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[[File:Powis_castle_terraces.JPG|thumb|left|230px|一族のかつての邸宅である{{仮リンク|ポウィス城|en|Powis_Castle|label=}}。現在は、その末裔である[[ポウィス伯爵]]家の居城。]][[ファイル:Williasmherbert.jpg|代替文=|サムネイル|259x259px|初代侯爵[[ウィリアム・ハーバート (初代ポウィス侯爵)|ウィリアム・ハーバート]]。[[ジャコバイト]]として活動した。]] |
[[File:Powis_castle_terraces.JPG|thumb|left|230px|一族のかつての邸宅である{{仮リンク|ポウィス城|en|Powis_Castle|label=}}。現在は、その末裔である[[ポウィス伯爵]]家の居城。]][[ファイル:Williasmherbert.jpg|代替文=|サムネイル|259x259px|初代侯爵[[ウィリアム・ハーバート (初代ポウィス侯爵)|ウィリアム・ハーバート]]。[[ジャコバイト]]として活動した。]] |
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ポウィス侯爵家の祖{{仮リンク|エドワード・ハーバート_(1595年没)|en|Edward_Herbert_(died_1595)|label=エドワード・ハーバート}}<small>(1542?-1595)</small>はペンブルック伯爵家の次男坊として生まれて、[[オールド・セーラム|オールド・セイラム選挙区]]選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた。<ref>{{Cite web|title=Pembroke, Earl of (E, 1551)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
ポウィス侯爵家の祖{{仮リンク|エドワード・ハーバート_(1595年没)|en|Edward_Herbert_(died_1595)|label=エドワード・ハーバート}}<small>(1542?-1595)</small>はペンブルック伯爵家の次男坊として生まれて、[[オールド・セーラム|オールド・セイラム選挙区]]選出の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた。<ref>{{Cite web|title=Pembroke, Earl of (E, 1551)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/pembroke1551.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|title=HERBERT, Edward II (c.1542-95), of Wilton, Wilts.; later of Powis Castle, Mont. {{!}} History of Parliament Online|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1558-1603/member/herbert-edward-ii-1542-95|website=www.historyofparliamentonline.org|accessdate=2020-01-19}}</ref> |
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その子{{仮リンク|ウィリアム・ハーバート_(初代ポーイス男爵)|en|William_Herbert,_1st_Baron_Powis|label=ウィリアム・ハーバート}}<small>(1573-1655)</small>は父同様に庶民院議員を務めたのち、[[1629年]][[4月2日]]に[[イングランド貴族]]として'''モンゴメリー州ポウィスのポウィス男爵'''<small>(Baron Powis, of Powis in the County of Montgomery)</small>に叙された。<ref name=":0">{{Cite web|title=Powis, Baron (E, 1629 - 1748)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
その子{{仮リンク|ウィリアム・ハーバート_(初代ポーイス男爵)|en|William_Herbert,_1st_Baron_Powis|label=ウィリアム・ハーバート}}<small>(1573-1655)</small>は父同様に庶民院議員を務めたのち、[[1629年]][[4月2日]]に[[イングランド貴族]]として'''モンゴメリー州ポウィスのポウィス男爵'''<small>(Baron Powis, of Powis in the County of Montgomery)</small>に叙された。<ref name=":0">{{Cite web|title=Powis, Baron (E, 1629 - 1748)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/powis1629.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-01-19}}</ref><ref>George Edward Cokayne. Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, Extant, Extinct, Or Dormant , Volume 6. G. Bell & sons, 1895. pg 295.</ref>初代伯ののちは、その息子パーシーが爵位を継承した。 |
