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「ランズダウン侯爵」の版間の差分

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[[File:William Petty, 1st Marquess of Lansdowne (Lord Shelburne) by Sir Joshua Reynolds.jpg|180px|left|thumb|[[イギリスの首相|首相]]を務めた初代ランズダウン侯爵・第2代シェルバーン伯爵[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]]]
[[File:William Petty, 1st Marquess of Lansdowne (Lord Shelburne) by Sir Joshua Reynolds.jpg|180px|left|thumb|[[イギリスの首相|首相]]を務めた初代ランズダウン侯爵・第2代シェルバーン伯爵[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]]]
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[[13世紀]]以来[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー=リックナウ男爵]]位を継承し続けてきた[[アイルランド貴族]]フィッツモーリス家の当主初代[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]](第21代ケリー=リックナウ男爵)[[トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯)|トマス・フィッツモーリス]]<small>(1668–1741)</small>とその妻アン・ペティ(経済学者[[ウィリアム・ペティ]]の娘)の次男[[ジョン・ペティ (初代シェルバーン伯)|ジョン・フィッツモーリス]]<small>(1706-1761)</small>は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた後、[[1751年]]に母方の姓ペティに改姓するとともにペティ家に由来する爵位を与えられた。[[1751年]][[10月7日]]にはアイルランド貴族'''フィッツモーリス子爵'''(Viscount FitzMaurice)と'''ダンケロン男爵'''(Baron Dunkerron)、[[1753年]][[6月6日]]にはアイルランド貴族'''[[シェルバーン伯爵]]'''(Earl of Shelburne)、[[1760年]][[5月20日]]に[[グレートブリテン貴族]]'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム男爵'''(Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)に叙せられた<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3842.htm#i38411|title=John Petty, 1st Earl of Shelburne|accessdate= 2016-01-21 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP ES">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/shelburne1753.htm|title=Shelburne, Earl of (I, 1753)|accessdate= 2016-01-21 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
[[13世紀]]以来[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー=リックナウ男爵]]位を継承し続けてきた[[アイルランド貴族]]フィッツモーリス家の当主初代[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]](第21代ケリー=リックナウ男爵)[[トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯)|トマス・フィッツモーリス]]<small>(1668–1741)</small>とその妻アン・ペティ(経済学者[[ウィリアム・ペティ]]の娘)の次男[[ジョン・ペティ (初代シェルバーン伯)|ジョン・フィッツモーリス]]<small>(1706-1761)</small>は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた後、[[1751年]]に母方の姓ペティに改姓するとともにペティ家に由来する爵位を与えられた。[[1751年]][[10月7日]]にはアイルランド貴族'''フィッツモーリス子爵'''(Viscount FitzMaurice)と'''ダンケロン男爵'''(Baron Dunkerron)、[[1753年]][[6月6日]]にはアイルランド貴族'''[[シェルバーン伯爵]]'''(Earl of Shelburne)、[[1760年]][[5月20日]]に[[グレートブリテン貴族]]'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム男爵'''(Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)に叙せられた<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3842.htm#i38411|title=John Petty, 1st Earl of Shelburne|accessdate= 2016-01-21 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP ES">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/shelburne1753.htm|title=Shelburne, Earl of (I, 1753)|accessdate= 2016-01-21 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


