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2020年9月25日 (金) 03:18時点における版
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名称 | ||||
朝鮮語表記 | 대한축구협회 | |||
英語表記 | Korea Football Association | |||
略称 | KFA | |||
FIFAコード | KOR | |||
歴史 | ||||
設立 | 1928年 | |||
FIFA加盟 | 1948年 | |||
AFC加盟 | 1954年 | |||
EAFF加盟 | 2002年 | |||
組織 | ||||
国または地域 | 韓国 | |||
会長 | 鄭夢奎(チョン・モンギュ) | |||
公式サイト |
大韓サッカー協会 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 대한축구협회 |
漢字: | 大韓蹴球協會 |
発音: | デーハン チュック ヒョプェ |
日本語読み: | だいかんしゅうきゅうきょうかい |
英語: |
Korea Football Association (KFA) |
社団法人大韓サッカー協会(だいかんサッカーきょうかい、대한축구협회)は、 大韓民国(韓国)のサッカーの活動と振興を行う文化体育観光部所管の社団法人である。サッカー大韓民国代表を総括し、傘下にKリーグクラシック(1部)・Kリーグ(2部)を運営する韓国プロサッカー連盟、ナショナルリーグを運営する韓国実業サッカー連盟などを持つ。
韓国サッカー史
近代サッカーの伝播
韓国における近代サッカーの伝播は、朝鮮時代末期にイギリスの船員から伝わったといわれている。国号が大韓帝国となった1897年にはイギリス艦船の乗務員らが朝鮮王朝の宮内部参理、御殿、御前通訳官にサッカーを正式に紹介されたとの記録もある。
1904年には現在のソウル市に作られた外国語学の体育科目に採用されると、1905年6月10日には初の公式戦「大韓体育クラブvs華城(ファソン)基督青年会」がソウル訓練院(現・東大門(トンデムン)運動場)にて行われた。
朝鮮蹴球協会と日本代表
大韓帝国の各地で小規模なサッカー協会が作られるようになり、韓国併合時代(1910年-1945年:日本領朝鮮)の1920年7月13日には約90名の有志らが「朝鮮体育会」を創立。1921年に大日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会(JFA))が創立されると、その7年後の1928年5月22日には「朝鮮審判協会」が誕生する。この組織を母体に1933年9月19日には有志20名余りにより「朝鮮蹴球協会」が正式に創立され、大日本蹴球協会の理事でもあった朴勝彬(パク・スンビン)が初代会長に就任した。
1936年に行われたベルリンオリンピック(ドイツ)では日本代表に朝鮮半島から金容植(キム・ヨンシク)が選出されると、1940年に行われる予定であった東京オリンピック (1938年7月15日に開催を返上)では金容植、裴宗鎬(ペ・ジョンホ)、金成汗(キム・ソンガン)、李裕瑩(イ・ユヒョン)の4名が選出される。1939年と1940年に行われた日本、満州国、中華民国(汪兆銘政権)が出場する日満華交歓競技大会や東亜競技大会には、東京オリンピックに出場予定だった朝鮮からの選手も日本代表として出場した。
大韓サッカー協会の誕生
1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮半島はその統治から脱すると、その年の9月には早くも朝鮮蹴球協会(現在の大韓サッカー協会)が再建される。その2年後の1947年には国際サッカー連盟(FIFA)と国際オリンピック委員会(IOC)への加盟も正式に認められた。
大韓民国が正式に樹立した1948年に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟。1948年のロンドンオリンピックには韓国代表として初の国際舞台を踏んだ。1954年第2回マニラアジア大会中の1954年5月8日に、他の12か国と共にアジアサッカー連盟(AFC)を創設し、同時にAFCに加盟した[1]。同年の6月16日からはFIFAワールドカップ・スイス大会に参加。初の進出であったがグループステージ全敗に終わった。
1956年から開催されたアジアカップでは、第1回大会と第2回大会(1960年)に連続して優勝。1960年代はこれ以降、キングスカップ、アジア大会、アジアユース選手権などで数多くの優勝を収めるなどアジアの強豪国として、「アジアの虎」と呼ばれるようになった。
しかし世界での活躍はあまり芳しくなく、東京オリンピック (1964年)には本戦に出場したものの予選で敗退。次のメキシコオリンピック(1968年)ではアジア地区予選で得失差により日本が本選に進出して銅メダルを獲得したため、アジア最初の上位入賞を先に果たされてしまった。
1971年、韓国で初めての国際大会となる「朴大統領カップ争奪アジアサッカー大会」を開催し、世界各国の代表や有名クラブチームが参加。この大会は大会名を変えつつ、1999年まで定期的に行われていた。
Kリーグの誕生と代表の躍進
1983年には「スーパーリーグ」が誕生。それまでの実業団だけでなくプロクラブも参加するこのリーグは、その後プロクラブのみの編成となり、1994年にはKリーグに発展。地方に「地域密着型」クラブを誕生させ、毎年のように参加クラブを増加して全国各地にサッカーを普及させるという手法は、Jリーグを手本にしたといわれるが、これにより韓国サッカーのレベルはますます向上し、とくに「アジアクラブ選手権」では1996年から3年連続でKリーグのクラブが優勝するなどの成果を残した。