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2代男爵パーシー<small>(1598-1667)</small>は、襲爵前の[[1622年]][[11月16日]]にイングランド準男爵位の'''(モンゴメリー州レッドカッスルの)準男爵'''<small>(Baronet, of Redcastle in the County of Montgomery)</small>に叙されている。<ref name=":0" /> |
2代男爵パーシー<small>(1598-1667)</small>は、襲爵前の[[1622年]][[11月16日]]にイングランド準男爵位の'''(モンゴメリー州レッドカッスルの)準男爵'''<small>(Baronet, of Redcastle in the County of Montgomery)</small>に叙されている。<ref name=":0" /> |
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3代男爵[[ウィリアム・ハーバート (初代ポウィス侯爵)|ウィリアム]]<small>(1626-1696)</small>は国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の近臣として活躍し、[[1674年]][[4月4日]]に'''モンゴメリー州ポウィスのポウィス伯爵'''<small>(Earl of Powis, of Powis in the County of Montgomery)</small>に陛爵した。彼はさらに[[1687年]][[3月24日]]に'''ポウィス侯爵'''<small>(Marquess of Powis)</small>に昇叙するとともに、併せて'''モンゴメリータウンのモンゴメリー子爵'''<small>(Viscount Montgomery, of the Town of Montgomery)</small>を授けられている<ref name=":1">{{Cite web|title=Powis, Marquess of (E, 1687 - 1748)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
3代男爵[[ウィリアム・ハーバート (初代ポウィス侯爵)|ウィリアム]]<small>(1626-1696)</small>は国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の近臣として活躍し、[[1674年]][[4月4日]]に'''モンゴメリー州ポウィスのポウィス伯爵'''<small>(Earl of Powis, of Powis in the County of Montgomery)</small>に陛爵した。彼はさらに[[1687年]][[3月24日]]に'''ポウィス侯爵'''<small>(Marquess of Powis)</small>に昇叙するとともに、併せて'''モンゴメリータウンのモンゴメリー子爵'''<small>(Viscount Montgomery, of the Town of Montgomery)</small>を授けられている<ref name=":1">{{Cite web|title=Powis, Marquess of (E, 1687 - 1748)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/powis1687.htm#|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-01-19}}</ref><ref name=":2">{{cite DNB|wstitle=Herbert,_William_(1617-1696)|first=Gordon|last=Goodwin|authorlink=Author:Gordon_Goodwin|volume=26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/2224/page/2|title=No.2224|accessdate=2020年1月20日|publisher=The Gazette 10 March 1686}}</ref>これら一連の爵位はすべてイングランド貴族爵位である。<ref name=":0" /><ref name=":1" />初代侯ウィリアムは[[名誉革命]]が起こると、廃位されたジェームズ2世に従った。彼は大僭称者[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェイムズ・ステュアート]]の[[フランス]]亡命を成功させた功から、{{仮リンク|ジャコバイト貴族|en|Jacobite_peerage|label=ジャコバイト貴族爵位}}{{#tag:ref|以下、存在性に乏しいジャコバイト爵位に関しては、括弧書きの強調なしで表記する。|group="註釈"}}の「ポウィス公爵」及び「モンゴメリー侯爵」に叙爵された。<ref name=":2" /><ref name="EB19112" />ただし政府からは[[1689年]]7月に[[私権剥奪]]を受けており、父祖の地所や爵位は没官となった。<ref name=":2" /> |
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なお、その子ウィリアム<small>(1660-1745)</small>も父の動向によって[[ロンドン塔]]に収監されたのち、[[アウトロー|法外者]]宣告及び追放に処された。<ref name=":1" /><ref name="DNB">{{cite DNB|wstitle=Herbert, William (d.1745)|volume=26}}</ref>彼は続く[[1715年ジャコバイト蜂起]]に際して再逮捕されたが、後年は所領の一部や居城たる{{仮リンク|ポウィス城|en|Powis_Castle}}、及び父のポウィス侯爵位の回復に成功した。<ref name="DNB" />彼ののちは、その息子ウィリアムが爵位を相続した。<ref name=":1" /><ref name="EB19112" /> |