その長男で[[1761年]]に第2代シェルバーン伯爵を襲爵した[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム]] <small>(1737-1805)</small>は、ホイッグ党の有力政治家となり、[[1782年]]から[[1783年]]にかけて[[イギリスの首相]]を務めている。彼の在任中に[[アメリカ独立戦争]]の講和条約[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]の締結が行われた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=682}}。首相退任後の[[1784年]][[12月6日]]には'''ランズダウン侯爵'''(Marquess of Lansdowne)、'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム伯爵'''(Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)、'''キャルネ=キャルストン子爵'''(Viscount Calne and Calston)に叙せられた(すべて[[グレートブリテン貴族]])<ref name="CP ES" /><ref name="CP ML">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/lansdowne1784.htm|title=Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)|accessdate= 2015-12-09 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。これがランズダウン侯爵家の創始となる。
その長男で[[1761年]]に第2代シェルバーン伯爵を襲爵した[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム]] <small>(1737-1805)</small>は、ホイッグ党の有力政治家となり、[[1782年]]から[[1783年]]にかけて[[イギリスの首相]]を務めている。彼の在任中に[[アメリカ独立戦争]]の講和条約[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]の締結が行われた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=682}}。首相退任後の[[1784年]][[12月6日]]には'''ランズダウン侯爵'''(Marquess of Lansdowne)、'''バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム伯爵'''(Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)、'''キャルネ=キャルストン子爵'''(Viscount Calne and Calston)に叙せられた(すべて[[グレートブリテン貴族]])<ref name="CP ES" /><ref name="CP ML">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/lansdowne1784.htm|title=Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)|accessdate= 2015-12-09 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。これがランズダウン侯爵家の創始となる。


初代侯の死後、その長男である[[ジョン・ペティ (第2代ランズダウン侯爵)|ジョン]]<small>(1765-1809)</small>が2代侯となった。彼は襲爵前の[[1786年]]から[[1802年]]にかけてホイッグ党の庶民院議員を務めたが、襲爵から4年後の[[1809年]]に死去した<ref name="CP ML" /><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3843.htm#i38424|title=John Henry Petty, 2nd Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
初代侯の死後、その長男である[[ジョン・ペティ (第2代ランズダウン侯爵)|ジョン]]<small>(1765-1809)</small>が2代侯となった。彼は襲爵前の[[1786年]]から[[1802年]]にかけてホイッグ党の庶民院議員を務めたが、襲爵から4年後の[[1809年]]に死去した<ref name="CP ML" /><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3843.htm#i38424|title=John Henry Petty, 2nd Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。


2代侯には子供がなかったので、その弟(初代侯の次男)である[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]] <small>(1780-1863)</small>が3代侯を継承した。彼はホイッグ党の穏健派閥の幹部としてホイッグ党、あるいは[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の内閣で[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]、[[貴族院院内総務]]などの閣僚職を歴任した{{sfn|君塚直隆|1999|p=52-142}}。また[[1818年]]には本家筋にあたる第3代ケリー伯{{仮リンク|フランシス・トーマス=フィッツモーリス (第3代ケリー伯爵)|label=フランシス・トーマス=フィッツモーリス|en|Francis Thomas-Fitzmaurice, 3rd Earl of Kerry}}が男子なく死去したため、第4代'''[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]]'''(Earl of Kerry)と第4代'''クランモーリス子爵('''Viscount Clanmaurice)、第24代'''ケリー=リックナウ男爵'''(Baron of Kerry and Lixnaw)も継承することになった。この際に「ペティ=フィッツモーリス」に改姓した<ref name="CP ML" /><ref name="CP EK">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/kerry1722.htm|title=Kerry, Earl of (I, 1723)|accessdate= 2015-12-09 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
2代侯には子供がなかったので、その弟(初代侯の次男)である[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]] <small>(1780-1863)</small>が3代侯を継承した。彼はホイッグ党の穏健派閥の幹部としてホイッグ党、あるいは[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の内閣で[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]や[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]、[[貴族院院内総務]]などの閣僚職を歴任した{{sfn|君塚直隆|1999|p=52-142}}。また[[1818年]]には本家筋にあたる第3代ケリー伯{{仮リンク|フランシス・トーマス=フィッツモーリス (第3代ケリー伯爵)|label=フランシス・トーマス=フィッツモーリス|en|Francis Thomas-Fitzmaurice, 3rd Earl of Kerry}}が男子なく死去したため、第4代'''[[ケリー伯爵 (アイルランド)|ケリー伯爵]]'''(Earl of Kerry)と第4代'''クランモーリス子爵('''Viscount Clanmaurice)、第24代'''ケリー=リックナウ男爵'''(Baron of Kerry and Lixnaw)も継承することになった。この際に「ペティ=フィッツモーリス」に改姓した<ref name="CP ML" /><ref name="CP EK">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/kerry1722.htm|title=Kerry, Earl of (I, 1723)|accessdate= 2015-12-09 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


