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現当主である第14代フェラーズ伯爵ロバート・ウィリアム・サズワロ・シャーリーは以下の爵位を有する<ref>http://www.cracroftspeerage.co.uk |
現当主である第14代フェラーズ伯爵ロバート・ウィリアム・サズワロ・シャーリーは以下の爵位を有する<ref>http://www.cracroftspeerage.co.uk/ferrers1711.htm</ref>。 |
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*'''第14代フェラーズ伯爵'''<small>(14th Earl Ferrers)</small><br>([[1711年]][[9月3日]]の勅許状による[[グレートブリテン貴族]]爵位) |
*'''第14代フェラーズ伯爵'''<small>(14th Earl Ferrers)</small><br>([[1711年]][[9月3日]]の勅許状による[[グレートブリテン貴族]]爵位) |
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*'''第14代スタフォード州タンワースにおけるタンワース子爵'''<small>(14th Viscount Tamworth, of Tamworth in the County of Stafford)</small><br>(1711年9月3日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) |
*'''第14代スタフォード州タンワースにおけるタンワース子爵'''<small>(14th Viscount Tamworth, of Tamworth in the County of Stafford)</small><br>(1711年9月3日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) |
2020年12月4日 (金) 05:30時点における版
フェラーズ伯爵 | |
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創設時期 | 1711年9月3日 |
創設者 | アン |
貴族 | グレートブリテン貴族 |
初代 | 初代フェラーズ伯爵ロバート・シャーリー |
現所有者 | 第14代フェラーズ伯爵ロバート・ウィリアム・サズワロ・シャーリー |
推定相続人 | タンワース子爵ウィリアム・シャーリー |
付随称号 | タンワース子爵 ストーントン・ハロルドの准男爵 |
邸宅 | ディッチンガムホール |
モットー | Honor vertutus premium (Honour is the reward of valour)[1] |
フェラーズ伯爵(英: Earl Ferrers)は、イギリスの伯爵位。グレートブリテン貴族伯爵筆頭。
ロバート・シャーリーが1711年に叙されて以来、シャーリー家が保持する爵位。
歴史
シャーリー家はノーサンプトンシャーの地主で、その歴史は16世紀前半まで遡ることができる旧家である。その祖ジョージ・シャーリー(1559-1622)は1611年に(レスター州ストーントン・ハロルドの)准男爵(Baronet, of Staunton Harold in the County of Leicester)の叙爵を受けた。
その後は初代准男爵の系統で順当に継承がなされたが、4代准男爵ロバートがクロムウェルによりロンドン塔に投獄されて幽閉ののち1656年に獄死するという事件が起きている。
その長男である5代准男爵が夭折したため、彼の死の翌年に誕生したその長男シーモアがその爵位を襲ったが、彼もまたわずか1歳という短い生涯を閉じた[2]。
そのため6代准男爵の叔父にあたるサー・ロバート・シャーリーが第7代准男爵位を継承した。さらに1677年には古いイングランド貴族爵位であるチャートリーのフェラーズ男爵(Baron of Ferrers of Chartley)の継承者であることが確認されたため、13代男爵となった[註釈 1]。
その後、彼は主馬頭(イギリス)やスタフォードシャー州統監を歴任したのちの1711年にグレートブリテン貴族としてフェラーズ伯爵(Earl Ferrers)並びにスタフォード州タンワースにおけるタンワース子爵(Viscount Tamworth, of Tamworth in the County of Stafford)に叙された[3]。 初代伯の死後、男爵位は父方のコンプトン家に流出したが、伯爵位とその従属爵位は彼の次男が継承した[4][5]。
その後も順当に初代伯の系統で続いていたが、その孫にあたる4代伯ローレンス・シャーリーが諍いから執事を射殺する事件を起こした。彼は殺人罪で起訴されて絞首刑に処された最後の英国貴族である[6]。
その弟である5代伯ワシントン・シャーリーはイギリス海軍提督にして太陽系儀を所有するほど熱心なアマチュアの天文学者であった。[7]しかし彼には子供がいなかったため、4・5代伯の弟ロバートが6代伯となった[8]。
その後の1912年に10代伯セウォリス・シャーリーが嗣子なく没した際、6代伯の系統が途絶えたため、先代の兄弟の末弟の子孫にあたるウォルター・シャーリーが11代伯を襲った。
その孫である13代伯ロバート・シャーリーは、保守党の政治家として活動した。彼は1999年貴族院法の制定以降も、貴族院に残る92人の世襲貴族としてその死まで議席を置き続けた[9]。
一族の邸宅はノーフォーク州ディッチンガム近郊のディッチンガム・ホール。
現当主の保有爵位
現当主である第14代フェラーズ伯爵ロバート・ウィリアム・サズワロ・シャーリーは以下の爵位を有する[10]。
- 第14代フェラーズ伯爵(14th Earl Ferrers)
(1711年9月3日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) - 第14代スタフォード州タンワースにおけるタンワース子爵(14th Viscount Tamworth, of Tamworth in the County of Stafford)
