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'''韓 多峰'''(かん たほう)は[[中華民国]]の軍人。[[北京政府]]、[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]、[[国民政府]]([[国民革命軍]])に属した。[[馮玉祥]]配下の「'''十三太保'''」<ref>韓多峰に加え、[[孫良誠]]、[[韓復]]、[[石友三]]、[[張維璽]]、[[過之綱]]、[[劉汝明]]、[[聞承烈]]、[[佟麟閣]]、[[孫連仲]]、[[程希賢]]、[[葛金章]]、[[趙席聘]]の13人を指す。</ref>の1人としても知られる。号は'''秀岩'''。


== 事績 ==
== 事績 ==
馮玉祥率いる第16混成旅に加入し、着実に昇進を重ねた。[[1926年]]([[民国紀元|民国]]15年)、[[国民軍 (中華民国)|西北陸軍]]第40旅旅長に昇進している。[[1929年]](民国18年)、[[河南省 (中華民国)|河南省]]政府委員に任ぜられた。[[中原大戦]]で馮が下野、旧国民革命軍第2集団軍が完全に崩壊すると、韓多峰は元同僚の[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席[[韓復ク|韓復&#x6998;]]の下に身を寄せ、[[1935年]](民国24年)、山東省政府顧問の地位を与えられた。<ref name=Liu>劉主編(2005)、2267頁。</ref>
馮玉祥率いる第16混成旅に加入し、着実に昇進を重ねた。[[1926年]]([[民国紀元|民国]]15年)、[[国民軍 (中華民国)|西北陸軍]]第40旅旅長に昇進している。[[1929年]](民国18年)、[[河南省 (中華民国)|河南省]]政府委員に任ぜられた。[[中原大戦]]で馮が下野、旧国民革命軍第2集団軍が完全に崩壊すると、韓多峰は元同僚の[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府主席[[韓復]]の下に身を寄せ、[[1935年]](民国24年)、山東省政府顧問の地位を与えられた。<ref name=Liu>劉主編(2005)、2267頁。</ref>


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2020年9月15日 (火) 21:45時点における版

韓多峰
プロフィール
出生: 1888年光緒14年)
死去: 1987年3月25日
中華人民共和国の旗 中国山東省済南市
出身地: 清の旗 山東省泰安府東平州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 韓多峰
簡体字 韩多峰
拼音 Hán Duōfēng
ラテン字 Han Tuo-feng
和名表記: かん たほう
発音転記: ハン ドゥオフォン
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韓 多峰(かん たほう)は中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)に属した。馮玉祥配下の「十三太保[1]の1人としても知られる。号は秀岩

事績

馮玉祥率いる第16混成旅に加入し、着実に昇進を重ねた。1926年民国15年)、西北陸軍第40旅旅長に昇進している。1929年(民国18年)、河南省政府委員に任ぜられた。中原大戦で馮が下野、旧国民革命軍第2集団軍が完全に崩壊すると、韓多峰は元同僚の山東省政府主席韓復榘の下に身を寄せ、1935年(民国24年)、山東省政府顧問の地位を与えられた。[2]

1936年(民国25年)6月、陸軍中将銜を授与される。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)1月に、韓復榘は「敵前逃亡」の罪などにより蔣介石の命で処刑されてしまったが、韓多峰は同年8月に山東省第4区行政督察専員兼保安司令に任ぜられ、引き続き日本軍との戦いを続けている。戦後、韓多峰は軍人から引退し、山東省で教育振興事業に取り組んだ。中華人民共和国成立後も大陸に留まり、山東省人民代表大会代表、同省政治協商会議委員などを歴任した。1987年3月25日済南市にて病没。享年100。[2]

著作

  • 『一位西北軍將領的自述』
  • 『韓復榘醞釀“山東獨立”未遂的經過』

  1. ^ 韓多峰に加え、孫良誠韓復榘石友三張維璽過之綱劉汝明聞承烈佟麟閣孫連仲程希賢葛金章趙席聘の13人を指す。
  2. ^ a b 劉主編(2005)、2267頁。

参考文献

  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0