「ウィリアム・ダグラス (第4代クイーンズベリー公爵)」の版間の差分
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1788年に[[ジョージ4世 (イギリス王)|王太子ジョージ]]が摂政に就任する権利を主張すると、ダグラス家でただ1人王太子を支持したが、ジョージ3世が回復したため1789年に寝室侍従から解任された<ref name="Cokayne" />。その後、1794年3月17日から1797年11月17日まで{{仮リンク|ダンフリーズ統監|en|Lord Lieutenant of Dumfries}}を務めた<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.history.ac.uk/publications/office/lieutenants-scot|title=Lieutenants and Lord-Lieutenants of Counties (Scotland) 1794-|date=September 2005|last=Sainty|first=John Christopher|author-link=ジョン・セインティ (公務員)|website=Institute of Historical Research|access-date=30 November 2019|url-status=dead|archive-date=17 July 2019|archive-url=http://web.archive.org/web/20190717155407/https://www.history.ac.uk/publications/office/lieutenants-scot}}</ref>。 |
1788年に[[ジョージ4世 (イギリス王)|王太子ジョージ]]が摂政に就任する権利を主張すると、ダグラス家でただ1人王太子を支持したが、ジョージ3世が回復したため1789年に寝室侍従から解任された<ref name="Cokayne" />。その後、1794年3月17日から1797年11月17日まで{{仮リンク|ダンフリーズ統監|en|Lord Lieutenant of Dumfries}}を務めた<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://www.history.ac.uk/publications/office/lieutenants-scot|title=Lieutenants and Lord-Lieutenants of Counties (Scotland) 1794-|date=September 2005|last=Sainty|first=John Christopher|author-link=ジョン・セインティ (公務員)|website=Institute of Historical Research|access-date=30 November 2019|url-status=dead|archive-date=17 July 2019|archive-url=http://web.archive.org/web/20190717155407/https://www.history.ac.uk/publications/office/lieutenants-scot}}</ref>。 |
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1810年12月23日に生涯未婚のまま[[ロンドン]]の自宅で死去、31日に埋葬された<ref name="Cokayne" />。エイムズベリーのダグラス男爵とラグラン伯爵は後継者がおらず廃絶<ref name="Cokayne" />、マーチ伯爵は[[ウィリアム・ダグラス (初代マーチ伯爵)|初代マーチ伯爵ウィリアム・ダグラス]]の娘アン(1700年没)の男系の玄孫にあたる{{仮リンク|フランシス・ダグラス (第8代ウィームズ伯爵)|en|Francis Douglas, 8th Earl of Wemyss|label=第8代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリス}}が<ref>{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
1810年12月23日に生涯未婚のまま[[ロンドン]]の自宅で死去、31日に埋葬された<ref name="Cokayne" />。エイムズベリーのダグラス男爵とラグラン伯爵は後継者がおらず廃絶<ref name="Cokayne" />、マーチ伯爵は[[ウィリアム・ダグラス (初代マーチ伯爵)|初代マーチ伯爵ウィリアム・ダグラス]]の娘アン(1700年没)の男系の玄孫にあたる{{仮リンク|フランシス・ダグラス (第8代ウィームズ伯爵)|en|Francis Douglas, 8th Earl of Wemyss|label=第8代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリス}}が<ref>{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/wemyss1633.htm|title=Wemyss, Earl of (S, 1633)|date=8 July 2019|accessdate=30 November 2019}}</ref>、クイーンズベリー公爵は父方の祖父[[ウィリアム・ダグラス (初代マーチ伯爵)|ウィリアム]]の兄[[ジェイムズ・ダグラス (第2代クイーンズベリー公爵)|ジェイムズ]]の娘ジェーンの孫にあたる[[ヘンリー・スコット (第3代バクルー公爵)|第3代バクルー公爵ヘンリー・スコット]]が<ref>{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/queensberry1683.htm|title=Queensberry, Duke of (S, 1683/4)|date=20 April 2019|accessdate=30 November 2019}}</ref>、クイーンズベリー侯爵は{{仮リンク|ウィリアム・ダグラス (初代クイーンズベリー伯爵)|en|William Douglas, 1st Earl of Queensberry|label=初代クイーンズベリー伯爵ウィリアム・ダグラス}}にたどっての分流である{{仮リンク|チャールズ・ダグラス (第6代クイーンズベリー侯爵)|en|Charles Douglas, 6th Marquess of Queensberry|label=第5代準男爵サー・チャールズ・ダグラス}}が継承した<ref>{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/queensberry1633.htm|title=Queensberry, Earl of (S, 1633)|accessdate=30 November 2019}}</ref>。また、100万ポンド以上の遺産を残しており、遺言状に基づき多くの人々の間で分割相続された<ref name="DNB" />。 |
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== 私生活 == |
== 私生活 == |
2020年12月4日 (金) 06:11時点における版
ウィリアム・ダグラス William Douglas | |
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第4代クイーンズベリー公 | |
ジョン・オーピーによる肖像画、1780年代作。 | |
在位 | 1778年10月22日 - 1810年12月23日 |
出生 |
1724年12月16日 グレートブリテン王国、ピーブルス |
死去 |
1810年12月23日(86歳没) イギリス、ロンドン |
埋葬 |
1810年12月31日 イギリス、ロンドン、ピカデリー、セント・ジェームズ教会 |
家名 | ダグラス家 |
父親 | 第2代マーチ伯ウィリアム・ダグラス |
母親 | 第2代ラグラン女伯アン・ハミルトン |
第4代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラス(英語: William Douglas, 4th Duke of Queensberry KT、1724年12月16日 – 1810年12月23日)は、スコットランド貴族。1731年までピーブルズ子爵の儀礼称号を[1]、1748年までマーチ伯爵の称号を、1778年までマーチ=ラグラン伯爵の称号を使用した。また、オールド・Q(Old Q)とあだ名された[2]。
生涯
第2代マーチ伯爵ウィリアム・ダグラスと第2代ラグラン女伯爵アン・ハミルトンの息子として、1725年12月16日に生まれた[1]。1731年3月7日に父が死去すると、マーチ伯爵の爵位を継承した[1]。1748年4月21日に母が死去すると、ラグラン伯爵の爵位を継承した[1]。ラグラン伯爵の創設日がマーチ伯爵より4日早かったため、順位ではラグラン伯爵が上だったが、ダグラスは「ラグラン=マーチ伯爵」(Earl of Ruglen and March)の称号ではなく「マーチ=ラグラン伯爵」(Earl of March and Ruglen)の称号を使用した[1]。1759年に第8代カセルス伯爵ジョン・ケネディが死去すると、その爵位と財産が女系継承可能であるとして継承権を主張した(ダグラスの母方の祖母は第7代カセルス伯爵ジョン・ケネディの娘だった)が、却下されている[1]。
1760年から1789年までジョージ3世の寝室侍従を、1761年から1784年までスコットランド貴族代表議員を、1767年から1776年までスコットランド海軍次官を務めた[1]。1776年10月26日にスコットランド第一警察卿(First Lord of Police)に任命されたが、第一警察卿の官職は1782年に廃止された[2]。1778年10月22日に父方の祖父ウィリアムの兄ジェイムズの息子にあたる第3代クイーンズベリー公爵チャールズ・ダグラスが死去すると、クイーンズベリー公爵の爵位を継承、さらに1786年8月21日にグレートブリテン貴族であるウィルトシャーにおけるエイムズベリーのダグラス男爵に叙された[1]。
1788年に王太子ジョージが摂政に就任する権利を主張すると、ダグラス家でただ1人王太子を支持したが、ジョージ3世が回復したため1789年に寝室侍従から解任された[1]。その後、1794年3月17日から1797年11月17日までダンフリーズ統監を務めた[3]。
1810年12月23日に生涯未婚のままロンドンの自宅で死去、31日に埋葬された[1]。エイムズベリーのダグラス男爵とラグラン伯爵は後継者がおらず廃絶[1]、マーチ伯爵は初代マーチ伯爵ウィリアム・ダグラスの娘アン(1700年没)の男系の玄孫にあたる第8代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリスが[4]、クイーンズベリー公爵は父方の祖父ウィリアムの兄ジェイムズの娘ジェーンの孫にあたる第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットが[5]、クイーンズベリー侯爵は初代クイーンズベリー伯爵ウィリアム・ダグラスにたどっての分流である第5代準男爵サー・チャールズ・ダグラスが継承した[6]。また、100万ポンド以上の遺産を残しており、遺言状に基づき多くの人々の間で分割相続された[2]。
