「ヘンリー2世 (イングランド王)」の版間の差分
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[[1185年]]、サラディン([[サラーフッディーン]])の重圧の前に風前のともし火であった[[エルサレム王国]]から救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにもやってきた。エルサレム国王[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]はアンジュー家の分家出身で、ヘンリー2世の従弟に当たったが、病気のため子供がおらず、ヘンリー2世に十字軍従軍とエルサレム王位継承を要請した。しかし、ヘンリー2世は人員と資金の提供は承知したが従軍の約束はしなかった。 |
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[[1187年]]の[[ヒッティーンの戦い|ハッティンの戦い]]の後、エルサレムは陥落し、ヨーロッパでは[[第3回十字軍]]が勧誘された。三男の[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]は即座に参加を希望したが、ヘンリー2世とフィリップ2世はお互いに牽制し合い、まず協定を決めることから始めなければならなかった。ヨーロッパ中で有名な{{仮リンク|サラディン税|en|Saladin tithe}}が徴収されたが、ヘンリー2世は結局聖地には向かわなかった。 |
2020年12月5日 (土) 02:25時点における版
ヘンリー2世 Henry II | |
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イングランド王 | |
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在位 | 1154年12月19日 - 1189年7月6日 |
別号 | ノルマンディー公、アンジュー伯、メーヌ伯 |
出生 |
1133年3月5日 フランス王国、 メーヌ伯国、ル・マン |
死去 |
1189年7月6日(56歳没) フランス王国、 アンジュー伯国、シノン城 |
埋葬 | フランス王国、フォントヴロー修道院 |
配偶者 | アリエノール・ダキテーヌ |
子女 |
ウィリアム(ギヨーム) ヘンリー(アンリ) マティルダ(マティルド) リチャード(リシャール) ジェフリー(ジョフロワ) エレノア(エレアノール) ジョーン(ジャンヌ) ジョン(ジャン) |
家名 | プランタジネット家 |
王朝 | プランタジネット朝(アンジュー朝) |
父親 | アンジュー伯ジョフロワ4世 |
母親 | マティルダ |
ヘンリー2世(英語: Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日)は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国の国王(在位:1154年 - 1189年)である。
父はフランス王国の有力貴族のアンジュー伯ジョフロワ4世、母は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后で、皇帝ハインリヒの死後イングランドにもどり、その後、フランスに渡ってジョフロワ4世と再婚したマティルダである。外祖父(母マティルダの父)はイングランド王のヘンリー1世であった。母マティルダはヘンリー1世死後、1141年内の数か月という短期間ながらイギリス初(スコットランドを含めて)の女性君主となった人物である。
ヘンリー2世は頑丈な体躯をもち、猪首であった。また、「大食ではなく造化の間違い」でできたといわれるほどの巨腹であったが、波乱の生涯を送り、精力的に活動した[1]。父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ[1]。
生涯
即位、遺産継承、結婚
1135年、ヘンリー1世は娘のマティルダを次のイングランド王に定めて死去した。この決定にマティルダの従兄のスティーヴン(ヘンリー1世の姉アデラの子)が異を唱えて同年イングランド王に即位すると、両者の間に「無政府時代」と呼ばれる長い内戦が続いた。
アンジュー伯ジョフロワとマティルダの長子として1133年にフランス西部のル・マンに生まれたアンリ(のちのヘンリー2世)は、12歳になるとイングランドに渡って母を助け、1147年にマティルダがアンジューに戻ってからも、1149年以降何度かイングランドに渡ってスティーヴン側と戦った。いずれの戦闘も短期間で、戦況にはさほど影響は与えなかったが、マティルダ派に希望を与えた。
1150年、すでに父ジョフロワが征服していたノルマンディー公位を受け継いだ。さらに1151年、父の死によりアンジュー伯領を受け継いだ。1152年には、フランス王ルイ7世(若年王)の王妃であった11歳年上のアリエノール・ダキテーヌ(エリナー・オブ・アキテーヌ)と結婚し、彼女の相続地アキテーヌ公領の共同統治者となった。
アリエノールの先夫であるルイ7世は、自身の妹婿でスティーヴンの息子のブローニュ伯ウスタシュと結んでアキテーヌ公領に侵入してきたが、アリエノールの夫となったアンリはこれを防いでいる。1153年にウスタシュが急死すると、アンリはスティーヴンと和平協定を結んでスティーヴン死後のイングランド王国の王位継承者となり、1154年にスティーヴンが亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位した[2]。なお、このときから、イングランド君主の称号は "Rex Angliae" (イングランド国王)となっている。
