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これにより、福岡藩は幕末の政権交代において大きく出遅れ、佐幕派の家老達も切腹させられ、[[戊辰戦争]]の際に兵を率いる人材が全くおらず、博徒や喧嘩好き、戦争好きばかり集まる有様で、大砲の音を聞けば逃げ回り、略奪ばかりする質の悪さから、旧幕府軍から笑われ、東北諸藩民の怒りを買い、官軍すら扱いかね、いつも最前線に回されることになった。 |
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そもそも、福岡藩では薩摩や長州、佐賀などのような軍備の近代化が出来ていなかった。ペリー来航を受けて蘭学振興や洋式兵法を説く藩主・長溥を、加藤司書は「殿様は愚昧だから」と切り捨て、蘭学を無視して国学に傾倒し尊皇攘夷を唱え、[[月形深蔵]]・[[月形洗蔵|洗蔵]]ら筑前勤王党、三十九派もあった砲術師範も結束して洋式兵法の導入を阻止していた。薩摩・長州が実際に外国と戦い、留学生を送り、近代兵器を導入し軍備を調えた上での攘夷であった事に対し、福岡の尊皇攘夷派は、伝統的古法に固執し、観念的で守旧的・尚古主義なものであり、新時代を率いる人材がいなかったのである。 |
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また戊辰戦争での出兵費用がかさみ、多額の負債を負い、贋札偽造をしていたのを[[告発]]されて懲罰で[[知藩事]]は[[罷免]]され、福岡藩は国内有数の大藩でありながら、[[廃藩置県]]を待たずして事実上の[[廃藩]]となった。また、贋札偽造にか関わった関係者は切腹させられるなどした。 |
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== 主な受刑者 == |
== 主な受刑者 == |
2020年11月24日 (火) 17:11時点における版
乙丑の獄(いっちゅうのごく)は、1865年(乙丑年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件。乙丑の変、または乙丑の政変と呼ぶ場合もある。
概要
幕末の福岡藩
江戸時代末期、福岡藩は藩主黒田長溥の元「尊王佐幕」を掲げ、幕府を助けながら天皇を尊ぶ公武合体論に似た政治運動を進めていた。長溥自身非常に開明的で、城下に鉄鉱炉を建設し、また鉱山開発を進めるなど「蘭癖大名」と呼ばれるほどであった。また幕末の政治において「開国し政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さず、朝廷と合同しそのまま改革すべし」という保守的な立場から幕府を助け、強い影響力を持つに至った。
これに対し家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする筑前勤王党は「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を唱え、藩主に対し決意を迫っていた。そればかりか、彼らは上意を越え暴走を始める。
勤皇党、福岡藩掌握
両者は対立を続けたまま、1864年に筑前勤皇党が藩政を掌握し、八月十八日の政変の際に京を落ち、長州藩から政変により大宰府天満宮に逃れた三条実美以下七卿・供として付いた土方久元以下元土佐勤皇党の面倒を見たり、長州討伐を前に長州藩を説得したり、西郷隆盛や高杉晋作の間に立ち薩長同盟の世話をするなど一時は幕末の主役に立っていた。月形は西郷・坂本・桂小五郎といった大物と親しかったとされている。また加藤は薩長同盟の際、両藩の仲立ちを頼まれるなど大いに活躍、筑前勤皇党の名を知らしめた。しかし中村は同志にすら敬遠されるほどの過激な勤皇論者であり、不遜の罪を受けて投獄されるほどであった。この彼の行動が悲劇を呼ぶ原因の一つとなる。
長溥にしてみれば、勤皇党は自分の言うことを聞かず勝手をしているように見えて、いい気分はしなかったが、自分自身「勤皇」の点では意見が同じなのでそのままにしておいた。ところがこれが誤解を受けることになる。
事件発生
四境戦争を前に長溥は幕府から「福岡藩は長州藩(の過激派)を庇う気なのか」と叱責を食らうことになる。彼はまったくその気はなく、自身の開明論の立場から、幕府と長州が無用な戦争をせずに済むよう取り計らったつもりであった。しかしその思いは裏目に出た。長溥は幕府に対し、自らの意思を行動で告げなければならなくなった。
そんな中、中村が起こした脱獄事件が起こり、さらには加藤が犬鳴谷に藩主の逃げ城として犬鳴御別館を建設していたが、佐幕派はこれを「加藤司書は長溥を御別館に幽閉し、長知を擁立して実権を握ろうとしている」として藩主に報告。これに対し加藤は大老の黒田溥整と連名で「人心一和を名分に佐幕的立場を改めて欲しい」という内容の建白書を提出したことで藩主・長溥は激怒した。そこへ幕府の長州再征が発令されたため、勤皇派の長州周旋の功績は完全に否定され、佐幕派の復権により藩論は幕府恭順となり、勤皇派弾圧の運びとなる。これきっかけで1865年、藩士ならびに関係者140名以上が逮捕され、加藤・建部以下7名が切腹、月形・海津以下14名が桝木屋(福岡市中央区唐人町)で斬首(うち1名は脱獄するものの力尽き、那珂川から箱崎松原(同市東区箱崎松原)に漂着した遺体を斬られた)、野村望東尼以下15名が流罪という大弾圧が繰り広げられた。
事件の結果
これにより、福岡藩は幕末の政権交代において大きく出遅れ、佐幕派の家老達も切腹させられ、戊辰戦争の際に兵を率いる人材が全くおらず、博徒や喧嘩好き、戦争好きばかり集まる有様で、大砲の音を聞けば逃げ回り、略奪ばかりする質の悪さから、旧幕府軍から笑われ、東北諸藩民の怒りを買い、官軍すら扱いかね、いつも最前線に回されることになった。
そもそも、福岡藩では薩摩や長州、佐賀などのような軍備の近代化が出来ていなかった。ペリー来航を受けて蘭学振興や洋式兵法を説く藩主・長溥を、加藤司書は「殿様は愚昧だから」と切り捨て、蘭学を無視して国学に傾倒し尊皇攘夷を唱え、月形深蔵・洗蔵ら筑前勤王党、三十九派もあった砲術師範も結束して洋式兵法の導入を阻止していた。薩摩・長州が実際に外国と戦い、留学生を送り、近代兵器を導入し軍備を調えた上での攘夷であった事に対し、福岡の尊皇攘夷派は、伝統的古法に固執し、観念的で守旧的・尚古主義なものであり、新時代を率いる人材がいなかったのである。
また戊辰戦争での出兵費用がかさみ、多額の負債を負い、贋札偽造をしていたのを告発されて懲罰で知藩事は罷免され、福岡藩は国内有数の大藩でありながら、廃藩置県を待たずして事実上の廃藩となった。また、贋札偽造にか関わった関係者は切腹させられるなどした。
主な受刑者
切腹
斬首
流刑
参考文献
- 日本歴史学会編「幕末維新人物辞典」
- 『加藤司書の周辺』成松正隆 著、西日本新聞社、平成9年発行
- 『筑前名家人物誌』森政太郎 編、文献出版、昭和54年刊
- 『博多郷土史事典』井上精三 著、葦書房、昭和62年、15ページ