはさっさと控室に帰ってしまった。
狼軍団所属時、ワールドプロレスリングにて盟友の蝶野がヒロの出場するタッグマッチの解説を担当した際、その試合の実況を担当していた辻よしなりと抗争中であったためか、蝶野は興奮状態であった。そんな状況にもかかわらず「ほらっ、今の斎藤さんのフォローをお前実況したか。そういう斎藤さんの目立たないかもしれないが自軍を有利にさせる影の名プレイを見逃すからお前は実況には向いてないんだよ」というヒロを慕う一面が感じられる発言を残している。またもう一人の盟友であった天山も、ヒロが佐々木健介から殊勲のフォール勝ちを収めた試合の後に、「お前ら見たか!これがヒロ斎藤の実力だ!」と、相変わらずさっさと控室に帰ってしまったヒロを横目に一人でまくし立てたことがある。
レイジングスタッフ当時、闘魂Vにて収録されていた蝶野戦の解説を務めていた田中秀和によって「蝶野の方が実力は上でしょう?(一般的な当時のプロレスファン見地からの発言か田中の個人的な見地かは不明だが)」と問いかけられた佐々木は「いや、あの…ヒロさんはベテラン、ベテランですから」と要領の得ない答えで完全に困っていた。
その他
- 若手時代、マサ斎藤から「同じ名字のため改名しろ」と言われた。しかし、カルガリー遠征時代に高野俊二から本名が弘幸だからヒロ斎藤でいいじゃんと言われ使用し始め、マサ斎藤と似た名前になってしまった。凱旋帰国当時の風貌は、肌は色白、サラサラツヤツヤストレートのロング金髪でたけし軍団のグレート義太夫に似ていたが(「義太夫!」と野次られたこともある)、ヘビー級に転向し色黒になり髪型もパンチパーマにした結果、体型・髪型・風貌とも、一層マサ斎藤に似てきた。体型や風貌から、しばしばマサ斎藤と兄弟・親戚であると勘違いされるが血縁関係はない。マサ斎藤はテレビ解説の際実況のアナウンサーに「ヒロはマサさんに良く似てきましたね」と振られ「だんだん俺に似てきてるんじゃないかな」と照れたような口調で答えていた。また、解説席でマサ斎藤はたびたび、タッグマッチにおけるヒロのプロレス・センスを絶賛していた。
- 新日本時代にトップロープ上からセントーンを繰り出した際、解説のマサ斎藤は「こういった技は凄く怖いんですよ、失敗した時がね。ヒロ斎藤もよくやりますよね。」と絶賛していた。しかし当のヒロ斎藤はセントーンを必殺技に選んだ理由を「自爆しても痛くないから」と週刊プロレスのインタビューで述べている。
- 若手時代、スパーリングで最も負けたくなかったライバルは、同期(厳密にはヒロが半年遅い入門)の前田日明であり、プライベートでも喧嘩ばかりしていた。ただし前述の辞めようとした際に説得してくれたこと「だけ」は感謝している[1]。
- 同じく若手時代、異種格闘技戦向けの公開特訓として、アントニオ猪木が延髄斬りを集中練習する際、首の後ろにスポンジを巻いた珍妙な姿で練習台にさせられたことがある。
- 凱旋帰国当初はサングラス、リーゼント、革ジャン姿のクールス風の男性数名(「クールキャッツ」というバンド)を引き連れて入場していた。これはヒロの知人の芸能事務所から、入場時に引き連れることを提案されもので、ヒロも自己アピールのため承諾し実現[8]。目立つぶん変な試合はできないというプレッシャーがあり、自身のためには良かったと回想している。
- 千葉県船橋市で「炭火焼肉ヒロ」を経営していたが、2005年に閉店している。
- 盟友の後藤とは誕生日が5月25日で同じである。毎年一緒に祝われており、2002年および2004年に後藤と2人でタッグを組んで試合をし勝利している。ヒロは後藤より約4年も先輩であるが年下であるためか「後藤さん」と呼んでいる。(後藤も「ヒロさん」と呼んでいる。)
- 若手レスラーを指導することもあったが、レベルが高すぎて後継者を出せなかった。近年では吉江豊の要請で若手レスラーの指導にあたった旨雑誌の企画対談(対談相手は蝶野)で明かしている。指導方法としては「こういうやり方もあるんだよ」と受講者自らに正しい、自分にあっていると思うものを選ばせる手法が主であるとのこと。
- とんねるずが主演のテレビドラマ「お坊っチャマにはわかるまい!」に借金取り役で出演経験が、2006年テレビ東京の「ライオン丸G」第6話にも後藤、吉江とともにストリートギャング役で出演したことがある。
タイトル歴
- NWA世界ジュニアヘビー級王座(第65代)
- PWF認定世界ジュニアヘビー級王座(初代)
- 初代PWF認定世界ジュニアヘビー級王座決定トーナメント優勝(1986年)
- WWFジュニアヘビー級王座(第12代)
- IWGPタッグ王座(第14代)
入場テーマ曲
- TOO FAST TO LIVE, TOO YOUNG TO DIE (ロバート ゴードン, 1985)
- 竜人戦線(レイジングスタッフ時代)
- サクセス 〜激走〜
- nWo SUCCESS
- nwo時代に使用
得意技
