エドワード・ロウ (初代エレンボロー伯爵)
初代エレンボロー伯爵 エドワード・ロウ Edward Law 1st Earl of Ellenborough | |
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生年月日 | 1790年9月8日 |
没年月日 | 1871年12月22日(81歳没) |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代エレンボロー伯爵、第2代エレンボロー男爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC) |
在任期間 | 1842年2月28日 - 1844年6月 |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第1次ウェリントン公爵内閣 |
在任期間 | 1827年7月16日 - 1829年6月10日 |
内閣 |
第1次ウェリントン公爵内閣 第1次ピール内閣 第2次ピール内閣 第2次ダービー伯爵内閣 |
在任期間 |
1828年9月24日 - 1830年12月1日 1834年12月18日 - 1835年4月8日 1841年9月4日 - 1841年10月23日 1858年3月6日 - 1858年6月5日 |
内閣 | 第2次ピール内閣 |
在任期間 | 1846年1月 - 1846年7月 |
初代エレンボロー伯爵エドワード・ロウ(英: Edward Law, 1st Earl of Ellenborough、1790年9月8日 - 1871年12月22日)は、イギリスの政治家、貴族。
1842年から1844年にかけてインド総督を務め、シンドへの軍事侵攻と併合を行った。
経歴
[編集]1790年9月8日、初代エレンボロー男爵エドワード・ロウとその妻アンの長男として生まれる[1][2]。
イートン校を経てケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ進学。1809年にマスター・オブ・アーツの学位を取得[1][2][3]。
1813年から1818年にかけてミチェル選挙区選出の庶民院議員を務めたが、1818年12月13日には父からエレンボロー男爵の爵位を継承し、貴族院議員に転じる[2][3]。貴族院内ではトラブルメーカーとして嫌われていたという[4]。
1828年に初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー内閣が成立すると、王璽尚書として入閣し、さらにインド庁長官に就任した[4]。
1834年12月から1835年4月にかけての第一次ピール内閣でもインド庁長官として入閣[1][4]。
1841年9月に第二次ピール内閣が成立すると三度インド庁長官になるが、その翌月には初代オークランド伯爵ジョージ・イーデンの後任としてインド総督となることがイギリス東インド会社役員会のほぼ満場一致で決まった[1][4]。11月にはイギリスを出航し、翌年2月にインドに着任した[5]。
第一次アフガン戦争で全滅した英印軍を立て直し、カブールを再占領して捕虜を解放することでイギリスの威光を知らしめたうえでアフガンから撤収した。以降はアフガンに対して不介入方針を取った[5]。代わってシンドに狙いを定め、「アフガン戦争の際にシンドのアミールはイギリスに協力的でなかった」と言いがかりをつけてシンド軍事侵攻を実施した。この戦争はあまりにも大義が乏しすぎて側近からも反対されたが、エレンボロー卿は一切聞き入れなかった。そしてアミール軍を撃破してシンド併合に成功した[6]。
しかし会社役員会からその好戦的な性格を危険視されるようになり、1844年にエレンボロー卿がグワリオール藩王国への介入を開始し始めたのを機に役員会はインド庁の反対を押し切って彼を本国に召還した。そのため総督在職は2年だけに終わった。帰国後、イギリス議会から感謝状を出された。また恩賞として1844年10月にエレンボロー伯爵位を与えられた[7]。
1846年1月から7月にかけては第2次ピール内閣の海軍大臣を務めた[2][1]。また1858年3月から6月にかけては第2次ダービー伯爵内閣でインド庁長官を務めた[2][1]。
1871年12月22日に死去した。一人息子に先立たれていたため、エレンボロー伯爵位とソウザン子爵位は消滅した[2]。エレンボロー男爵位は甥のチャールズ・トーリー=ロウが継承した[1]。
栄典
[編集]爵位
[編集]- 1818年12月13日、第2代エレンボロー男爵(1802年創設連合王国貴族爵位)[2]
- 1844年10月22日、初代エレンボロー伯爵(連合王国貴族爵位)[2]
- 1844年10月22日、初代ソウザン子爵(連合王国貴族爵位)[2]
勲章
[編集]名誉職その他
[編集]家族
[編集]1813年に初代ロンドンデリー侯爵ロバート・スチュワートの娘オクタヴィアと結婚したが、1819年に死別した。彼女との間に子供は無かった[2]。
1824年に海軍将校ヘンリー・ディグビーの娘ジェーンと結婚し、彼女との間に長男アーサーを儲けたが、この長男は夭折している[2]。ジェーンがオーストリア外交官フェリックス・シュヴァルツェンベルク公爵と浮気したため、1830年に離婚した[2][7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g Hamilton, John Andrew (1892). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 32. London: Smith, Elder & Co. pp. 221–227. . In
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Lundy, Darryl. “Edward Law, 1st and last Earl of Ellenborough” (英語). thepeerage.com. 2014年12月11日閲覧。
- ^ a b c d "Law, the Hon. Edward (LW807E)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b c d 浜渦(1999) p.96
- ^ a b 浜渦(1999) p.97
- ^ 浜渦(1999) p.97-98
- ^ a b 浜渦(1999) p.98
参考文献
[編集]- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年(平成11年)。ISBN 978-4120029370。
- 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
[編集]- エドワード・ロウの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Edward Law
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジョージ・ホバート ジョン・ブルース |
ミチェル選挙区選出庶民院議員 1813年 – 1818年 同一選挙区同時当選者 ジョン・ブルース(1814年8月まで) チャールズ・トレローニー=ブレルトン (1814年8月-12月) ビニング卿 (1814年12月–1818年) |
次代 サー・ジョージ・スタントン準男爵 ウィリアム・レーク |
公職 | ||
先代 第6代カーライル伯爵 |
王璽尚書 1828年 – 1829年 |
次代 第2代ロスリン伯爵 |
先代 第2代メルヴィル子爵 |
インド庁長官 1828年 – 1830年 |
次代 チャールズ・グラント |
先代 チャールズ・グラント |
インド庁長官 1834年 – 1835年 |
次代 サー・ジョン・ホブハウス |
先代 サー・ジョン・ホブハウス |
インド庁長官 1841年 |
次代 第2代フィッツジェラルド=ヴィジー男爵 |
先代 第9代ハディントン伯爵 |
海軍大臣 1846年 |
次代 初代オークランド伯爵 |
先代 ロバート・ヴァーノン・スミス |
インド庁長官 1858年 |
次代 スタンリー卿 |
官職 | ||
先代 初代オークランド伯爵 |
インド総督 1842年 – 1844年 |
次代 ウィリアム・ウィルバーフォース・バード (代理) |
イギリスの爵位 | ||
新設 | 初代エレンボロー伯爵 1844年 – 1871年 |
廃絶 |
先代 エドワード・ロウ |
第2代エレンボロー男爵 1818年 – 1871年 |
次代 チャールズ・トーリー=ロウ |