これにより、イングランド王国にアンジュー家によるプランタジネット朝が創始され、ヘンリー2世が領有する地域は、ピレネーからアキテーヌ、ポワトゥーにかけてのフランス南西部、アンジュー、ノルマンディーなどフランス北西部、さらにイングランドの新領土を加えた広大なものとなった[2]。なお、ヘンリー2世の創始した王朝は、本来では「アンジュー朝」と称されるべきであり、事実15世紀までは「アンジュー」と呼ばれていたが、現在では一般に「プランタジネット朝」が用いられる。これは、ヘンリー2世の父ジョフロワがエニシダ(プランタ・ゲニスタ)の小枝を帽子に刺して戦地に赴いたことに由来する[2][注釈 1]。
アンジュー帝国
ヘンリー2世は、長い内戦で疲弊していたイングランドを安定させると、さらなる勢力拡大を図った。北方では、スコットランド王マルカム4世を屈服させ、ノーサンバーランドとカンバーランドを領有した。1174年には、息子たちとの内乱に乗じてノーサンバーランドへ攻め込んできたウィリアム1世(マルカム4世の弟)も破り、ファレーズ協定でスコットランドのイングランドへの臣従などイングランド優位の項目を取り決めた。
西方では、スティーヴン時代に失われたウェールズの支配を復活させた。アイルランドに関しては、アイルランドでケルズ教会会議が開かれた3年後の1155年、イングランド出身の唯一のローマ教皇、ハドリアヌス4世が"Laudabiliter(ラウダビリテル)"と題する教皇勅書を発し、ヘンリー2世に対してアイルランド攻撃を許可し、アイルランド全島の教化を命じたと伝わるが、この勅書の信憑性については疑問も持たれている[注釈 2]。ヘンリー2世はアイルランドへの植民を進め、ローマ教会との交渉でその宗主権を認められ、1171年、「アイルランド卿」の称号を入手した。
フランスではルイ7世との抗争を続けながら、四男のジョフロワ(ジェフリー)の婚姻によりブルターニュ公領を支配下に置き、さらにトゥールーズ伯に対してアキテーヌ公の宗主権を主張して、これを臣従させた。これらは後に「アンジュー帝国」と通称されるようになる。ただし、この「帝国」はヘンリー2世が個人として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、統合性は名実ともに備わっておらず、一円的な領域支配からは遠かった。そのため、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
ヘンリー2世はさらに、次男の若ヘンリーをルイ7世の娘マルグリットと結婚させて、当時世嗣がいなかったフランス王位もねらったが、これはのちにフィリップ2世が誕生したため果たせなかった。また、ヘンリー2世には娘が3人いたが、長女マティルダ(モード)はザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ(獅子公)に、次女エリナーはカスティーリャ王アルフォンソ8世に、三女ジョーンはシチリア王グリエルモ2世に嫁がせ(夫と死別後トゥールーズ伯レーモン6世と再婚)、これらと結んで神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世(赤髭王、バルバロッサ)に対抗した。
こうして、征服王ウィリアム1世によって始められた中世イングランドの基礎づけは、またしてもフランス出身のヘンリー2世によって大成されることとなった[1]。
内政
ヘンリー2世は即位すると諸侯に命じ、内戦時代に築かれた城砦を破棄させ、不当に奪った領土を返還させてヘンリー1世時代の諸権利を回復させた。さらに、戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、巡回裁判官を各地に派遣して地方の行政を監視させ、起訴陪審制を定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。現在に続くイギリスの諸制度の多くは、この時代に整えられたものだといわれている。ヘンリー2世統治のもとで、イギリス独特の議会制度の淵源となる、いわば強制的自治と形容すべき、封建的な諸勢力からの干渉を廃した王権に直属した地方自治制度の大枠が形づくられ、イングランド全土に適用されるコモン・ローが整えられたのである[1][注釈 3]。なお、イングランド王室紋章にライオンの紋章を採用したのはヘンリー2世であるといわれている[注釈 4]
ノルマン・コンクエスト以来、歴代イングランド王は同時にノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめくヨーロッパ大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居住していることが多く、ノルマンディーのルーアンが実質的な首都だった。
大陸に比べ領土が確定し、比較的安定した統治が見込まれるイングランドは、軍事・財政面で大陸経営を支える役割を担っていたが、イングランド貴族の多くは軍役免除金(スクテージ)を支払って大陸での従軍から逃れることを望んだ。これは、のちに独立性の強いジェントリ(郷紳)と呼ばれる階層が発生する原因にもなった。
トマス・ベケット殺害事件
