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「ジェイムズ・ウォルドグレイヴ (第2代ウォルドグレイヴ伯爵)」の版間の差分

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2020年12月4日 (金) 05:52時点における版

第2代ウォルドグレイヴ伯爵ジェイムズ・ウォルドグレイヴ

第2代ウォルドグレイヴ伯爵ジェイムズ・ウォルドグレイヴ英語: James Waldegrave, 2nd Earl Waldegrave, KGPC, FRS1715年3月4日 - 1763年4月13日)は、イギリスの貴族、政治家。1757年中に5日間だけ第一大蔵卿を務めているため、首相と見做されることがある。

経歴

1715年3月4日、初代ウォルドグレイヴ伯爵ジェイムズ・ウォルドグレイヴとその妻メアリー(Mary, 旧姓ウェブ(Webbe))の間の長男として生まれる[1]

イートン校を卒業[1]1741年に父の死により爵位を継承した[1]1743年から1752年にかけてジョージ2世寝室侍従長英語版を務め、国王と最も親密な友人・助言者となった[1]。1752年に枢密顧問官に列するとともに皇太子ジョージ(のちの国王ジョージ3世)の手許金会計官英語版に就任し、1756年まで務めた[1]。また1751年から1763年にかけては錫鉱区裁判所所長英語版を務めた[2]。1757年から1763年にかけて財務省出納官英語版を務めた[2]1757年4月に実質的な首相だった大ピットがジョージ2世のハノーファー優先策と対立して南部担当大臣から解任された後、同年6月末に初代ニューカッスル公爵と大ピットの内閣が成立するまでの間の政治的混乱の中で、国王から依頼を受けて各方面との交渉に当たり、大ピットとジョージ2世の和解に努めた。この間の6月8日から12日までの5日間だけ第4代デヴォンシャー公爵に代わって第一大蔵卿を務めたため、首相と見なされることもある[1][3]

1757年ガーター勲章を受勲した[1]1763年4月13日に死去した。女子しかなかったため、爵位は弟のジョン・ウォルドグレイヴが継承した[2]

家族

1759年5月に初代英国首相として知られる初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの次男エドワード・ウォルポール英語版(1706-1784)の娘マリア・ウォルポール英語版(1736-1807)と結婚。彼女との間に以下の3子を儲ける[2]

なお妻のマリアは1766年に王族のグロスター=エディンバラ公爵ウィリアム・ヘンリーと再婚している[2]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g "Waldegrave, James (1715-1768)" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  2. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Waldegrave, Earl (GB, 1729)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年1月28日閲覧。
  3. ^ Lundy, Darryl. “James Waldegrave, 2nd Earl Waldegrave” (英語). thepeerage.com. 2019年1月31日閲覧。

外部リンク

公職
先代
トマス・ピット英語版
錫鉱区裁判所所長英語版
1751年–1762年
次代
ハンフリー・モーリス英語版
先代
初代ウォルポール男爵
財務省出納官英語版
1757年–1763年
次代
ロバート・ヘンリー
先代
第4代デヴォンシャー公爵
第一大蔵卿
1757年6月8日–1757年6月12日
次代
第4代デヴォンシャー公爵
グレートブリテンの爵位
先代
ジェイムズ・ウォルドグレイヴ
第2代ウォルドグレイヴ伯爵
1741年–1763年
次代
ジョン・ウォルドグレイヴ