私生活
競馬
1750年、1時間内に四輪馬車で19マイル進めるかでターフェ伯爵と賭け、1750年8月29日にニューマーケット競馬場で行われた試合で見事に成功した[2]。同年にジョッキークラブが結成され、1753年に同クラブがニューマーケット競馬場を購入すると、マーチ伯爵は競馬場を見下ろせる邸宅を購入し(晩年に売却した)、競馬に没頭した[2]。競走馬の育成に心血を注いだほか、馬丁や騎手にも着目したという[2]。1756年に自ら騎手を務めて試合に勝利したほか、競馬における賭博にもたびたび勝ち、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスなどから大金を勝ち取った[2]。後にチャールズ・ジェームズ・フォックスが競馬と賭博に熱中するのもマーチ伯爵がフォックスのメンターを務めたことが一因とされる[2]。
住居
ニューマーケットの邸宅のほか、一時はリッチモンドにある、高価な絵画や彫刻が飾られている住宅に住んでいたが、住宅の隣の芝生に関する裁判に負けたことがきっかけとなってそれを嫌い、ピカデリーの住宅に移ったという[2]。
1798年頃にネイドパース城周辺の植林を整地したが、自身の庶出の娘マリアのヤーマス伯爵フランシス・シーモア=コンウェイとの結婚における持参金を用意するためとされた[2]。ジョージ・オーガスタス・セルウィンもマリアを娘と考えて大金を用意したが、『英国人名事典』では2人とも本当の父ではないとしている[2]。ヤーマス伯爵夫婦はクイーンズベリー公爵の遺言状で10万ポンドを受け取り、ヤーマス伯爵はさらに遺産の残余分の受取人として、20万ポンドを追加で受け取った[2]。
また、ピカデリーの自邸にあるバルコニーから通りをゆく美人を目ざとく見つけては、気に入った女性を邸内に招き入れていた[7]。当初は家令に命じて招待していたが、やがてこれも面倒に感じるようになり、バルコニーから通りへと続く専用通路をもうけさせた逸話が残っている[7]。
晩年
最晩年にはフランスからの医者に対し、自身が1日生き延びるごとに大金を支払ったという[2]。また、1803年頃から1810年にクイーンズベリー公爵が死去するまで彼と親しかったナサニエル・ラクソールによると、クイーンズベリー公爵の体は弱くなったが、知性は衰えなかったという[2]。さらに、オールドQの死期が近づいたことが知れ渡ると、彼の下には関係した女性から手紙が連日のように舞い込んだ[7]。その後、彼が他界した際に未開封の手紙70通がくずかごの中から見つかったという[7]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward, ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 312–313.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Henderson, Thomas Finlayson (1888). . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 15. London: Smith, Elder & Co. pp. 373–374.
- ^ Sainty, John Christopher (September 2005). "Lieutenants and Lord-Lieutenants of Counties (Scotland) 1794-". Institute of Historical Research (英語). 2019年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年11月30日閲覧。
- ^ "Wemyss, Earl of (S, 1633)". Cracroft's Peerage (英語). 8 July 2019. 2019年11月30日閲覧。
- ^ "Queensberry, Duke of (S, 1683/4)". Cracroft's Peerage (英語). 20 April 2019. 2019年11月30日閲覧。
- ^ "Queensberry, Earl of (S, 1633)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年11月30日閲覧。
- ^ a b c d 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年、128-129頁。ISBN 978-4469240979。
公職 | ||
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先代 ハインドフォード伯爵 |
スコットランド海軍次官 1767年 – 1776年 |
次代 ブレダルバン=ホランド伯爵 |
名誉職 | ||
新設官職 | ダンフリーズ統監 1794年 – 1797年 |
次代 ダルキース伯爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | エイムズベリーのダグラス男爵 1786年 – 1810年 |
廃絶 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 チャールズ・ダグラス |
クイーンズベリー公爵 1778年 – 1810年 |
次代 ヘンリー・スコット |
クイーンズベリー侯爵 1778年 – 1810年 |
次代 チャールズ・ダグラス | |
先代 ウィリアム・ダグラス |
マーチ伯爵 1731年 – 1810年 |
次代 フランシス・チャータリス |
先代 アン・ハミルトン |
ラグラン伯爵 1748年 – 1810年 |
廃絶 |