「歩練師」の版間の差分
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[[221年]]([[黄初]]2年)、孫権は王位に就くと、練師を王后にしたいと考えた。さらに[[229年]]([[黄龍]]元年)、帝位に就いた時には皇后にしたいと考えた。一方で太子の[[孫登]]や臣下たちはみな、[[徐夫人]]を皇后にすべきだと進言した。そのため孫権は思い悩み、この問題に決着が付けられないまま10年余りが経過した。しかし宮中ではみな歩夫人のことを皇后と呼び、親戚の者たちが[[上奏]]する際も彼女を中宮(皇后のいる宮殿、転じて皇后自身を指す)と呼んだ。 |
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[[238年]]([[赤烏]]元年)死去した。臣下は孫権の意向を受け、彼女に皇后の位を追贈するよう申し入れた。同年閏12月1日、練師に皇后の印綬が贈られ、策命が下され、蔣陵に葬られた。 |
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小説『[[三国志演義]]』には登場しない。 |
小説『[[三国志演義]]』には登場しない。 |
2020年9月15日 (火) 15:20時点における版
歩 練師[1](ほ れんし、? - 238年)は、三国時代の呉の大帝孫権の夫人(側室)。徐州臨淮郡淮陰県の人。死後に皇后の位を追認された。子に孫魯班・孫魯育。同族に歩騭・歩協・歩闡らがいる。
生涯
前漢の淮陰侯の末裔とされるが、後漢の末に母親に連れられ廬江に移住した。199年(建安4年)12月に廬江が孫策に破られると、母娘共に江南へ移った。
容貌の美しさから孫権に愛され、その寵愛ぶりは後宮中第一であったという。孫権との間に2人の娘を産んだ。嫉妬をしない性格で、他の女性たちを薦めたため、孫権からも長く大切にされた。
221年(黄初2年)、孫権は王位に就くと、練師を王后にしたいと考えた。さらに229年(黄龍元年)、帝位に就いた時には皇后にしたいと考えた。一方で太子の孫登や臣下たちはみな、徐夫人を皇后にすべきだと進言した。そのため孫権は思い悩み、この問題に決着が付けられないまま10年余りが経過した。しかし宮中ではみな歩夫人のことを皇后と呼び、親戚の者たちが上奏する際も彼女を中宮(皇后のいる宮殿、転じて皇后自身を指す)と呼んだ。
238年(赤烏元年)死去した。臣下は孫権の意向を受け、彼女に皇后の位を追贈するよう申し入れた。同年閏12月1日、練師に皇后の印綬が贈られ、策命が下され、蔣陵に葬られた。
小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
脚注
- ^ 『建康実録』