また韓国代表では1986年のワールドカップ・メキシコ大会から連続して本大会に参加をし、とくに自国での開催となったワールドカップ・韓国・日本大会では4位となる躍進を遂げた。なお、この大会において韓国の試合における誤審疑惑があり、FIFAの映像ライセンスに基づいて制作されたFIFA創立100周年記念のDVDにおいて「世紀の10大誤審」のうち6・7位が韓国対イタリア戦、8・9位が韓国対スペイン戦となったため、協会側は猛反発した[2]。
財務
2002年のワールドカップ・韓国・日本大会以降、スポンサー契約によって豊富な資金を集め、年間予算は1000億ウォン(約69億円)以上である[3]。2008年〜2011年の間、協会はナイキコリアと4年間で490億ウォン[約32億円](現金250億ウォン[約17億円]+物品240億ウォン[約15億円])の契約をしていた。2012年1月13日、協会はナイキコリアと2012年〜2019年まで8年間で総額1200億ウォン[約79億円](現金600億ウォン[約39億円]+物品600億ウォン)、1年間では現金75億ウォン(約5億円)とサッカー用品75億ウォン分を受け取る再契約を交わした[4]。これは韓国スポーツ史上最高額の契約である。現在のスポンサーは12社である。
組織
年 | 名前 (代数) |
---|---|
朝鮮審判協会 | |
1928–33 | シン・ギジュン |
朝鮮蹴球協会 | |
1933–34 | 朴勝彬(パク・スンビン) (1) |
1934–38 | 呂運亨(ヨ・ウニョン) (2) |
1938–45 | 高元勳(コ・ウォンフン) (3,4) |
1945–48 | ハ・キョンドク (5,6) |
大韓サッカー協会 | |
1948–49 | 申翼煕(シン・イッキ) (7) |
1949 | 洪性夏(ホン・ソンハ) (8) |
1949–50 | 尹潽善(ユン・ボソン) (9) |
1950–52 | 洪性夏(ホン・ソンハ) (10,11) |
1952–54 | 張沢相(チャン・テクサン) (12) |
1954–55 | イ・ジョンリム (13) |
1955 | 玄正柱(ヒョン・ジョンジュ) (14) |
1955–57 | 金明学(キム・ミョンハク) (15, 16) |
1957–60 | キム・ユンギ (17, 18) |
1960 | 張基榮(チャン・ギヨン) (19) |
1960–61 | ジョン・ムンギ (20) |
1961–62 | 張基榮(チャン・ギヨン) (21) |
1962 | キム・ユンギ (22) |
1962–63 | 張基榮(チャン・ギヨン) (23) |
1963 | 黄燁(ファン・ヨプ) (24) |
1963–64 | キム・ユンギ (25) |
1964 | 閔寬植(ミン・グァンシク) (26) |
1964–70 | 崔致煥(チェ・チファン) (27–30) |
1970–73 | 張德鎭(チャン・ドクジン) (31, 32) |
1973–75 | コ・テジン (33, 34) |
1975–78 | キム・ユンハ (35–37) |
1978–79 | 朴埈弘(パク・ジュンホン) (38) |
1979–87 | 崔淳永(チェ・スンヨン) (39–43) |
1987–88 | 李鍾煥(イ・ジョンファン) (44) |
1988–93 | 金宇中(キム・ウジュン) (45–46) |
1993–09 | 鄭夢準(チョン・モンジュン) (47–50) |
2009–13 | 趙重衍(チョ・ジュンヨン) (51) |
2013– | 鄭夢奎(チョン・モンギュ) (52) |
- 会長
- 部会長
- 専務理事
- 事務総長
- 協議局
- 審判室
- 技術教育部
- 広報局
- 対外協力局
- 代表チーム支援部
- 国際部
- 総務部
- 事業局
- 技術局
- ワールドカップ記念館
- 企画室
- 連盟
- プロ(Kリーグ)
- 実業団
- 大学
- 高等学校
- 中学校
- 初等学校
- 女性
- 代議員総会
- 理事会
- 技術分科委員会
- 競技分科委員会
- 審判分科委員会
- 賞罰分科委員会
- 医務分科委員会
- 幼少年分科委員会
その他
- 2016年1月30日、カタールの首都ドーハで行われたU-23(23歳以下)アジア選手権決勝戦の日韓戦に際して大韓サッカー協会は試合前、「応援スローガンを『日本は韓国の優勝自販機』に決めた」と発表[5]、試合は3対2で日本が勝利を収めた[6]。
- 2019年5月29日、中国四川省成都で開かれていたサッカー男子U18のユース国際大会で、優勝した韓国チームの選手がトロフィーを足で踏みつけ、中国側に侮辱行為だと抗議される騒ぎが発生し、韓国側が謝罪した[7]。
関連項目
脚注
- ^ About AFC(AFCについて 歴史など説明)-AFC公式HP英語版2007年9月6日 Archived 2012年11月14日, at the Wayback Machine.
- ^ 日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが認定?number 2004年12月2日
- ^ 大韓サッカー協会、横領の職員に退職金1億ウォン超-朝鮮日報2012/01/27
- ^ 韓国サッカー協会、ナイキと8年・1200億ウォンで契約(1)-中央日報日本語版2012/1/16
- ^ “大韓サッカー協会「日本は韓国の優勝自販機」”. chosunonline (2016年1月30日). 2016年1月31日閲覧。
- ^ “サッカーU23リオ五輪予選 日本が優勝”. NHK NEWS WEB (2016年1月31日). 2016年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月31日閲覧。
- ^ 韓国、優勝トロフィー踏みつけ謝罪 中国のサッカー大会朝日新聞 2019年5月30日
外部リンク
- 大韓サッカー協会公式サイト(朝鮮語、英語)
- 대한축구협회 (@thekfa) - X(旧Twitter) (朝鮮語)
- 대한축구협회 (thekfa) - Facebook
- FIFA - 韓国
- EAFF - 韓国