カンタベリー大司教トマス・ベケットは、ヘンリー2世の信頼と愛顧を一身に集めた腹心であり、また、息子のヘンリー(若ヘンリー)の家庭教師を任せた友人でもあった。ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとし、また、政教関係の難しい調整を期待して、かつて大法官としてトマス・ベケットを1162年にイギリスの総司教座につかせたのである[1]。このとき、ベケットは「これで貴下の愛顧もわれわれの友情も終わりだろう。なぜなら、貴下が教会事項について要求されるだろうことは、私の承認できぬことだから」と語ったといわれる[1]。
大司教となったトマス・ベケットは教会の自由を唱え、ことあるごとに王と対立した。特に、裁判制度の整備を進める上でクラレンドン法を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。ベケットは1164年、国外追放に処せられた[4]。
1170年、イングランドに帰国したベケットは、親国王派の司教たちを解任した[4]。これに対し、国王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士は、カンタベリー大聖堂においてヘンリー2世に無断でベケットを暗殺した[1]。人々はベケットを殉教者と見なし、ローマ教会は即座にベケットを列聖した。ヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額ずき懺悔をするとともに、ローマ教皇に降伏しなければならなくなった[1]。この事件は、後述するように、ローマ教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反まで招いたのであった[1]。
十字軍
トマス・ベケット殺害に対する懺悔として、王は十字軍遠征を約束し、当面の資金援助としてテンプル騎士団に騎士200人分の費用を提供した。
1185年、サラディン(サラーフッディーン)の重圧の前に風前のともし火であったエルサレム王国から救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにもやってきた。エルサレム国王ボードゥアン4世はアンジュー家の分家出身で、ヘンリー2世の従弟に当たったが、病気のため子供がおらず、ヘンリー2世に十字軍従軍とエルサレム王位継承を要請した。しかし、ヘンリー2世は人員と資金の提供は承知したが従軍の約束はしなかった。
1187年のハッティンの戦いの後、エルサレムは陥落し、ヨーロッパでは第3回十字軍が勧誘された。三男のリチャードは即座に参加を希望したが、ヘンリー2世とフィリップ2世はお互いに牽制し合い、まず協定を決めることから始めなければならなかった。ヨーロッパ中で有名なサラディン税が徴収されたが、ヘンリー2世は結局聖地には向かわなかった。
息子たちの反乱
ヘンリー2世と王妃アリエノールとの間には、早世したウィリアム(1153年 - 1156年)の他、若ヘンリー(アンリ、1155年生)、リチャード(リシャール、1157年生)、ジェフリー(ジョフロワ、1158年生)、ジョン(ジャン、1167年)の4人の息子がいた。彼ら息子たちのうち、一人として父を裏切らない者はいなかった[1]。
1169年、ヘンリー2世はフランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューとメーヌの地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが、支配できずに逃げ帰っている)[注釈 5]。
1169年のフランスとの協約に従い、ルイ7世の娘婿でもある若ヘンリーは1170年に共同王として戴冠するが実権はなく、父に対して不満を抱いていた。特に自身の教育係だったトマス・ベケット暗殺事件で父に対する不信感はさらに強まり、加えて父のジョンへの偏愛にも怒っていた。当時30代だったヘンリー2世は息子への領地の分配を単に名目上のものと考えていたが、実際は息子たちがルイ7世に臣従したことにより、大陸側の領土の宗主はフランス王であるという事態が生じてしまった。1173年、若ヘンリーは敬愛したベケット同様、父の支配を逃れるべくルイ7世のもとへと走り、ヘンリー2世と不仲になった母アリエノールやリチャード、ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こす。戦いは序盤以降はヘンリー2世が優勢で、翌1174年には両者は和解した。しかし、彼らの母アリエノールだけは以後十数年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いられることになった。
ヘンリー2世は若ヘンリーらを許し、両者のあいだで和解が成立したが、その後も若ヘンリーに君主としての実権がない状況に変化はなかった。フランス王ルイ7世は1180年に死去し、1182年にヘンリー2世はようやく若ヘンリーに君主としての権限を与えるべく、アキテーヌ公リチャードとブルターニュ公ジェフリーに対し、若ヘンリーへの臣従礼をとらせようとした。ところが、ジェフリーは最終的には従ったが、リチャードは若ヘンリーへの臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため若ヘンリーとジェフリーがリチャードを攻撃する騒ぎになった。1183年に若ヘンリーは病死し、リチャードがヘンリー2世の後継者となった。