(1711年9月3日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) - 第20代(レスター州ストーントン・ハロルドの)准男爵(20th Baronet, of Staunton Harold in the County of Leicester)
(1611年5月22日の勅許状によるイングランド准男爵位)
一覧
(レスター州)ストーントン・ハロルドの准男爵(1611)
- 初代准男爵サー・ジョージ・シャーリー(1559–1622)
- 第2代准男爵サー・ヘンリー・シャーリー (1588頃–1633)
- 第3代准男爵サー・チャールズ・シャーリー (1623–1646)
- 第4代准男爵サー・ロバート・シャーリー(?-1656)
- 第5代准男爵サー・ロバート・シャーリー(1647–1667)
- 第6代准男爵サー・ロバート・シャーリー(1668–1669)
- 第7代准男爵・第13代チャートリーのフェラーズ男爵サー・ロバート・シャーリー (1650–1717) (1711年にフェラーズ伯爵を創設)
フェラーズ伯爵(1711)
- 初代フェラーズ伯爵ロバート・シャーリー (1650–1717)
- 第2代フェラーズ伯爵ワシントン・シャーリー (1677–1729)
- 第3代フェラーズ伯爵ヘンリー・シャーリー (1691–1745)
- 第4代フェラーズ伯爵ローレンス・シャーリー (1720–1760)
- 第5代フェラーズ伯爵ワシントン・シャーリー (1722–1778)
- 第6代フェラーズ伯爵ロバート・シャーリー (1723–1787)
- 第7代フェラーズ伯爵ロバート・シャーリー (1756–1827)
- 第8代フェラーズ伯爵ワシントン・シャーリー (1760–1842)
- 第9代フェラーズ伯爵ワシントン・セウォリス・シャーリー (1822–1859)
- 第10代フェラーズ伯爵セウォリス・エドワード・シャーリー (1847–1912)
- 第11代フェラーズ伯爵ウォルター・シャーリー (1864–1937)
- 第12代フェラーズ伯爵ロバート・ウォルター・シャーリー (1894–1954)
- 第13代フェラーズ伯爵ロバート・ワシントン・シャーリー (1929–2012)
- 第14代フェラーズ伯爵ロバート・ウィリアム・サズワロ・シャーリー (1952-)
法定推定相続人は現当主の息子であるタンワース子爵ウィリアム・ロバート・チャールズ・シャーリー(1984-)。
脚注
註釈
- ^ 第2代准男爵はロバート・デヴァルー_(第2代エセックス伯)の娘を妻にしており、男爵位はエセックス伯爵(第8期;1572年)の従属爵位であったため継承権が発生した。なお、男爵位は3代伯の死後は休止状態であった。
出典
- ^ Debrett's Peerage, 1874, p.195
- ^ George Edward Cokayne Complete Baronetage 1900
- ^ Doyle, James William Edmund (1886). The Official Baronage of England. 1. London: Longmans, Green. p. 741.
- ^ Shirley, Evelyn Philip (1873). Stemmata Shirleiana. Westminster: Nichols and Sons. pp. 167–169, 184, 189–190.
- ^ "Shirley family, Earls Ferrers". National Archives. Retrieved 4 May 2014.
- ^ "Earl Ferrers". CapitalPunishmentUK.org. Retrieved 18 March 2015.
- ^ A Philosopher Lecturing on the Orrery (1764-1766), Revolutionary Players, image from Derby Museum and Art Gallery, Derby, accessed March 2011
- ^ Shirley, Evelyn Philip (1873). Stemmata Shirleiana. Westminster: Nichols and Sons. pp. 198, 201–202.
- ^ "Earl Ferrers". The Telegraph. 13 November 2012. Retrieved 20 November 2012.
- ^ http://www.cracroftspeerage.co.uk/ferrers1711.htm
参考文献
- Kidd, Charles, Williamson, David (editors). Debrett's Peerage and Baronetage (1990 edition). New York: St Martin's Press, 1990, [要ページ番号]
- Leigh Rayment's Peerage Pages [self-published source] [better source needed]
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Robert Shirley, 7th Earl Ferrers
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Washington Shirley, 8th Earl Ferrers
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Washington Sewallis Shirley, 9th Earl Ferrers
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Walter Knight Shirley, 11th Earl Ferrers