3代侯の死後、その次男(長男は死去)である[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]]<small>(1816-1866)</small>が4代侯となった。彼は襲爵前の[[1837年]]から庶民院議員を務め、[[1856年]]にはいまだ父が存命ながら[[繰上貴族院召集令状]]により父の爵位ウィコム男爵位を継承して貴族院議員となった。ホイッグ党(自由党)に所属し、[[1856年]]から[[1858年]]にかけてホイッグ党政権第一次[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣で{{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}を務めた。しかし襲爵から3年後の1866年に死去している<ref name="CP ML" /><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3307.htm#i33064|title=Henry Petty-FitzMaurice, 4th Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
3代侯の死後、その次男(長男は死去)である[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第4代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]]<small>(1816-1866)</small>が4代侯となった。彼は襲爵前の[[1837年]]から庶民院議員を務め、[[1856年]]にはいまだ父が存命ながら[[繰上貴族院召集令状]]により父の爵位ウィコム男爵位を継承して貴族院議員となった。ホイッグ党(自由党)に所属し、[[1856年]]から[[1858年]]にかけてホイッグ党政権第一次[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣で{{仮リンク|外務政務次官 (イギリス)|label=外務政務次官|en|Under-Secretary of State for Foreign Affairs}}を務めた。しかし襲爵から3年後の1866年に死去している<ref name="CP ML" /><ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3307.htm#i33064|title=Henry Petty-FitzMaurice, 4th Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。


その長男である5代侯[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]] <small>(1845-1927)</small>もはじめ自由党の政治家だったが、[[自由統一党]]を経て[[保守党 (イギリス)|保守党]](統一党)へ移籍し、[[20世紀]]初頭の保守党政権第3次[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]内閣と[[アーサー・バルフォア|バルフォア]]内閣で[[外務英連邦大臣|外務大臣]](在職1900-1905)を務め、[[日英同盟]]や[[英仏協商]]の締結に尽力した{{sfn|坂井秀夫|1967|p=307-309}}。また彼は[[1895年]][[6月26日]]に母親の第8代ネアーン女卿{{仮リンク|エミリー・ペティ=フィッツモーリス (ランズダウン侯爵夫人)|label=エミリー・ド・フラオ―|en|Emily Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne}}から[[スコットランド貴族]]爵位の第9代'''[[ネアーン卿]]'''(Lord Nairne)を継承している<ref name="CP LN">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/nairne1681.htm|title=Nairne, Lord (S, 1681)|accessdate= 2016-01-23 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。このエミリーはフランス軍将軍{{仮リンク|シャルル・ド・フラオー|fr|Charles de Flahaut}}([[フランス第一帝政|ナポレオン帝政]]や[[フランス復古王政|復古王政]]のフランス外相[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の息子)の娘であり、母方から[[スコットランド貴族]]の[[ウィリアム・マレー (第2代ネアーン卿)|第2代ネアーン卿ウィリアム・マレー]]の血を引いており(第2代ネアーン卿の次男ロバートの次男ウィリアム・マーサーの娘ジェーン・マーサーの娘{{仮リンク|マーガレット・マーサー・エルフィンストン|en|Margaret Mercer Elphinstone}}の娘がエミリー)、そのため1874年8月4日の貴族院決議によって第8代ネアーン女卿に認定されていた女性だった<ref name="CP LN" />。
その長男である5代侯[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー]] <small>(1845-1927)</small>もはじめ自由党の政治家だったが、[[自由統一党]]を経て[[保守党 (イギリス)|保守党]](統一党)へ移籍し、[[20世紀]]初頭の保守党政権第3次[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]内閣と[[アーサー・バルフォア|バルフォア]]内閣で[[外務英連邦大臣|外務大臣]](在職1900-1905)を務め、[[日英同盟]]や[[英仏協商]]の締結に尽力した{{sfn|坂井秀夫|1967|p=307-309}}。また彼は[[1895年]][[6月26日]]に母親の第8代ネアーン女卿{{仮リンク|エミリー・ペティ=フィッツモーリス (ランズダウン侯爵夫人)|label=エミリー・ド・フラオ―|en|Emily Petty-Fitzmaurice, Marchioness of Lansdowne}}から[[スコットランド貴族]]爵位の第9代'''[[ネアーン卿]]'''(Lord Nairne)を継承している<ref name="CP LN">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/nairne1681.htm|title=Nairne, Lord (S, 1681)|accessdate= 2016-01-23 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。このエミリーはフランス軍将軍{{仮リンク|シャルル・ド・フラオー|fr|Charles de Flahaut}}([[フランス第一帝政|ナポレオン帝政]]や[[フランス復古王政|復古王政]]のフランス外相[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の息子)の娘であり、母方から[[スコットランド貴族]]の[[ウィリアム・マレー (第2代ネアーン卿)|第2代ネアーン卿ウィリアム・マレー]]の血を引いており(第2代ネアーン卿の次男ロバートの次男ウィリアム・マーサーの娘ジェーン・マーサーの娘{{仮リンク|マーガレット・マーサー・エルフィンストン|en|Margaret Mercer Elphinstone}}の娘がエミリー)、そのため1874年8月4日の貴族院決議によって第8代ネアーン女卿に認定されていた女性だった<ref name="CP LN" />。


5代侯の長男である6代侯{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第6代ランズダウン侯爵)|label=ヘンリー|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 6th Marquess of Lansdowne}}<small>(1872-1936)</small>は襲爵前に保守党の庶民院議員を務めた。また[[アイルランド自由国]]成立後の[[1922年]]には同国の[[シャナズ・エアラン|元老院]]議員となっている<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p2403.htm#i24024|title=Henry William Edmund Petty-FitzMaurice, 6th Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
5代侯の長男である6代侯{{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第6代ランズダウン侯爵)|label=ヘンリー|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 6th Marquess of Lansdowne}}<small>(1872-1936)</small>は襲爵前に保守党の庶民院議員を務めた。また[[アイルランド自由国]]成立後の[[1922年]]には同国の[[シャナズ・エアラン|元老院]]議員となっている<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p2403.htm#i24024|title=Henry William Edmund Petty-FitzMaurice, 6th Marquess of Lansdowne|accessdate= 2016-01-23 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。

2020年12月4日 (金) 05:02時点における版

ランズダウン侯爵

紋章記述

Arms: 1st and 4th, Ermine, on a Bend Azure, a Magnetic Needle, pointing to the Polar Star Or (Petty); 2nd and 3rd, Argent, a Saltire Gules, and a Chief, Ermine (FitzMaurice). Crests: 1st, A Beehive beset with Bees volant proper (Petty). 2nd, A Centaur drawing a Bow and Arrow proper, the part below the waist Argent (FitzMaurice). Supporters: On either side a Pegasus Ermine, bridled crined winged and unguled Or, each charged on the shoulder with a Fleur-de-lis Azure.[1]
創設時期1784年12月6日
創設者ジョージ3世
貴族グレートブリテン貴族
初代初代侯ウィリアム・ペティ
現所有者9代侯チャールズ・モーリス・ペティ=フィッツモーリス英語版
推定相続人ケリー伯サイモン・ペティ=フィッツモーリス
相続資格初代侯の嫡出直系男子
付随称号下記参照
現況存続
邸宅バウッドハウス英語版
旧邸宅ランズダウンハウス英語版
モットーVIRTUTE NON VERBIS
(By courage, not words)