なお、その子ウィリアム<small>(1660-1745)</small>も父の動向によって[[ロンドン塔]]に収監されたのち、[[アウトロー|法外者]]宣告及び追放に処された。<ref name=":1" /><ref name="DNB">{{cite DNB|wstitle=Herbert, William (d.1745)|volume=26}}</ref>彼は続く[[1715年ジャコバイト蜂起]]に際して再逮捕されたが、後年は所領の一部や居城たる{{仮リンク|ポウィス城|en|Powis_Castle}}、及び父のポウィス侯爵位の回復に成功した。<ref name="DNB" />彼ののちは、その息子ウィリアムが爵位を相続した。<ref name=":1" /><ref name="EB19112" /> |
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しかし3代侯爵ウィリアム<small>(1698-1748)</small>が子のないまま[[1748年]]に死去すると、すべての爵位と準男爵位は廃絶した。<ref name=":1" /><ref name="EB19112">{{Cite EB1911|wstitle=Powis,_Earls_and_Marquesses_of|volume=22|pages=238|label=EARL and MARQUESS OF POWIS}}</ref>なお、一族の所領や居城は遠縁のヘンリー・ハーバート<small>(1703-1772)</small>に継承されているが、これが第2期の[[ポウィス伯爵]]叙爵へとつながる<ref>{{Cite web|title=Powis, Earl of (GB, 1748 - 1801)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
しかし3代侯爵ウィリアム<small>(1698-1748)</small>が子のないまま[[1748年]]に死去すると、すべての爵位と準男爵位は廃絶した。<ref name=":1" /><ref name="EB19112">{{Cite EB1911|wstitle=Powis,_Earls_and_Marquesses_of|volume=22|pages=238|label=EARL and MARQUESS OF POWIS}}</ref>なお、一族の所領や居城は遠縁のヘンリー・ハーバート<small>(1703-1772)</small>に継承されているが、これが第2期の[[ポウィス伯爵]]叙爵へとつながる<ref>{{Cite web|title=Powis, Earl of (GB, 1748 - 1801)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/powis1748.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-02-09}}</ref>。(''→その後の歴史は、[[ポウィス伯爵]]を参照'') |
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== 一覧 == |
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2020年12月4日 (金) 06:13時点における版
ポウィス侯爵 | |
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Arms:Per pale Azure and Gules three Lions rampant Argent, a Crescent for difference.Crest:A Wyvern wings elevated Vert holding in the mouth a Sinister Hand couped at the wrist Gules and charged on the shoulder with a Crescent for difference.Supporters:Dexter: A Panther rampant guardant Argent spotted of various colours fire issuing out of the mouth and ears ducally gorged Azure; Sinister: A Lion Argent ducally gorged Gules; each supporter charged on the shoulder with a Crescent for difference
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創設時期 | 1687年3月24日 |
創設者 | ジェームズ2世 |
貴族 | イングランド貴族 |
初代 | 第3代ポウィス男爵ウィリアム・ハーバート |
最終保有者 | 3代侯爵ウィリアム・ハーバート |
相続資格 | 初代侯爵の嫡出直系男子 |
付随称号 | ポウィス伯爵 モンゴメリー子爵 ポウィス男爵 (レッドカスルの)準男爵 |
現況 | 廃絶 |
断絶時期 | 1748年3月8日 |
モットー | Ung Je Serviray |
ポウィス侯爵(英:Marquess of Powis)は、かつて存在したイギリス(ウェールズ)の侯爵位。イングランド貴族爵位。第3代ポウィス男爵ウィリアム・ハーバートが1687年に叙されたが、1748年に廃絶した。ペンブルック伯爵家の分家筋であった。
本項では、前身となったポウィス男爵についても触れる。
歴史
