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'''費 禕'''(ひ い、? - [[253年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]にかけての政治家・武将。[[字]]は'''文偉'''。[[荊州]][[江夏郡]]鄳県(現在の[[河南省]][[羅山県]])の人。同族は費伯仁・[[費観]]。子は費承・費恭・女子一人([[劉璿]]の妻)。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書に伝が立っている。
'''費 禕'''(ひ い、? - [[253年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]にかけての政治家・武将。[[字]]は'''文偉'''。[[荊州]][[江夏郡]]鄳県(現在の[[河南省]][[羅山県]])の人。同族は費伯仁・[[費観]]。子は費承・費恭・女子一人([[劉璿]]の妻)。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書に伝が立っている。


[[蒋エン|琬]]・[[董允]]などとともに蜀の政治を支えた人物。[[諸葛亮]]・琬・董允と共に蜀の四相と称される。
[[蔣琬|琬]]・[[董允]]などとともに蜀の政治を支えた人物。[[諸葛亮]]・琬・董允と共に蜀の四相と称される。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
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帰国すると[[侍中]]に昇進し、その後[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。[[230年]]に中護軍となり<ref>[[231年]]に諸葛亮が[[李厳]]を罷免する際の上奏では、行中護軍・偏将軍として名を連ねている。</ref>、後に司馬となった。その頃、幕営では常に[[魏延]]と[[楊儀]]がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すという事態があった。費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、物の分別を二人に諭した。「力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕の取り成しがあってのことであった」と陳寿は綴っている。一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚した際、費禕は両方の事件に関与した<ref>魏延伝、楊儀伝参照。</ref>。
帰国すると[[侍中]]に昇進し、その後[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。[[230年]]に中護軍となり<ref>[[231年]]に諸葛亮が[[李厳]]を罷免する際の上奏では、行中護軍・偏将軍として名を連ねている。</ref>、後に司馬となった。その頃、幕営では常に[[魏延]]と[[楊儀]]がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すという事態があった。費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、物の分別を二人に諭した。「力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕の取り成しがあってのことであった」と陳寿は綴っている。一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚した際、費禕は両方の事件に関与した<ref>魏延伝、楊儀伝参照。</ref>。


その後は[[蒋エン|琬]]と共に蜀漢を支え、後軍師を経て[[尚書令]]<ref>尚書令としての仕事ぶりについては、『費禕別伝』に詳細がある。</ref>となった。北伐の再開を計画する琬に反対したようである<ref>琬伝参照。なお後主伝の[[241年]]の記録には、漢中で琬と費禕が数ヶ月協議していたとある。</ref>。琬の病が重くなった[[243年]]には、[[大将軍]]・[[録尚書事]]に昇進した。[[244年]]に[[魏 (三国)|魏]]が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、[[王平]]と協力して魏軍を破っている([[興勢の役]])。その後、琬が固辞していた益州[[刺史]]も兼任するようになり、琬の没後、[[248年]]より費禕が[[漢中郡|漢中]]に駐屯し、軍事・国政の全てを担った。また[[姜維]]は、これより前の243年に琬から[[涼州]]刺史に任命され、[[247年]]には[[衛将軍]]・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在となっていた。姜維が大軍を動かして北伐を再開することを希望していたが、費禕は「[[丞相]](諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず<ref>姜維伝の引く『漢晋春秋』に掲載。</ref>、まず内政の安定を計ることを第一とした。
その後は[[蔣琬|琬]]と共に蜀漢を支え、後軍師を経て[[尚書令]]<ref>尚書令としての仕事ぶりについては、『費禕別伝』に詳細がある。</ref>となった。北伐の再開を計画する琬に反対したようである<ref>琬伝参照。なお後主伝の[[241年]]の記録には、漢中で琬と費禕が数ヶ月協議していたとある。</ref>。琬の病が重くなった[[243年]]には、[[大将軍]]・[[録尚書事]]に昇進した。[[244年]]に[[魏 (三国)|魏]]が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、[[王平]]と協力して魏軍を破っている([[興勢の役]])。その後、琬が固辞していた益州[[刺史]]も兼任するようになり、琬の没後、[[248年]]より費禕が[[漢中郡|漢中]]に駐屯し、軍事・国政の全てを担った。また[[姜維]]は、これより前の243年に琬から[[涼州]]刺史に任命され、[[247年]]には[[衛将軍]]・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在となっていた。姜維が大軍を動かして北伐を再開することを希望していたが、費禕は「[[丞相]](諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず<ref>姜維伝の引く『漢晋春秋』に掲載。</ref>、まず内政の安定を計ることを第一とした。