ランズダウン侯爵: Marquess of Lansdowne)は、イギリス侯爵位。グレートブリテン貴族

13世紀以来の長い歴史を持つアイルランド貴族ケリー伯爵(ケリー=リックナウ男爵)フィッツモーリス家英語版の分流で首相を務めた第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ1784年に叙されたのに始まる。3代侯の代の1818年からはフィッツモーリス家の本家となり、ペティ=フィッツモーリスと改姓してケリー伯爵位とケリー=リックナウ男爵位も併せて継承している。

歴史

首相を務めた初代ランズダウン侯爵・第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティ
ランズダウン侯爵家本邸バウッド・ハウス英語版

13世紀以来ケリー=リックナウ男爵位を継承し続けてきたアイルランド貴族フィッツモーリス家の当主初代ケリー伯爵(第21代ケリー=リックナウ男爵)トマス・フィッツモーリス(1668–1741)とその妻アン・ペティ(経済学者ウィリアム・ペティの娘)の次男ジョン・フィッツモーリス(1706-1761)は、ホイッグ党庶民院議員を務めた後、1751年に母方の姓ペティに改姓するとともにペティ家に由来する爵位を与えられた。1751年10月7日にはアイルランド貴族フィッツモーリス子爵(Viscount FitzMaurice)とダンケロン男爵(Baron Dunkerron)、1753年6月6日にはアイルランド貴族シェルバーン伯爵(Earl of Shelburne)、1760年5月20日グレートブリテン貴族バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム男爵(Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)に叙せられた[2][3]

その長男で1761年に第2代シェルバーン伯爵を襲爵したウィリアム (1737-1805)は、ホイッグ党の有力政治家となり、1782年から1783年にかけてイギリスの首相を務めている。彼の在任中にアメリカ独立戦争の講和条約パリ条約の締結が行われた[4]。首相退任後の1784年12月6日にはランズダウン侯爵(Marquess of Lansdowne)、バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム伯爵(Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)、キャルネ=キャルストン子爵(Viscount Calne and Calston)に叙せられた(すべてグレートブリテン貴族)[3][5]。これがランズダウン侯爵家の創始となる。

初代侯の死後、その長男であるジョン(1765-1809)が2代侯となった。彼は襲爵前の1786年から1802年にかけてホイッグ党の庶民院議員を務めたが、襲爵から4年後の1809年に死去した[5][6]

2代侯には子供がなかったので、その弟(初代侯の次男)であるヘンリー (1780-1863)が3代侯を継承した。彼はホイッグ党の穏健派閥の幹部としてホイッグ党、あるいはトーリー党自由主義派の内閣で財務大臣内務大臣枢密院議長貴族院院内総務などの閣僚職を歴任した[7]。また1818年には本家筋にあたる第3代ケリー伯フランシス・トーマス=フィッツモーリス英語版が男子なく死去したため、第4代ケリー伯爵(Earl of Kerry)と第4代クランモーリス子爵(Viscount Clanmaurice)、第24代ケリー=リックナウ男爵(Baron of Kerry and Lixnaw)も継承することになった。この際に「ペティ=フィッツモーリス」に改姓した[5][8]

3代侯の死後、その次男(長男は死去)であるヘンリー(1816-1866)が4代侯となった。彼は襲爵前の1837年から庶民院議員を務め、1856年にはいまだ父が存命ながら繰上貴族院召集令状により父の爵位ウィコム男爵位を継承して貴族院議員となった。ホイッグ党(自由党)に所属し、1856年から1858年にかけてホイッグ党政権第一次パーマストン子爵内閣で外務政務次官英語版を務めた。しかし襲爵から3年後の1866年に死去している[5][9]

