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== 生涯 ==
== 生涯 ==
若くして[[張表]]らとともに名を知られ、[[諸葛亮]]からも高く評価されていた。20余歳で州の書佐から督軍従事となり、軍内の裁判を司った。その裁定は公正であると称賛され、[[丞相]]府に召されて主簿に任命された。諸葛亮の没後、[[尚書省|尚書]]右選部郎に任命されるが、[[エン|琬]]に請われて治中従事史となった。琬が[[大将軍]]となり将軍府を開くと、召されて東曹掾となった。
若くして[[張表]]らとともに名を知られ、[[諸葛亮]]からも高く評価されていた。20余歳で州の書佐から督軍従事となり、軍内の裁判を司った。その裁定は公正であると称賛され、[[丞相]]府に召されて主簿に任命された。諸葛亮の没後、[[尚書省|尚書]]右選部郎に任命されるが、[[エン|琬]]に請われて治中従事史となった。琬が[[大将軍]]となり将軍府を開くと、召されて東曹掾となった。


その後、南中郎参軍に昇進し、庲降[[都督]]の副将となり[[建寧郡|建寧]][[太守]]を兼任した。しかし、病気により[[成都]]へ召還され、護軍監軍に任命された。後に再び地方に出て[[梓潼郡|梓潼]]太守を拝命、また中央に戻り射声[[校尉]]となった。どの役職においても清廉・簡約で、煩瑣なことは言わなかったという。
その後、南中郎参軍に昇進し、庲降[[都督]]の副将となり[[建寧郡|建寧]][[太守]]を兼任した。しかし、病気により[[成都]]へ召還され、護軍監軍に任命された。後に再び地方に出て[[梓潼郡|梓潼]]太守を拝命、また中央に戻り射声[[校尉]]となった。どの役職においても清廉・簡約で、煩瑣なことは言わなかったという。
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[[陳寿]]は「怠惰で、仕事も適当に手を抜く性分ではあったが、一度も他人に取り入る言葉を口にしたり、過度の愛情をもって人に接したりしなかった」と評している。一方で、旧友への援助は惜しむことがなかった。また、当時は評価が低かった[[譙周]]を楊戯は重んじ「我らの子孫は譙周に及ばぬであろう」と誉め称えた。
[[陳寿]]は「怠惰で、仕事も適当に手を抜く性分ではあったが、一度も他人に取り入る言葉を口にしたり、過度の愛情をもって人に接したりしなかった」と評している。一方で、旧友への援助は惜しむことがなかった。また、当時は評価が低かった[[譙周]]を楊戯は重んじ「我らの子孫は譙周に及ばぬであろう」と誉め称えた。


琬との議論の時に返事をしないことが度々あった。楊戯を快く思わない者が彼を失脚させようと「楊戯は公と話しても返事をしません。何という思い上がりでしょうか」と琬に指摘した。琬は「人の心が同じではないのは、各々の顔が違うのと同じだ。表面で従っておいて後からあれこれ言うのは、古人の戒めるところである。楊戯が私の言葉に賛同すれば、それは彼の本心ではなく、かといって私の言葉に反対すれば、それは私の非を明らかにする事になる。だから黙っていたのだ。これは楊戯の美点である」と言った<ref>「琬伝」</ref>。
琬との議論の時に返事をしないことが度々あった。楊戯を快く思わない者が彼を失脚させようと「楊戯は公と話しても返事をしません。何という思い上がりでしょうか」と琬に指摘した。琬は「人の心が同じではないのは、各々の顔が違うのと同じだ。表面で従っておいて後からあれこれ言うのは、古人の戒めるところである。楊戯が私の言葉に賛同すれば、それは彼の本心ではなく、かといって私の言葉に反対すれば、それは私の非を明らかにする事になる。だから黙っていたのだ。これは楊戯の美点である」と言った<ref>「琬伝」</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年9月15日 (火) 15:19時点における版

楊戯
蜀漢
射声校尉
出生 生年不詳
益州犍為郡武陽県
死去 景耀4年(261年
拼音 Yáng Xì
文然
主君 劉禅
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楊 戯(よう ぎ、 ? - 261年)は、中国三国時代の政治家。文然蜀漢に仕えた。益州犍為郡武陽県の人[1]。『季漢輔臣賛』の著者。『三国志』蜀書に独立した伝がある。

生涯

若くして張表らとともに名を知られ、諸葛亮からも高く評価されていた。20余歳で州の書佐から督軍従事となり、軍内の裁判を司った。その裁定は公正であると称賛され、丞相府に召されて主簿に任命された。諸葛亮の没後、尚書右選部郎に任命されるが、蔣琬に請われて治中従事史となった。蔣琬が大将軍となり将軍府を開くと、召されて東曹掾となった。

その後、南中郎参軍に昇進し、庲降都督の副将となり建寧太守を兼任した。しかし、病気により成都へ召還され、護軍監軍に任命された。後に再び地方に出て梓潼太守を拝命、また中央に戻り射声校尉となった。どの役職においても清廉・簡約で、煩瑣なことは言わなかったという。

延熙4年(241年)、『季漢輔臣賛』を著した。

延熙20年(257年)、姜維らとともに出陣し芒水まで至った。楊戯は姜維を嫌っていたため、酒の席で嘲るような発言を何度もした。姜維は平静を取り繕っていたが、内心穏やかではなかった。そのため軍の帰還後、姜維の意を受けた者に上訴され、免官された上で庶民に落とされてしまった。

景耀4年(261年)に死去した。

人物

陳寿は「怠惰で、仕事も適当に手を抜く性分ではあったが、一度も他人に取り入る言葉を口にしたり、過度の愛情をもって人に接したりしなかった」と評している。一方で、旧友への援助は惜しむことがなかった。また、当時は評価が低かった譙周を楊戯は重んじ「我らの子孫は譙周に及ばぬであろう」と誉め称えた。

蔣琬との議論の時に返事をしないことが度々あった。楊戯を快く思わない者が彼を失脚させようと「楊戯は公と話しても返事をしません。何という思い上がりでしょうか」と蔣琬に指摘した。蔣琬は「人の心が同じではないのは、各々の顔が違うのと同じだ。表面で従っておいて後からあれこれ言うのは、古人の戒めるところである。楊戯が私の言葉に賛同すれば、それは彼の本心ではなく、かといって私の言葉に反対すれば、それは私の非を明らかにする事になる。だから黙っていたのだ。これは楊戯の美点である」と言った[2]

脚注

  1. ^ 同郷の後輩に李密がいる。
  2. ^ 「蔣琬伝」

参考文献