[[251年]]、[[成都]]に一度帰還したが「都に宰相の位が見当たらぬ」という望気者の占断を受け、冬には漢寿に駐屯していた。
[[251年]]、[[成都]]に一度帰還したが「都に宰相の位が見当たらぬ」という望気者の占断を受け、冬には漢寿に駐屯していた。

2020年9月15日 (火) 15:51時点における版

費禕
成都武侯祠の費禕塑像
蜀漢
大将軍録尚書事・成郷侯
出生 生年不詳
荊州江夏郡鄳県(現在の河南省羅山県
死去 延熙16年(253年
益州漢中郡漢寿県
拼音 Fèi Yī
文偉
諡号 敬侯
主君 劉備劉禅
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費 禕(ひ い、? - 253年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての政治家・武将。文偉荊州江夏郡鄳県(現在の河南省羅山県)の人。同族は費伯仁・費観。子は費承・費恭・女子一人(劉璿の妻)。『三国志』蜀書に伝が立っている。

蔣琬董允などとともに蜀の政治を支えた人物。諸葛亮・蔣琬・董允と共に蜀の四相と称される。

略歴

父母を早くに亡くし、一族で一世代上に当たる費伯仁に身を寄せた。伯仁の姑が当時益州の牧(地方長官)であった劉璋の母であった。この縁で費伯仁が、当時の混乱の時代において比較的安定していた益州に呼ばれたため、費禕も義父の計らいで益州へ遊学した。

214年劉備が益州を支配すると、益州に留まりその家臣となった。董允・許叔龍と共にその盛名を謳われたという[1]。政治手腕に優れていたため、友人の董允と共に劉備の嫡子劉禅の補佐を任されて舎人・庶子となり、劉禅が即位すると黄門侍郎に任命された[2]。諸葛亮にも厚く信頼され[3]、諸葛亮の命を受けてとの交渉に向かった時には、孫権の傍らにいた諸葛恪羊衜から舌鋒鋭く論争を挑まれたが、辞儀を乱さず理に従いつつ答えてついに屈せず、孫権から「君は幾許もしない間に必ず蜀の中心人物になる」と言われ、その性格と才能を高く評価された[4]

帰国すると侍中に昇進し、その後北伐に際して、諸葛亮に請われ参軍となった。230年に中護軍となり[5]、後に司馬となった。その頃、幕営では常に魏延楊儀がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が涙を流すという事態があった。費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、物の分別を二人に諭した。「力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕の取り成しがあってのことであった」と陳寿は綴っている。一方で諸葛亮の死後、魏延と楊儀が相次いで失脚した際、費禕は両方の事件に関与した[6]

その後は蔣琬と共に蜀漢を支え、後軍師を経て尚書令[7]となった。北伐の再開を計画する蔣琬に反対したようである[8]。蔣琬の病が重くなった243年には、大将軍録尚書事に昇進した。244年が蜀侵攻を企てた際は、費禕が総指揮を執り、王平と協力して魏軍を破っている(興勢の役)。その後、蔣琬が固辞していた益州刺史も兼任するようになり、蔣琬の没後、248年より費禕が漢中に駐屯し、軍事・国政の全てを担った。また姜維は、これより前の243年に蔣琬から涼州刺史に任命され、247年には衛将軍・録尚書事となり、費禕に次ぐ存在となっていた。姜維が大軍を動かして北伐を再開することを希望していたが、費禕は「丞相(諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず[9]、まず内政の安定を計ることを第一とした。