リチャードは、母アリエノールの気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、ヘンリー2世死後にイングランド王となってからは戦争に明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であった。リチャードは、父からアキテーヌ公位を末弟のジョンに譲るように命じられると、これを拒絶した。一方、ジェフリーは父ヘンリー2世から離れ、ルイ7世の後を継いだフランス王フィリップ2世(尊厳王)のもとへ身を寄せ、1186年、パリでフィリップ2世が開催した馬上槍試合での怪我がもとで急死した。
失意の最期
1188年にヘンリー2世とフィリップ2世の争いのさなかの和平交渉中、リチャードは父の前でフィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)をし、公然と父との敵対を宣言した。翌1189年の戦いの中、ル・マンにたてこもったヘンリー2世はリチャードとフィリップ2世の追跡をかわそうと郊外に火を放つが、炎は市街へと燃え広がり、自身の生まれた街は焦土と化した。すでに健康を害していたヘンリー2世は精神的ショックに耐えられず、シノン城に撤退し、さらに寝返った者の名簿の先頭に最愛の息子ジョンの名があるのを見て最後の気力を失い、まもなく亡くなった。56歳没。
最期を看取ったのは、忠臣ウィリアム・マーシャルなど供回りの者と、息子の中では庶子で僧籍にあったジョフロワ(1152年以前 - 1212年)だけであった。遺体はシノン近郊のフォントヴロー修道院に安置された。なお、父ヘンリーの最期を看取ったジョフロワは、1189年、イングランド王となったリチャード1世によってヨーク大司教に任ぜられた。
人物
ヘンリー2世は相当な学者でもあり、先祖譲りの激情家だった[1]。また、その精力的なことは驚嘆に値するもので、その日常にはおよそ休息というものがなく、戦争がないときには日の出から日没まで狩猟をおこなった、また、帰館しても夕食以外は座っていることすらできなかったといわれている[1][注釈 6]。
子女
- ウィリアム(1153年 - 1156年) - ポワチエ伯
- ヘンリー(1155年 - 1183年) - イングランド王(父と共治)
- マチルダ(1156年 - 1189年) - ザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ獅子公妃
- リチャード(1157年 - 1199年) - イングランド王
- ジェフリー(1158年 - 1186年) - ブルターニュ公ジョフロワ2世
- エレノア(1162年 - 1215年) - カスティーリャ王アルフォンソ8世妃
- ジョーン(1165年 - 1199年) - シチリア王グリエルモ2世妃、後にトゥールーズ伯レーモン6世妃
- ジョン(1167年 - 1216年) - イングランド王
- 他に、庶子としてジョフロワ(1152年以前 - 1212年) - ヨーク大司教
関連作品
- 『ベケット』(1964年、アメリカ・イギリス映画) - ピーター・オトゥールがヘンリー2世を、リチャード・バートンがトマス・ベケットを演じている。
- 『冬のライオン』(1968年、イギリス映画) - ピーター・オトゥールがヘンリー2世を、キャサリン・ヘプバーンがアリエノール・ダキテーヌを演じている。
脚注
注釈
- ^ プランタジネットの家名を用いたのは、実際にはヨーク家のヨーク公リチャードが最初である。加藤(2001)p.78
- ^ ハドリアヌス4世は、ヘンリー2世が弟のウィリアムに封土を与えるためにアイルランド侵攻を許可したともいわれる。マックスウェル・スチュアート(1999)p.125
- ^ 国家財政や地方の会計報告が規則的に連続して残されるようになるのは、ヘンリー2世の治世初めになってからである[3]。
- ^ リチャード1世がそれまで1頭だったライオンを3頭に増やしたといわれている。
- ^ 「欠地王」「無地王」のあだ名はこのことに由来する。「失地王」の訳語は、後年のローマ教皇やフランス王との紛争によって起こった結果と誤解されたことから生じた誤訳である。堀米(1974)p.241
- ^ 堀米庸三は、子息リチャード獅子心王とジョン欠地王はともかくとして、ヘンリー2世自身は専制的ではあったものの、長い目でみればイングランドの人びとの幸福の基礎を築いた君主のなかの一人といってよいと評価している。堀米(1974)p.241
出典
参考文献
- 堀米庸三『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』中央公論社〈中公文庫〉、1974年12月。
- P.G.マックスウェル・スチュアート 著、月森左知・菅沼裕乃(訳) 訳、高橋正男(監修) 編『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年12月。ISBN 4-422-21513-2。
- J.M.ロバーツ(en) 著、月森左知・高橋宏 訳「神裁政治とインノケンティウス3世」、池上俊一(日本語版監修) 編『世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ』創元社〈図説世界の歴史〉、2003年5月。ISBN 4-422-20245-6。
- 加藤雅彦「第7章 イギリス」『図説ヨーロッパの王朝』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2005年2月。ISBN 4-309-76059-7。
関連項目
外部リンク
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