その長男である5代侯ヘンリー (1845-1927)もはじめ自由党の政治家だったが、自由統一党を経て保守党(統一党)へ移籍し、20世紀初頭の保守党政権第3次ソールズベリー侯爵内閣とバルフォア内閣で外務大臣(在職1900-1905)を務め、日英同盟英仏協商の締結に尽力した[10]。また彼は1895年6月26日に母親の第8代ネアーン女卿エミリー・ド・フラオ―英語版からスコットランド貴族爵位の第9代ネアーン卿(Lord Nairne)を継承している[11]。このエミリーはフランス軍将軍シャルル・ド・フラオーフランス語版ナポレオン帝政復古王政のフランス外相タレーランの息子)の娘であり、母方からスコットランド貴族第2代ネアーン卿ウィリアム・マレーの血を引いており(第2代ネアーン卿の次男ロバートの次男ウィリアム・マーサーの娘ジェーン・マーサーの娘マーガレット・マーサー・エルフィンストン英語版の娘がエミリー)、そのため1874年8月4日の貴族院決議によって第8代ネアーン女卿に認定されていた女性だった[11]

5代侯の長男である6代侯ヘンリー英語版(1872-1936)は襲爵前に保守党の庶民院議員を務めた。またアイルランド自由国成立後の1922年には同国の元老院議員となっている[12]

その長男である7代侯チャールズ英語版(1917-1944)は、第二次世界大戦に従軍したが、子供のないまま戦死した[13]。そのため爵位は7代侯の従兄弟(5代侯の次男チャールズの子)にあたるジョージ英語版(1912-1999)が継承した[5]。しかしこの際に女系継承が可能なネアーン卿位のみは7代侯の姉キャサリン(1912-1995)に継承されており、以降ネアーン卿位はランズダウン侯爵位と分離した[11]

8代侯の長男である第9代ランズダウン侯爵チャールズ英語版(1941-)が現在の当主である[5]

本邸はウィルトシャーキャルネ英語版にあるボーウッド・ハウス英語版。一族のモットーは「言葉ではなく勇気を持て(Virtute Non Verbis)」[5]

現当主の全保有爵位

現在の当主である第9代ランズダウン侯爵チャールズ・ペティ=フィッツモーリス英語版は、以下の爵位を保有している[5][14]

  • サマセット州における第9代ランズダウン侯爵 (9th Marquess of Lansdowne, in the County of Somerset)
    (1784年12月6日勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第10代ケリー伯爵 (10th Earl of Kerry)
    (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人儀礼称号)
  • ウェックスフォード県における第10代シェルバーン伯爵 (10th Earl of Shelburne, in the County of Wexford)
    (1753年6月26日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第9代ウィコム伯爵 (9th Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)
    (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族)
  • 第10代クランモーリス子爵 (10th Viscount Clanmaurice)
    (1722年1月17日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の法定推定相続人の儀礼称号)
  • 第10代フィッツモーリス子爵 (10th Viscount Fitzmaurice)
    (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • 第9代キャルネ=キャルストン子爵 (9th Viscount Calne and Calston)
    (1784年12月6日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第30代ケリー=リックナウ男爵 (30th Baron of Kerry and Lixnaw)
    (1223年頃創設アイルランド貴族爵位)
  • 第10代ダンケロン男爵 (10th Baron Dunkeron)
    (1751年10月7日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムの第10代ウィコム男爵 (10th Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)
    (1760年5月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族)

一覧

シェルバーン伯爵 第2期 (1753年)

肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 備考
初代シェルバーン伯爵
ジョン・ペティ(旧姓フィッツモーリス)
(John Petty)
(1706-1761)
1753年6月6日
- 1761年5月14日
初代ケリー伯の次男 1751年にペティに改姓
2代シェルバーン伯爵
ウィリアム・ペティ(旧姓フィッツモーリス)
(William Petty)
(1737-1805)
1761年5月14日
- 1805年5月7日
先代の長男 1751年にペティに改姓
南部担当国務大臣(1766-1768)
内務大臣(1782)
首相(1782-1783)
1784年にランズダウン侯に叙される

ランズダウン侯爵 (1784年)

肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 備考
初代ランズダウン侯爵
ウィリアム・ペティ(旧姓フィッツモーリス)
(William Petty)
(1737-1805)
1784年12月6日
- 1805年5月7日
初代シェルバーン伯の長男
2代ランズダウン侯爵
ジョン・ペティ
(John Petty)
(1765年 - 1809年)
1805年5月7日
- 1809年11月15日
先代の長男
3代ランズダウン侯爵
ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス(旧姓ペティ)
(Henry Petty-Fitzmaurice)
(1780年-1863年)
1809年11月15日
- 1863年1月31日
先代の弟 財務大臣(1806-1807)
内務大臣(1827-1828)
枢密院議長(1830-1834、1835-1841、1846-1852)
1818年に4代ケリー伯、24代ケリー=リックナウ男爵継承
ペティ=フィッツモーリスに改姓
4代ランズダウン侯爵
ヘンリー・トマス・ペティ=フィッツモーリス
(Henry Thomas Petty-Fitzmaurice)
(1816年 - 1866年)
1863年1月31日
- 1866年7月5日
先代の次男 外務政務次官英語版(1856-1858)
5代ランズダウン侯爵
ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス
(Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice)
(1845年 - 1927年)
1866年7月5日
- 1927年6月3日
先代の長男 カナダ総督(1883-1888)
インド総督(1888-1894)
陸軍大臣(1895-1900)
外務大臣(1900-1905)
1895年に9代ネアーン卿継承
6代ランズダウン侯爵
ヘンリー・ウィリアム・エドムンド・ペティ=フィッツモーリス英語版
(Henry William Edmund Petty-Fitzmaurice)
(1872年 - 1936年)
1927年6月3日
- 1936年3月5日
先代の長男 アイルランド自由国元老院議員
7代ランズダウン侯爵
チャールズ・ホープ・ペティ=フィッツモーリス英語版
(Charles Hope Petty-Fitzmaurice)
(1917年 - 1944年)
1936年3月5日
- 1944年8月30日
先代の長男 第二次世界大戦で戦死
死後ネアーン卿は姉キャサリンが継承
8代ランズダウン侯爵
ジョージ・ジョン・チャールズ・マーサー・ネアーン・ペティ=フィッツモーリス英語版
(George John Charles Mercer Nairne Petty-Fitzmaurice)
(1912年 - 1999年)
1944年8月30日
- 1999年8月25日
先代の従兄弟
9代ランズダウン侯爵
チャールズ・モーリス・ペティ=フィッツモーリス英語版
(Charles Maurice Petty-Fitzmaurice)
(1941年 - )
1999年8月25日
- 受爵中
先代の長男
ケリー伯爵(儀礼称号)
サイモン・ヘンリー・ジョージ・ペティ=フィッツモーリス
(Simon Henry George Petty-Fitzmaurice)
(1970年 - )
法定推定相続人 現当主の長男

系図

ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリス家系図
ケリー=リックナウ男爵
フィッツモーリス家
から
 
 
 
 
20代ケリー=リックナウ男爵
ウィリアム・フィッツモーリス

(1633-1697)
 
ウィリアム・ペティ
(1623-1687)
 
 
 
 
 
 
 
 
1723年ケリー伯
 
 
 
 
初代ケリー伯
21代ケリー=リックナウ男爵
トマス・フィッツモーリス

(1668-1741)
 
アン・ペティ
(-1737)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1751年シェルバーン伯(第2期)
2代ケリー伯
22代ケリー=リックナウ男爵
ウィリアム・フィッツモーリス

(1694-1747)
 
初代シェルバーン伯
ジョン・ペティ
(旧姓フィッツモーリス)

(1706-1761)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1784年ランズダウン侯
3代ケリー伯
23代ケリー=リックナウ男爵
フランシス・トマス=フィッツモーリス
英語版

(1740-1818)
 
初代ランズダウン侯
2代シェルバーン伯
ウィリアム・ペティ
(旧姓フィッツモーリス)

(1737-1805)
 
タレーラン
(1754-1838)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代ランズダウン侯
3代シェルバーン伯
ジョン・ペティ

(1765-1809)
 
