「マルクス・クラウディウス・グリキア」の版間の差分
m →経歴 |
|||
15行目: | 15行目: | ||
==経歴== |
==経歴== |
||
紀元前249年、[[執政官]](コンスル)[[プブリウス・クラウディウス・プルケル]]は[[ドレパナ沖の海戦]]で[[カルタゴ]]海軍に大敗した。プルケルは戦死しなかったが、ローマに呼び戻された。ここでプルケルはグリキアを「戦争のための独裁官」({{lang-la|rei gerundae causa}})に指名した<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]『皇帝伝:[[ティベリウス]]』、2</ref>。しかし解放奴隷の息子が独裁官に指名されたことは前代未聞であり、元老院は直ちに彼を解任した。しかし、グリキアが[[マギステル・エクィトゥム]](騎兵長官)に指名した[[ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官)|ルキウス・カエキリウス・メテッルス]]は認められ、後任独裁官の[[アウルス・アティリウス・カラティヌス]]もメテッルスを騎兵長官としている<ref>カピトリヌスのファスティ</ref>。 |
紀元前249年、[[執政官]](コンスル)[[プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前249年の執政官)|プブリウス・クラウディウス・プルケル]]は[[ドレパナ沖の海戦]]で[[カルタゴ]]海軍に大敗した。プルケルは戦死しなかったが、ローマに呼び戻された。ここでプルケルはグリキアを「戦争のための独裁官」({{lang-la|rei gerundae causa}})に指名した<ref>[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]『皇帝伝:[[ティベリウス]]』、2</ref>。しかし解放奴隷の息子が独裁官に指名されたことは前代未聞であり、元老院は直ちに彼を解任した。しかし、グリキアが[[マギステル・エクィトゥム]](騎兵長官)に指名した[[ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官)|ルキウス・カエキリウス・メテッルス]]は認められ、後任独裁官の[[アウルス・アティリウス・カラティヌス]]もメテッルスを騎兵長官としている<ref>カピトリヌスのファスティ</ref>。 |
||
この解任にも関わらず、ルディの競技会には独裁官用の紫の縁取りがついた[[トガ]]を着用しての出席が認められている<ref>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、[[:en:s:From_the_Founding_of_the_City/Book_19|XIX(要約)]]</ref>。 |
この解任にも関わらず、ルディの競技会には独裁官用の紫の縁取りがついた[[トガ]]を着用しての出席が認められている<ref>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、[[:en:s:From_the_Founding_of_the_City/Book_19|XIX(要約)]]</ref>。 |
2020年9月17日 (木) 08:07時点における版
マルクス・クラウディウス・グリキア Marcus Claudius C. f. Glicia | |
---|---|
出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 | 独裁官(紀元前249年) |
マルクス・クラウディウス・グリキア(ラテン語: Marcus Claudius Glicia、生没年不詳)またはグリティウスは紀元前3世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前249年に独裁官(ディクタトル)を務めたが、直ちに解任されている。
出自
父の名前はガイウスであるが、解放奴隷であった。従ってクラウディウス氏族の一員ではあるものの、パトリキ(貴族)ではなくプレブス(平民)である。
経歴
紀元前249年、執政官(コンスル)プブリウス・クラウディウス・プルケルはドレパナ沖の海戦でカルタゴ海軍に大敗した。プルケルは戦死しなかったが、ローマに呼び戻された。ここでプルケルはグリキアを「戦争のための独裁官」(ラテン語: rei gerundae causa)に指名した[1]。しかし解放奴隷の息子が独裁官に指名されたことは前代未聞であり、元老院は直ちに彼を解任した。しかし、グリキアがマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に指名したルキウス・カエキリウス・メテッルスは認められ、後任独裁官のアウルス・アティリウス・カラティヌスもメテッルスを騎兵長官としている[2]。
この解任にも関わらず、ルディの競技会には独裁官用の紫の縁取りがついたトガを着用しての出席が認められている[3]。
紀元前236年、グリキアは執政官ガイウス・リキニウス・ウァルスのレガトゥス(副官)としてコルシカに派遣されたが、その権限を有していなかったにも関わらず講和を結んだとして罰せられた[4][5][6]。彼はコルシカから呼び戻され、投獄、追放、あるいは処刑されたとされている。但し、資料によってはマルクス・クラウディウス・クリネアスとするものもある。また、Wilhelm Drumannは、このレガトゥスはグリキアではなく「ローマの剣」と呼ばれたマルクス・クラウディウス・マルケッルスの同名の父としている[7]。
脚注
参考資料
- カピトリヌスのファスティ
- ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス『皇帝伝』
- カッシウス・ディオ『ローマ史』
- ウァレリウス・マクシムス『著名言行録』
- ゾナラス『歴史梗概』
- Drumann, Wilhelm. Geschichte Roms in seinem Übergange von der republikanischen zur monarchischen Verfassung oder Pompeius, Caesar, Cicero und ihre Zeitgenossen. Hildesheim, 1964
- Mark Claudius Glytius (English) . - in Smith 's Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology.