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== 経歴 ==
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=== 斗山時代===
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[[1996年]]高校卒業後、OBベアーズに入団。入団時からエース候補として期待され、[[2000年代]]前半は[[三星ライオンズ]]の[[ペ英洙|裵英洙]](ペ・ヨンス)、[[ロッテ・ジャイアンツ]]の[[孫敏漢]](ソン・ミンハン)と並び称される韓国球界を代表する投手として挙げられた。
[[1996年]]高校卒業後、OBベアーズに入団。入団時からエース候補として期待され、[[2000年代]]前半は[[三星ライオンズ]]の[[裵英洙]](ペ・ヨンス)、[[ロッテ・ジャイアンツ]]の[[孫敏漢]](ソン・ミンハン)と並び称される韓国球界を代表する投手として挙げられた。


[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表|韓国代表]]にも選ばれていたが[[ドーピング]]検査で陽性反応が出たため失格処分となった。その後、[[IBAF]](国際野球連盟)から[[2007年]]以後2年間の国際試合出場停止処分が下された。
[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表|韓国代表]]にも選ばれていたが[[ドーピング]]検査で陽性反応が出たため失格処分となった。その後、[[IBAF]](国際野球連盟)から[[2007年]]以後2年間の国際試合出場停止処分が下された。

2020年11月15日 (日) 22:41時点における版

朴 明桓(パク・ミョンファン)
基本情報
国籍 大韓民国の旗 大韓民国
出身地 ソウル特別市
生年月日 (1977-06-07) 1977年6月7日(47歳)
身長
体重
186 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 1次ドラフトでOBベアーズから指名
初出場 1996年4月16日
最終出場 2015年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 大韓民国の旗大韓民国
WBC 2006年

朴 明桓パク・ミョンファン1977年6月7日 - )は、大韓民国出身の元プロ野球選手投手)。

パク・ミョンファン
各種表記
ハングル 박명환
漢字 朴明桓
発音: パク・ミョンファン
ローマ字 Bak Myeong-hwan
本人表記: Park, Myung Hwan
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経歴

斗山時代

1996年高校卒業後、OBベアーズに入団。入団時からエース候補として期待され、2000年代前半は三星ライオンズ裵英洙(ペ・ヨンス)、ロッテ・ジャイアンツ孫敏漢(ソン・ミンハン)と並び称される韓国球界を代表する投手として挙げられた。

2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表にも選ばれていたがドーピング検査で陽性反応が出たため失格処分となった。その後、IBAF(国際野球連盟)から2007年以後2年間の国際試合出場停止処分が下された。

2006年オフ、フリーエージェント資格を取得。しかし、投げるに不安を持ち、故障がちな体質のため、所属球団の斗山ベアーズは残留交渉に消極的に応じて決裂した。日本球界進出を図り、複数球団と交渉したが、納得のいく条件を提示されず断念。結局、破格の条件を提示したLGツインズに移籍。彼の補償選手には申在雄が選ばれた。

LG時代

移籍した初年度は連敗ストッパーとして期待に答える活躍をみせたが、翌年再び故障が再発して、シーズン序盤から0勝3敗、防御率8.61と不振を極めた末、肩の手術を受けてリタイア。同じく成績不振で途中解雇されたジェイミー・ブラウンとともにチームの最下位転落の一因として挙げられた。

再起を期した2009年も、故障に苦しみ1軍登板は数えるほどに終わり2年連続未勝利に終わった。

2010年は3年ぶりの勝ち星を含む4勝をあげたが、またもや故障で戦線離脱し完全復活とはならなかった。こうして期待を裏切り続けたこともあり、2011年の年俸は、2007年から2010年までの長期契約で結んだ額(5億ウォン)の10分の1となる5000万ウォンとなってしまった。

2011年以降2年連続で1軍登板はなく、2012年限りで退団となった。

NC時代

2013年10月NCダイノスと契約し2014年には約4年ぶりの1軍登板を果たした。

2015年は2010年以来となる勝利投手となったが同年限りで引退した。

引退後

NCの二軍投手コーチ補助に転身したが、2016年限りで退任した[1]

2018年、京畿道チャレンジリーグ・城南ブルーパンダスの投手コーチを務めた。

プレースタイル・人物

甲状腺の病気を抱えており、2005年シーズンには民間療法として冷やしたキャベツ帽子の中に入れて登板していたため、日本でも「キャベツ男」として話題になった。現在はそのような行為は正式にルールで禁止されている。

制球難で通算暴投数は119個。これはKBO最多記録である。

詳細情報

年度別投手成績


































W
H
I
P
1996 OB 28 7 12 3.84 0 185.1 149 86 79 18 87 139 6.76 1.27
1997 26 8 12 3.96 0 154.2 138 74 68 8 82 126 7.35 1.43
1998 31 14 11 3.22 0 187.0 159 75 67 8 120 181 8.71 1.49
1999 斗山 7 1 1 4.96 1 16.1 13 9 9 0 13 20 11.18 1.61
2000 6 1 0 3.09 0 11.2 6 4 4 3 7 19 15.27 1.16
2001 38 8 5 4.29 7 77.2 76 41 37 6 34 77 8.98 1.42
2002 30 14 10 3.44 0 185.2 173 78 71 12 75 169 8.21 1.34
2003 19 5 10 5.19 0 100.2 113 65 58 13 49 76 6.83 1.62
2004 26 12 3 2.50 0 158.2 130 50 44 4 59 162 9.22 1.19
2005 20 11 3 2.96 0 112.1 81 40 37 4 59 113 9.08 1.25
2006 28 7 7 3.46 1 122.1 90 52 47 6 50 132 9.73 1.15
2007 LG 27 10 6 3.19 0 155.1 133 59 55 11 76 117 6.79 1.35
2008 5 0 3 8.61 0 23.0 32 22 22 1 21 16 6.26 2.30
2009 4 0 0 6.19 0 16.0 14 12 11 2 9 6 3.38 1.44
2010 15 4 6 6.63 0 76.0 94 62 59 17 34 46 5.45 1.65
2011 1軍出場なし
2012
2014 NC 5 0 2 7.20 0 5.0 7 5 4 1 9 7 12.60 3.00
2015 11 1 0 4.85 0 26.0 15 14 14 6 8 15 5.19 1.58
通算:19年 326 103 93 3.81 9 1613.2 1421 748 683 120 797 1444 7.93 1.35
  • 太字はリーグ最高

脚注

外部リンク