251年成都に一度帰還したが「都に宰相の位が見当たらぬ」という望気者の占断を受け、冬には漢寿に駐屯していた。

252年には大将軍府の開府が許された。

253年、漢寿での正月の宴席にて、強かに酔った処を魏の降将である郭循[10]に刺殺され、敬侯と諡された。先の占断は費禕の死を予言する物であった。死後、陳祗が国政を輔弼し姜維が軍事を主導すること事と成ったが、彼の後を継げる人物がおらず、また黄皓の台頭と連年の北伐により、蜀漢は衰退の一途を辿ることとなった。

広元市昭化区に墓所が残る。地級文物保護単位。

人物

費禕伝に引かれている『費禕別伝』によると、尚書令時代の費禕は日々の膨大な政事を過ちなくこなしつつも、宴席や博打事などにも遊び呆けていた。しかし、同職を引き継いだ董允がこれを真似ようとすると、数日で仕事が大きく遅滞した。董允は「人の能力の差とはこれ程あるものか。私の力は(費禕に)全く及ばない。一日中仕事をしていても、全く余裕がないではないか」と嘆いた。一方、私生活での費禕は慎み深く質素で、家に蓄財をすることはなかった。

244年の魏軍による漢中侵攻の際、出陣直前に来敏が費禕を訪ねてきて「しばらく君と会えなくなるから、日頃の囲碁の決着をつけておこう」と申し出た。費禕は勝負を受け、二人で囲碁を打ち始めたが、出陣に際して周囲が慌しくなってゆく様子に、来敏の方が耐えられなくなり「君を試すつもりで勝負を申し出たが、この度胸の据わり具合ならば、いざ前線にあっても何の心配も要らないだろう」と感嘆の意を表した。果たして費禕が前線に赴き、既定の方針に従って指揮を執ったところ、見事に魏軍を撃破し退けたという。

伝承

三国時代の223年(呉の黄武2年)、呉の孫権によって軍事目的の物見櫓として建築されたが、後には主に観光目的の楼閣になった(武漢の代表的な名所である黄鶴楼)。費禕が黄色い鶴に乗って飛来し、ここで休んだという伝説[11]が存在する。

脚注

  1. ^ 許靖の子の葬儀での逸話については董允を参照。
  2. ^ 華陽国志』「劉後主志」によれば224年
  3. ^ 後の南征からの帰還後、低い序列であったにも関わらず、特別に車への同乗を許したという逸話がある。
  4. ^ 『費禕別伝』に詳しい。
  5. ^ 231年に諸葛亮が李厳を罷免する際の上奏では、行中護軍・偏将軍として名を連ねている。
  6. ^ 魏延伝、楊儀伝参照。
  7. ^ 尚書令としての仕事ぶりについては、『費禕別伝』に詳細がある。
  8. ^ 蔣琬伝参照。なお後主伝の241年の記録には、漢中で蔣琬と費禕が数ヶ月協議していたとある。
  9. ^ 姜維伝の引く『漢晋春秋』に掲載。
  10. ^ 魏側の記録によると「郭脩」とある。当初は劉禅を狙っていたが、果たせなかったため、費禕が標的になった(郭循自身も直後に殺害されている)。8月になって、魏帝曹芳は詔を下し、郭脩に「長楽郷侯」の爵位を授け、「威侯」と諡した。このため、初めから刺客として蜀に送り込まれた可能性が高い。なお、詔で「偽大将軍費禕」と呼んでいる。魏は蜀漢の存在自体を認めていない以上、蜀漢の官職は当然偽物になるからである。
  11. ^ 黄鶴樓在縣西二百八十歩。昔費文禕登仙,毎乘黄鶴於此樓憩駕,故號爲黄鶴樓。(『太平寰宇記』鄂州・江夏縣)