3代ランズダウン侯
4代ケリー伯
4代シェルバーン伯
24代ケリー=リックナウ男爵

ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス

(旧姓ペティ)
(1780-1863)
 
シャルル・ド・フラオーフランス語版
(1785-1870)
m.7代ネアーン女卿
マーガレット・エルフィンストン
英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケリー伯(儀礼称号)
ウィリアム・ペティ=フィッツモーリス

(1811-1836)
 
4代ランズダウン侯
5代ケリー伯
5代シェルバーン伯
25代ケリー=リックナウ男爵

ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス

(1816-1866)
 
8代ネアーン女卿
エミリー・ペティ=フィッツモーリス
(旧姓ド・フラオー)
英語版

(1819-1895)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1906年フィッツモーリス男爵
 
 
 
 
5代ランズダウン侯
6代ケリー伯
6代シェルバーン伯
9代ネアーン卿
26代ケリー=リックナウ男爵

ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス

(1845-1927)
 
初代フィッツモーリス男爵
エドモンド・ペティ=フィッツモーリス
英語版

(1846-1935)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィッツモーリス男爵廃絶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代ランズダウン侯
7代ケリー伯
7代シェルバーン伯
10代ネアーン卿
27代ケリー=リックナウ男爵

ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス
英語版

(1872-1936)
 
チャールズ・ペティ=フィッツモーリス英語版
(1874-1914)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12代ネアーン女卿
キャサリン・ビッガム

(旧姓ペティ=フィッツモーリス)
(1912-1995)

m.3代マージー子爵
エドワード・ビッガム
 
7代ランズダウン侯
8代ケリー伯
8代シェルバーン伯
11代ネアーン卿
28代ケリー=リックナウ男爵

チャールズ・ペティ=フィッツモーリス
英語版

(1917-1944)
 
8代ランズダウン侯
9代ケリー伯
9代シェルバーン伯
29代ケリー=リックナウ男爵

ジョージ・ペティ=フィッツモーリス
英語版

(1912-1999)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4代マージー子爵
13代ネアーン卿
リチャード・ビッガム

(1934–2006)
 
 
 
 
 
9代ランズダウン侯
10代ケリー伯
10代シェルバーン伯
30代ケリー=リックナウ男爵

チャールズ・ペティ=フィッツモーリス
英語版

(1941-)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マージー子爵ビッガム家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ケリー伯(儀礼称号)
サイモン・ペティ=フィッツモーリス

(1970-)

脚注

出典

  1. ^ Debrett's Peerage, 1876 p.282
  2. ^ Lundy, Darryl. “John Petty, 1st Earl of Shelburne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月21日閲覧。
  3. ^ a b Heraldic Media Limited. “Shelburne, Earl of (I, 1753)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月21日閲覧。
  4. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 682.
  5. ^ a b c d e f g h Heraldic Media Limited. “Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月9日閲覧。
  6. ^ Lundy, Darryl. “John Henry Petty, 2nd Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月23日閲覧。
  7. ^ 君塚直隆 1999, p. 52-142.
  8. ^ Heraldic Media Limited. “Kerry, Earl of (I, 1723)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月9日閲覧。
  9. ^ Lundy, Darryl. “Henry Petty-FitzMaurice, 4th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月23日閲覧。
  10. ^ 坂井秀夫 1967, p. 307-309.
  11. ^ a b c Heraldic Media Limited. “Nairne, Lord (S, 1681)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月23日閲覧。
  12. ^ Lundy, Darryl. “Henry William Edmund Petty-FitzMaurice, 6th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月23日閲覧。
  13. ^ Lundy, Darryl. “Charles Hope Petty-FitzMaurice, 7th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月23日閲覧。
  14. ^ Lundy, Darryl. “Charles Maurice Petty-FitzMaurice, 9th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2016年1月23日閲覧。

参考文献

  • 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年。ISBN 978-4641049697 
  • 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年。ASIN B000JA626W 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478 

外部リンク