「ロバート・ステュアート (初代ロンドンデリー侯爵)」の版間の差分
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1766年6月3日、サラ・フランシス・シーモア=コンウェイ({{lang|en|Sarah Frances Seymour-Conway}}、1747年9月27日 – 1770年7月18日、[[フランシス・シーモア=コンウェイ (初代ハートフォード侯爵)|初代ハートフォード伯爵フランシス・シーモア=コンウェイ]](後の初代ハートフォード侯爵)の娘)と結婚<ref name="Cokayne" />、1男をもうけた<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Londonderry, Marquess of (I, 1816)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/londonderry1816.htm|date=20 August 2012|access-date=14 July 2020}}</ref>。 |
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*[[ロバート・ステュアート (第2代ロンドンデリー侯爵)|ロバート]](1769年 – 1822年) - 第2代ロンドンデリー侯爵。外務大臣。一般的には「カースルレー子爵」の儀礼称号で知られる |
*[[ロバート・ステュアート (第2代ロンドンデリー侯爵)|ロバート]](1769年 – 1822年) - 第2代ロンドンデリー侯爵。外務大臣。一般的には「カースルレー子爵」の儀礼称号で知られる |
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2020年12月4日 (金) 06:20時点における版
初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアート(英語: Robert Stewart, 1st Marquess of Londonderry PC (Ire)、1739年9月27日 – 1821年4月8日)は、アイルランド王国出身の政治家、貴族。
生涯
アレクサンダー・ステュアート(1781年没)とメアリー・コーワン(Mary Cowan、ジョン・コーワンの娘)の息子として、1739年9月27日に生まれた[1]。1781年4月2日に父の遺産を継承した[1]。
1771年から1783年までダウン選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[2]。1782年、アイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[3]。
1789年9月20日にアイルランド貴族であるロンドンデリー男爵に叙されたのを皮切りに[4]、1795年10月1日にカースルレー子爵に[5]、1796年8月8日にロンドンデリー伯爵に[6]、1816年1月18日にロンドンデリー侯爵に昇叙された[1]。また、1801年のグレートブリテン及びアイルランド連合王国成立に伴いアイルランド貴族代表議員に選出され、1821年まで務めた[1]。
1801年から1821年までダウン県首席治安判事を、1803年から1821年までロンドンデリー県首席治安判事を務めた[3]。
1821年4月8日にマウント・ステュアートで死去、息子ロバートが爵位を継承した[1]。
家族
1766年6月3日、サラ・フランシス・シーモア=コンウェイ(Sarah Frances Seymour-Conway、1747年9月27日 – 1770年7月18日、初代ハートフォード伯爵フランシス・シーモア=コンウェイ(後の初代ハートフォード侯爵)の娘)と結婚[1]、1男をもうけた[3]。
- ロバート(1769年 – 1822年) - 第2代ロンドンデリー侯爵。外務大臣。一般的には「カースルレー子爵」の儀礼称号で知られる
1775年6月7日、フランシス・プラット(Frances Pratt、1751年頃 – 1833年1月18日、初代カムデン伯爵チャールズ・プラットの娘)と再婚[1]、1男7女をもうけた[3]。
- フランシス・アン(1777年6月24日 – 1810年2月9日) - 1799年3月10日、チャールズ・フィッツロイ卿(1764年 – 1820年、第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイの息子)と結婚、子供あり
- チャールズ・ウィリアム(1778年 – 1854年) - 第3代ロンドンデリー侯爵
- キャロライン(1865年8月10日没) - 1801年12月23日、トマス・ウッド(1777年 – 1860年、トマス・ウッドの息子)と結婚、子供あり
- ジョージアナ(1804年11月17日没) - 1803年7月13日、初代ガルヴァー男爵ジョージ・カニングと結婚
- セリナ(Selina、1871年2月5日没) - 1814年2月22日、デイヴィッド・カー(David Kerr、1844年12月30日没)と結婚、子供あり
- マティルダ(Matilda、1842年10月3日没) - 1815年9月14日、エドワード・マイケル・ウォード(1789年 – 1832年、ロバート・ウォードの息子)と結婚、子供あり
- エミリー・ジェーン(1865年10月18日没) - 1814年6月29日、ジョン・ジェームズ(John James、1818年6月4日没、初代準男爵サー・ウォルター・ジェームズの息子)と結婚。1821年12月10日、初代ハーディング子爵ヘンリー・ハーディングと再婚、子供あり
- オクタヴィア(Octavia、1792年10月14日 – 1819年3月5日) - 1813年12月11日、初代エレンバラ伯爵エドワード・ロウと結婚
出典
- ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward, ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 131.
- ^ "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800". Ulster Historical Foundation (英語). 2020年7月14日閲覧。
- ^ a b c d "Londonderry, Marquess of (I, 1816)". Cracroft's Peerage (英語). 20 August 2012. 2020年7月14日閲覧。
- ^ "No. 13131". The London Gazette (英語). 9 September 1789. p. 597.
- ^ "No. 13821". The London Gazette (英語). 10 October 1795. p. 1052.
- ^ "No. 13922". The London Gazette (英語). 10 August 1796. p. 781.
アイルランド議会 | ||
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先代 ロジャー・ホール バーナード・ウォード |
庶民院議員(ダウン選挙区選出) 1771年 – 1783年 同職:ロジャー・ホール 1771年 – 1776年 キルワーリン子爵 1776年 – 1783年 |
次代 キルワーリン子爵 エドワード・ウォード |
名誉職 | ||
先代 ダウンシャー侯爵 |
ダウン県首席治安判事 1801年 – 1821年 |
次代 第2代ロンドンデリー侯爵 |
不明 | ロンドンデリー県首席治安判事 1803年 – 1821年 | |
アイルランドの爵位 | ||
新設 | ロンドンデリー侯爵 1816年 – 1821年 |
次代 ロバート・ステュアート |
ロンドンデリー伯爵 1796年 – 1821年 | ||
カースルレー子爵 1795年 – 1821年 | ||
ロンドンデリー男爵 1789年 – 1821年 |