「新韓党」の版間の差分
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[[1965年]][[6月22日]]に「[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]」が締結され、[[8月14日]]、[[民主共和党 (韓国)|民主共和党]](共和党)単独で条約案が[[国会 (大韓民国)|国会]]で批准されるやいなや、これに反発して議員職を辞退していた民衆党内強硬派([[尹潽善]]系列)は、民衆党から脱党した。その後、翌年の1967年に予定されていた大統領選挙と[[第7代総選挙 (大韓民国)|国会議員選挙]]に向けて、民主党クラブや旧自由党系、[[革新]]系の一部と学会代表を結集、[[1966年]][[2月15日]]に結成人発起大会を開き、首席代表に尹{{lang|ko|潽}}善、顧問に[[張沢相]]、代表委員に[[金度演]]、鄭一亨を選出後、[[3月30日]]に創立大会を開き、尹{{lang|ko|潽}}善を党総裁及び次期[[大統領 (大韓民国)|大統領]]候補に指名した。 |
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新韓党は、民政のための[[政権交代]]を当面の最大目標に設定し、韓国各地で共和党[[政権]]の非理を暴露、糾弾する集会を開催するなどの、[[与党]]に対する強硬な闘争を展開した。しかし、[[1967年大韓民国大統領選挙|1967年の大統領選挙]]で野党統一候補を擁立すべきとの声に押され、民衆党の大統領候補である[[兪鎮午]]の候補辞退を条件に、脱党に合意、1967年2月の新民党結成と共に自動的に解体された。 |
新韓党は、民政のための[[政権交代]]を当面の最大目標に設定し、韓国各地で共和党[[政権]]の非理を暴露、糾弾する集会を開催するなどの、[[与党]]に対する強硬な闘争を展開した。しかし、[[1967年大韓民国大統領選挙|1967年の大統領選挙]]で野党統一候補を擁立すべきとの声に押され、民衆党の大統領候補である[[兪鎮午]]の候補辞退を条件に、脱党に合意、1967年2月の新民党結成と共に自動的に解体された。 |
2020年9月25日 (金) 03:19時点における版
新韓党 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 신한당 |
漢字: | 新韓黨 |
発音: | シナンダン |
新韓党(しんかんとう)は、第三共和国時代の、尹潽善系列の民衆党内の改憲派が「鮮明野党」を掲げて結成された韓国の保守系野党。民衆党と統合し、新民党結成によって解体された。
経緯
1965年6月22日に「日韓基本条約」が締結され、8月14日、民主共和党(共和党)単独で条約案が国会で批准されるやいなや、これに反発して議員職を辞退していた民衆党内強硬派(尹潽善系列)は、民衆党から脱党した。その後、翌年の1967年に予定されていた大統領選挙と国会議員選挙に向けて、民主党クラブや旧自由党系、革新系の一部と学会代表を結集、1966年2月15日に結成人発起大会を開き、首席代表に尹潽善、顧問に張沢相、代表委員に金度演、鄭一亨を選出後、3月30日に創立大会を開き、尹潽善を党総裁及び次期大統領候補に指名した。
新韓党は、民政のための政権交代を当面の最大目標に設定し、韓国各地で共和党政権の非理を暴露、糾弾する集会を開催するなどの、与党に対する強硬な闘争を展開した。しかし、1967年の大統領選挙で野党統一候補を擁立すべきとの声に押され、民衆党の大統領候補である兪鎮午の候補辞退を条件に、脱党に合意、1967年2月の新民党結成と共に自動的に解体された。
出典
- 韓国史編纂委員会 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』日本評論社