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費禕は北伐の随員となり、また郭攸之も大人しい性格であったため、諫言するのは専ら董允の役割となった。劉禅は常々、美人を選び後宮を満たしたいと望んでいたが、董允は「古代にあっては、天子の后妃の数は十二人に過ぎません<ref>『春秋説』では、「天子の妃は十二人、諸侯の妃は九人」と述べている。『三国志』「后妃伝」も参照。</ref>。今、宮女は既に揃っているので、増やすのは適当ではありません」と主張し、あくまで承知しなかった。このため、劉禅はさらに董允を憚るようになった。 |
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建興13年([[235年]])、[[蔣エン|蔣琬]]は[[益州]][[刺史]]に任命されると費禕・董允にその地位を譲ろうとしたが、董允はこれを固辞した。 |
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劉禅は成長するに従い、[[黄皓]]を寵愛するようになったが、董允から厳しく諌められている<ref>[[陳寿]]はこの董允の態度を、後任の侍中である[[陳祗]]と比較し「上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた」と評している。</ref>。このため、董允存命中において黄皓は黄門丞の地位に留まり、悪事を働くことはできなかった。 |
劉禅は成長するに従い、[[黄皓]]を寵愛するようになったが、董允から厳しく諌められている<ref>[[陳寿]]はこの董允の態度を、後任の侍中である[[陳祗]]と比較し「上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた」と評している。</ref>。このため、董允存命中において黄皓は黄門丞の地位に留まり、悪事を働くことはできなかった。 |
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蜀の人々は諸葛亮・費禕・蔣琬・董允を、「四英」または「四相」と呼んだ<ref>「董允伝」の注に引く『[[華陽国志]]』</ref>。 |
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かつて父の董和は、董允と費禕のどちらが優れているか判断しかねていた。ある時、[[許靖]]の子の葬儀に董允と費禕が一緒に参列することになった。董和が粗末な馬車を用意したところ、董允は嫌な顔をしたが費禕は平然としていた。董和は「二人の優劣が今日になってようやく分かった」と言ったという<ref>『三国志』「費禕伝」</ref>。 |
かつて父の董和は、董允と費禕のどちらが優れているか判断しかねていた。ある時、[[許靖]]の子の葬儀に董允と費禕が一緒に参列することになった。董和が粗末な馬車を用意したところ、董允は嫌な顔をしたが費禕は平然としていた。董和は「二人の優劣が今日になってようやく分かった」と言ったという<ref>『三国志』「費禕伝」</ref>。 |
2020年9月15日 (火) 15:18時点における版
董允 | |
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蜀漢 輔国将軍・侍中・守尚書令 | |
出生 |
生年不詳 荊州南郡枝江県 |
死去 | 延熙9年(246年) |
拼音 | Dǒng Yǔn |
字 | 休昭 |
主君 | 劉備→劉禅 |
董 允(とう いん、? - 246年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家。字は休昭。父は董和。孫は董宏(晋の巴西太守)[1]。『三国志』蜀書に独立した伝がある[2]。
略歴
章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位して劉禅を皇太子に立てると、その側近(太子舎人、次いで太子洗馬)として抜擢された。建興元年(223年)、劉禅の即位後は黄門侍郎に任じられた。
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐に先立って上奏した出師表の中で、費禕・郭攸之と共に董允の名を挙げ「政治の規範・利害を斟酌し、進み出て忠言を尽くすのは彼らの役目です。宮中の事柄は全て彼らにご相談ください」などと述べた。次いで諸葛亮は費禕を参軍にしたいと要請したため、代わりに董允が侍中・虎賁中郎将に昇進し、近衛兵の指揮を任された。
費禕は北伐の随員となり、また郭攸之も大人しい性格であったため、諫言するのは専ら董允の役割となった。劉禅は常々、美人を選び後宮を満たしたいと望んでいたが、董允は「古代にあっては、天子の后妃の数は十二人に過ぎません[3]。今、宮女は既に揃っているので、増やすのは適当ではありません」と主張し、あくまで承知しなかった。このため、劉禅はさらに董允を憚るようになった。
建興13年(235年)、蔣琬は益州刺史に任命されると費禕・董允にその地位を譲ろうとしたが、董允はこれを固辞した。
劉禅は成長するに従い、黄皓を寵愛するようになったが、董允から厳しく諌められている[4]。このため、董允存命中において黄皓は黄門丞の地位に留まり、悪事を働くことはできなかった。
延熙6年(243年)、輔国将軍を加官された。翌年、侍中・守尚書令に任命され、大将軍であった費禕の次官となった。
延熙9年(246年)に死去した。董允の没後、劉禅を諫め黄皓の専横を防ぐ人物は現れず、劉禅は亡くなった董允を日に日に疎ましく思うようになった。後に黄皓は政治を壟断して国を滅ぼすに至ったため、蜀の人々で董允を追慕しない者はいなかったという。
瀘州市江陽区に墓所がある(県級文物保護単位)。墓碑は既に失われ盛土のみが残っている。
人物
蜀の人々は諸葛亮・費禕・蔣琬・董允を、「四英」または「四相」と呼んだ[5]。
かつて父の董和は、董允と費禕のどちらが優れているか判断しかねていた。ある時、許靖の子の葬儀に董允と費禕が一緒に参列することになった。董和が粗末な馬車を用意したところ、董允は嫌な顔をしたが費禕は平然としていた。董和は「二人の優劣が今日になってようやく分かった」と言ったという[6]。
費禕は尚書令になると、朝夕に政務を治め、その間に賓客に応接し、飲食しながら遊び戯れ、娯楽を尽くしながらも仕事を怠らなかった。その後、董允は費禕の後任の尚書令となり、費禕を真似ようとしたが、十日の間に政務が停滞してしまった。董允は「人間の能力というものは、これほどまでに差があるのか」と嘆いたという[7]。
ある時、費禕や胡済との宴会に行こうとしたところ、年少で官位の低い董恢が董允の下を訪れた。董恢が恐縮して帰ろうとすると、董允は「せっかく参られた君を捨て置いて、単なる友人との宴会に赴くなど考えられようか」と言い、外出を中止した[8]。
性質は君子を以って為し周公之徳があると評されたという[8]。
参考文献
- 陳寿『三国志』「董允伝」
脚注
- ^ 子の名は不詳。
- ^ 『三国志』では、父が伝を立てられている場合、子の事績は父の伝に付載されるのが通例だが、董允は父の董和とは別に伝が立てられている。注釈を付けた裴松之は、陳泰(陳羣の子)や陸抗(陸遜の子)を例にこの処置に疑問を呈しており、董允の事績が董和を凌駕するからであろうか、としている。
- ^ 『春秋説』では、「天子の妃は十二人、諸侯の妃は九人」と述べている。『三国志』「后妃伝」も参照。
- ^ 陳寿はこの董允の態度を、後任の侍中である陳祗と比較し「上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた」と評している。
- ^ 「董允伝」の注に引く『華陽国志』
- ^ 『三国志』「費禕伝」
- ^ 『三国志』「費禕伝」の注に引く『費禕別伝』
- ^ a b 『華陽国志』