ポウィス侯爵家の祖エドワード・ハーバート(1542?-1595)はペンブルック伯爵家の次男坊として生まれて、オールド・セイラム選挙区選出の庶民院議員を務めた。[1][2]
その子ウィリアム・ハーバート(1573-1655)は父同様に庶民院議員を務めたのち、1629年4月2日にイングランド貴族としてモンゴメリー州ポウィスのポウィス男爵(Baron Powis, of Powis in the County of Montgomery)に叙された。[3][4]初代伯ののちは、その息子パーシーが爵位を継承した。
2代男爵パーシー(1598-1667)は、襲爵前の1622年11月16日にイングランド準男爵位の(モンゴメリー州レッドカッスルの)準男爵(Baronet, of Redcastle in the County of Montgomery)に叙されている。[3]
3代男爵ウィリアム(1626-1696)は国王ジェームズ2世の近臣として活躍し、1674年4月4日にモンゴメリー州ポウィスのポウィス伯爵(Earl of Powis, of Powis in the County of Montgomery)に陛爵した。彼はさらに1687年3月24日にポウィス侯爵(Marquess of Powis)に昇叙するとともに、併せてモンゴメリータウンのモンゴメリー子爵(Viscount Montgomery, of the Town of Montgomery)を授けられている[5][6][7]これら一連の爵位はすべてイングランド貴族爵位である。[3][5]初代侯ウィリアムは名誉革命が起こると、廃位されたジェームズ2世に従った。彼は大僭称者ジェイムズ・ステュアートのフランス亡命を成功させた功から、ジャコバイト貴族爵位[註釈 1]の「ポウィス公爵」及び「モンゴメリー侯爵」に叙爵された。[6][8]ただし政府からは1689年7月に私権剥奪を受けており、父祖の地所や爵位は没官となった。[6]
なお、その子ウィリアム(1660-1745)も父の動向によってロンドン塔に収監されたのち、法外者宣告及び追放に処された。[5][9]彼は続く1715年ジャコバイト蜂起に際して再逮捕されたが、後年は所領の一部や居城たるポウィス城、及び父のポウィス侯爵位の回復に成功した。[9]彼ののちは、その息子ウィリアムが爵位を相続した。[5][8]
しかし3代侯爵ウィリアム(1698-1748)が子のないまま1748年に死去すると、すべての爵位と準男爵位は廃絶した。[5][8]なお、一族の所領や居城は遠縁のヘンリー・ハーバート(1703-1772)に継承されているが、これが第2期のポウィス伯爵叙爵へとつながる[10]。(→その後の歴史は、ポウィス伯爵を参照)
一覧
ポウィス男爵(1629年)
- 初代ポウィス男爵ウィリアム・ハーバート (c. 1573–1656)
- 第2代ポウィス男爵パーシー・ハーバート(c. 1600–1667) (1622年に(レッドカスルの)準男爵叙爵)
- 第3代ポウィス男爵ウィリアム・ハーバート (1626–1696) (1674年にポウィス伯爵、1687年にポウィス侯爵叙爵)
ポウィス侯爵(1687年)
- 初代ポウィス侯爵ウィリアム・ハーバート (1626-1696)
- 第2代ポウィス侯爵ウィリアム・ハーバート (1660-1745)
- 第3代ポウィス侯爵ウィリアム・ハーバート (1698-1748) (1748年にポウィス侯爵・男爵位廃絶)
脚注
註釈
- ^ 以下、存在性に乏しいジャコバイト爵位に関しては、括弧書きの強調なしで表記する。
出典
- ^ “Pembroke, Earl of (E, 1551)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月19日閲覧。
- ^ “HERBERT, Edward II (c.1542-95), of Wilton, Wilts.; later of Powis Castle, Mont. | History of Parliament Online”. www.historyofparliamentonline.org. 2020年1月19日閲覧。
- ^ a b c “Powis, Baron (E, 1629 - 1748)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月19日閲覧。
- ^ George Edward Cokayne. Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, Extant, Extinct, Or Dormant , Volume 6. G. Bell & sons, 1895. pg 295.
- ^ a b c d e “Powis, Marquess of (E, 1687 - 1748)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年1月19日閲覧。
- ^ a b c Goodwin, Gordon (1891). . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 26. London: Smith, Elder & Co.
- ^ “No.2224”. The Gazette 10 March 1686. 2020年1月20日閲覧。
- ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 238.
{{cite encyclopedia}}
: 不明な引数|label=
は無視されます。 (説明) - ^ a b Stephen, Leslie; Lee, Sidney, eds. (1891). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 26. London: Smith, Elder & Co.
- ^ “Powis, Earl of (GB, 1748 - 1801)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年2月9日閲覧。