コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「昭献皇后」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|呉の末帝孫皓の生母|元の武宗カイシャンと仁宗アユルバルワダの生母|ダギ}}
{{Otheruses|呉の末帝孫皓の生母|元の武宗カイシャンと仁宗アユルバルワダの生母|ダギ}}
'''昭献皇后'''(しょうけんこうごう、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の人物。姓は'''何'''。[[孫和]]の側室。[[揚州 (古代)|揚州]][[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]][[句容県]]の人。父は[[何遂 (孫呉)|何遂]]。子は呉の末代皇帝である[[孫晧]]。弟は[[何]]・[[何洪]]・[[何植]]。「昭献皇后」は[[尊号]]である。
'''昭献皇后'''(しょうけんこうごう、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の人物。姓は'''何'''。[[孫和]]の側室。[[揚州 (古代)|揚州]][[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]][[句容県]]の人。父は[[何遂 (孫呉)|何遂]]。子は呉の末代皇帝である[[孫晧]]。弟は[[何]]・[[何洪]]・[[何植]]。「昭献皇后」は[[尊号]]である。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年9月15日 (火) 15:20時点における版

昭献皇后(しょうけんこうごう、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。姓は孫和の側室。揚州丹陽郡句容県の人。父は何遂。子は呉の末代皇帝である孫晧。弟は何蔣何洪何植。「昭献皇后」は尊号である。

生涯

通称は何姫(「姫」は宮人の汎称)。騎兵隊長であった何遂の娘であった。孫権の兵営行幸の際、道端に立つ何姫を見初め、宦官に命じて彼女を三男である孫和に下賜した。孫和との間に孫晧を儲ける。

太元2年(252年)、孫和は太子を廃されて長沙に押し込まれ、建興2年(253年)には孫峻孫魯班(全公主)の讒言により新都郡へ強制移住となった上で、自害を命じられた。しかし何姫は、孫和とその正妻の張妃張承の娘)が自害した後も生き延び「もし皆が従死したなら、誰が孤児を養うのですか」と言い、孫晧と孫和の遺児を養育した。

孫休が即位すると、孫晧が烏程侯に封じられ任地に赴いたため、何姫も同行した。

元興元年(264年)に孫晧が即位すると、同年7月何姫は昭献皇后の尊号を授けられた、昇平宮と称した。さらに9月には皇太后となり。一族も外戚として優遇された。何氏の子弟の素行が悪かったため、百姓はその一族を恨んだ。滕皇后は孫晧の寵愛を失った後、何太后の勧めがあったため、皇后の地位が保留された。そのこともあり、滕皇后はこれ以降、よく彼女の世話をするようになったという。

建衡3年(271年)春正月、孫晧が妃妾など大勢を引き連れて華里(建業の西)まで進んだ際にも同行しているが、その後は史書に記載が見当たらない。

参考文献