コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「温恢」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
[[豪族]]の家に生まれたが、15歳の時に父を亡くした。その時は亡父の棺を守りながら、故郷に帰ったという。財産家であったが、乱世なのだから財産を持っていてもどうなるか分からないと言い、親族に亡父が遺した財産をすべて分与したという。そのことが評価されて[[郷挙里選|孝廉]]に推挙され、[[近衛兵|郎中]]となった。間もなく、廩丘(りんきゅう)[[県令]]として赴任し治績を挙げた。以降も鄢陵県令・広川県令・[[彭城郡|彭城]][[相]]・魯国相など地方官を歴任し、[[曹操]]の評価を受け召還されて、[[丞相]]主簿に任じられた。
[[豪族]]の家に生まれたが、15歳の時に父を亡くした。その時は亡父の棺を守りながら、故郷に帰ったという。財産家であったが、乱世なのだから財産を持っていてもどうなるか分からないと言い、親族に亡父が遺した財産をすべて分与したという。そのことが評価されて[[郷挙里選|孝廉]]に推挙され、[[近衛兵|郎中]]となった。間もなく、廩丘(りんきゅう)[[県令]]として赴任し治績を挙げた。以降も鄢陵県令・広川県令・[[彭城郡|彭城]][[相]]・魯国相など地方官を歴任し、[[曹操]]の評価を受け召還されて、[[丞相]]主簿に任じられた。


[[208年]]に[[劉馥]]が死去すると、その後任として[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]となり、再び地方に赴任した。曹操から[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]]太守だった[[済]](揚州出身)を補佐として付けられ、[[合肥市|合肥]]の守将[[張遼]]・[[楽進]]と相談し事に当たるよう、言い含められた。
[[208年]]に[[劉馥]]が死去すると、その後任として[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]となり、再び地方に赴任した。曹操から[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]]太守だった[[済]](揚州出身)を補佐として付けられ、[[合肥市|合肥]]の守将[[張遼]]・[[楽進]]と相談し事に当たるよう、言い含められた。


[[219年]]、[[孫権]]率いる軍勢が合肥に侵攻した。温恢は[[兗州]]刺史の[[裴潜]]に対し、揚州方面よりも[[関羽]]がいる[[荊州]]方面を警戒すべきと忠告した。温恢は「川が増水しているのに、[[曹仁]]殿は城中に孤立し、危険に備えておられない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っている。関羽は曹仁が守る[[樊城]]を攻撃し、[[于禁]]を捕虜とした。この時、裴潜と[[豫州]]刺史の呂貢に対し、援軍として赴くよう詔勅が出たが、温恢は「すぐに[[襄陽市|襄陽]]方面への出兵命令が出るだろうから、そちらに備えるべき」と忠告した。裴潜は輜重を置いて軽装兵で出発することにしたが、温恢の予想があたったため、面目を保つことができた。
[[219年]]、[[孫権]]率いる軍勢が合肥に侵攻した。温恢は[[兗州]]刺史の[[裴潜]]に対し、揚州方面よりも[[関羽]]がいる[[荊州]]方面を警戒すべきと忠告した。温恢は「川が増水しているのに、[[曹仁]]殿は城中に孤立し、危険に備えておられない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っている。関羽は曹仁が守る[[樊城]]を攻撃し、[[于禁]]を捕虜とした。この時、裴潜と[[豫州]]刺史の呂貢に対し、援軍として赴くよう詔勅が出たが、温恢は「すぐに[[襄陽市|襄陽]]方面への出兵命令が出るだろうから、そちらに備えるべき」と忠告した。裴潜は輜重を置いて軽装兵で出発することにしたが、温恢の予想があたったため、面目を保つことができた。

2020年9月15日 (火) 15:19時点における版

温 恢(おん かい、181年? - 225年?)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。曼基并州太原郡祁県の人。父は温恕(涿郡太守)。子は温生(嫡子)。 

略歴

豪族の家に生まれたが、15歳の時に父を亡くした。その時は亡父の棺を守りながら、故郷に帰ったという。財産家であったが、乱世なのだから財産を持っていてもどうなるか分からないと言い、親族に亡父が遺した財産をすべて分与したという。そのことが評価されて孝廉に推挙され、郎中となった。間もなく、廩丘(りんきゅう)県令として赴任し治績を挙げた。以降も鄢陵県令・広川県令・彭城・魯国相など地方官を歴任し、曹操の評価を受け召還されて、丞相主簿に任じられた。

208年劉馥が死去すると、その後任として揚州刺史となり、再び地方に赴任した。曹操から丹陽太守だった蔣済(揚州出身)を補佐として付けられ、合肥の守将張遼楽進と相談し事に当たるよう、言い含められた。

219年孫権率いる軍勢が合肥に侵攻した。温恢は兗州刺史の裴潜に対し、揚州方面よりも関羽がいる荊州方面を警戒すべきと忠告した。温恢は「川が増水しているのに、曹仁殿は城中に孤立し、危険に備えておられない。勇猛な関羽が利に乗じて攻めてくれば、災難を引き起こすだろう」と語っている。関羽は曹仁が守る樊城を攻撃し、于禁を捕虜とした。この時、裴潜と豫州刺史の呂貢に対し、援軍として赴くよう詔勅が出たが、温恢は「すぐに襄陽方面への出兵命令が出るだろうから、そちらに備えるべき」と忠告した。裴潜は輜重を置いて軽装兵で出発することにしたが、温恢の予想があたったため、面目を保つことができた。

220年曹丕(文帝)の代になると再び召還され、侍中に昇進した。やがて魏郡太守に任命された。

数年後、涼州刺史・持節・領護羌校尉として赴任するも、その途中で病に臥せてしまい、45歳で逝去した。

やがて嫡子が関内侯に封じられたが、早世したためいったん家系が断絶したという。後年に、その弟である温恭が関内侯に封じられ、亡兄の後を継いだという。

また温恢の友人の一人だった孟建(諸葛亮の親友)は、後任の刺史として涼州に赴任した時、温恢のことを懐古し「彼は優れた政治家だった」と評価したという。

親族

温恭の子
その他三人の男子

曾孫

温羨の子
温憺の子

玄孫

温嶠の子
  • 温放之
  • 温式之