派手な大技よりも小技や反則攻撃を得意とする職人ヒールタイプで、関節技や丸め込み技の類はほとんど使用しない。
- セントーン
- 後方へ回転しながらジャンプし、背面から落ちる変形ボディ・プレス。ヒロの代名詞的な技で、フィニッシュとしても用いられる。
- シャイニングセントーンという派生技も存在する。地方大会で数回しか出したことがない、伝説の技である。
- ダイビング・セントーン
- 主にセカンドロープ上から繰り出すものがフィニッシュとして用いられる。
- トップロープ上から繰り出すこともあるが、同じくダイビング・セントーンを得意としているディック東郷とは違い、飛ぶというより落ちるといった感覚である。
- ジャーマン・スープレックス
- ここぞという場面でしか出さない隠し技の一つで、ジュニア時代のフィニッシュ・ホールドでもある。
- いわゆるベタ足の低空式で放つことがほとんどであるが、ブリッジの深さと美しさには最も定評がある。
- ヌカドーラ
- カウンターで相手の両足を抱えて持ち上げスパインバスターのように前に落とす技。これを仕掛けて、セントーンに繋ぐのが一時期のフィニッシュパターンであった。
- メキシコでは比較的ポピュラーな技で、持ち上げて背中から落とす技の総称でもある。
- 顔面砕きブレーンバスター
- ブレーンバスターの体勢から前方に倒れ込んで叩き付けるフェイスバスター。アメリカではゴードバスターと呼ばれる技と同型。
- チンクラッシャー
- 四つに組んだ状態から相手の頭部を抱え、懐に潜り込ませた頭頂部で顎を打ち付ける。ヒロの場合は、両足を揃えてジャンプする独特のフォームが特徴である。
- ギロチンドロップ
- 相手の腕や脚などへ放つことも多い。
- 鋭角エルボー・ドロップ
- ダウンした相手の横側に立ち、目の前で直角に曲げた肘を正面に倒れ込むようにして叩き込む。
- ストーン・コールド・スティーブ・オースチンが得意とした型のエルボーと同型。
- 背面エルボー
- 相手を対角線に振っておいて、串刺し式で放つ。
- 地獄突き
- 相手の頭を掴んで側方から繰り出す。この後にハンマーブローで畳みかけることが多い。
- ドロップキック
- 正面飛び式を使用。カウンターで放った場合、失敗し自爆することが多い。下記の急所攻撃と並ぶヒロのお約束ムーブである。
- 急所攻撃
- 相手の股間を蹴り上げて試合の流れを変える。相手にバックを取られた際に使用することが多い。逆に相手の急所攻撃をかわすのも得意としているが、バックドロップを狙って組み付いたところを急所攻撃で反撃を受けるというお約束ムーブも存在する。
- サミング
- 顔面掻きむしり
- 足引き
- 蝶野が率いるnWoとT2000を大きく支えた技。
- 場外乱闘
- リーグ戦ではことごとく両者リングアウト裁定にもっていき、蝶野ら自軍団の優勝候補が有利になるよう計らうバイプレイヤーぶりを発揮していた。
- セコンドからの乱入
- レフェリーの死角をついて絶妙のタイミングでリング上に現れ、セントーンなどの得意技で自軍をアシストする。その巧妙さは解説者が「いつの間にかヒロがリングに上がっている!」と叫ぶほどである。なお、リング上から姿をくらますのも早い。
- イリミネーションマッチなどでは自分が敗者となり試合権利が無い場合でも介入する様子がたびたび見られた。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「レスラーヒューマンストーリー第180回 ヒロ斎藤」、『週刊プロレス』No.1725、ベースボール・マガジン社、平成26年2月19日号(2月5日発行)、63-66頁、2014年。
- ^ “AJPW World Junior Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年7月25日閲覧。
- ^ 契約更改に関するお知らせ 新日本プロレス公式サイト 2006年1月31日
- ^ “【2017 SUMMER EXPLOSION [最終戦 全日本プロレス45周年記念両国大会 ~新たなる決意~】 東京・両国国技館 ≪15:00開始≫]”. 全日本プロレス (2017年8月19日). 2017年8月19日閲覧。
- ^ “蝶野がTEAM2000とともに“復活” ケンカキック発射でアシスト”. デイリースポーツ. (2018年2月16日) 2018年2月18日閲覧。
- ^ 正確にはヒロはカルガリーハリケーンズ所属だが、この場合の「ジャパンプロレス」は「新日本から移籍した選手」という意味で用いられたと思われる。
- ^ 永島勝司『永島オヤジの まあだま~って読んでみてよ』晋遊舎・P87
- ^ “【ヒロ斎藤40周年ヒストリー】(15)「帰りたくなかった新日本。藤波辰己の言葉で帰国を決意」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2019年10月15日) 2019年10月16日閲覧。