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'''台韓関係'''(たいかんかんけい)では、[[中華民国]]([[台湾]])と[[大韓民国]]の二国間関係について述べる。
'''台韓関係'''(たいかんかんけい)では、[[中華民国]]([[台湾]])と[[大韓民国]]の二国間関係について述べる。


中華民国(台湾)にとって、大韓民国は[[アジア]]における最後の修交国だった。両国は、[[第二次世界大戦]]後の独立以前、共に[[日本]]に国家併合され([[日本統治時代の台湾]]、[[日本統治時代の朝鮮]])、互いに元[[大日本帝国]][[外地]][[臣民]]として同様の文化を共有したことや[[反共主義]]を国是としていたなど、歴史的な背景が似ている。[[1949年]][[10月1日]]の[[中華人民共和国]]建国による[[台湾国民政府|国府遷台]]以降から、[[1988年]]まで韓国は本土の中華人民共和国(中国)を「[[中国共産党|中共]]」と呼称し、[[中国国民党]]の[[介石]][[中華民国総統|総統]]と共に台湾に逃れた中華民国を「自由中国」若しくは「国中」と区別した。
中華民国(台湾)にとって、大韓民国は[[アジア]]における最後の修交国だった。両国は、[[第二次世界大戦]]後の独立以前、共に[[日本]]に国家併合され([[日本統治時代の台湾]]、[[日本統治時代の朝鮮]])、互いに元[[大日本帝国]][[外地]][[臣民]]として同様の文化を共有したことや[[反共主義]]を国是としていたなど、歴史的な背景が似ている。[[1949年]][[10月1日]]の[[中華人民共和国]]建国による[[台湾国民政府|国府遷台]]以降から、[[1988年]]まで韓国は本土の中華人民共和国(中国)を「[[中国共産党|中共]]」と呼称し、[[中国国民党]]の[[介石]][[中華民国総統|総統]]と共に台湾に逃れた中華民国を「自由中国」若しくは「国中」と区別した。


しかし、韓国が[[1992年]]10月に{{仮リンク|北方外交|ko|북방 정책}}を推進していた大韓民国の[[盧泰愚]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が中華人民共和国と国交を樹立したことにより、「[[一つの中国]]論」に従って43年7カ月の間続いた両国の外交関係は絶たれることとなった。
しかし、韓国が[[1992年]]10月に{{仮リンク|北方外交|ko|북방 정책}}を推進していた大韓民国の[[盧泰愚]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が中華人民共和国と国交を樹立したことにより、「[[一つの中国]]論」に従って43年7カ月の間続いた両国の外交関係は絶たれることとなった。
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[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した際は、中華人民共和国が[[中国人民志願軍]](抗美援朝義勇軍)を[[李承晩]]大統領の「[[北進統一]]論」に基づいた[[国連軍]]の[[38度線]]北上に対抗して朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に派遣する一方で、中華民国(台湾)は[[中華民国国軍]](台湾軍)を朝鮮半島に派遣することは無かったものの、在韓の華僑学校の教員や生徒が[[心理戦]]要員として、中国人民志願軍兵士に投降を呼びかけるなどの役割を果たした。
[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した際は、中華人民共和国が[[中国人民志願軍]](抗美援朝義勇軍)を[[李承晩]]大統領の「[[北進統一]]論」に基づいた[[国連軍]]の[[38度線]]北上に対抗して朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に派遣する一方で、中華民国(台湾)は[[中華民国国軍]](台湾軍)を朝鮮半島に派遣することは無かったものの、在韓の華僑学校の教員や生徒が[[心理戦]]要員として、中国人民志願軍兵士に投降を呼びかけるなどの役割を果たした。


その後も両国は、東西[[冷戦]]下において非常に緊密な関係を維持し、[[1975年]]に[[介石]][[中華民国総統|総統]]が死去した際は、[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が総統死去への哀悼の意を表明する対国民特別談話を発表したほか、[[金鍾泌]][[国務総理 (大韓民国)|国務総理]]を弔問使節として台湾に派遣した。
その後も両国は、東西[[冷戦]]下において非常に緊密な関係を維持し、[[1975年]]に[[介石]][[中華民国総統|総統]]が死去した際は、[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が総統死去への哀悼の意を表明する対国民特別談話を発表したほか、[[金鍾泌]][[国務総理 (大韓民国)|国務総理]]を弔問使節として台湾に派遣した。


だが、東西冷戦の終結が近づくにつれ、[[1988年]][[2月25日]]に発足した[[盧泰愚]]大統領による北方外交が積極展開されるようになり、[[ソビエト連邦|ソ連]]や中華人民共和国など[[社会主義国|共産主義国]]との関係改善に乗り出したことは、同時に大韓民国と中華民国(台湾)との関係悪化を招くことでもあった。[[1992年]][[8月24日]]に、大韓民国政府が中華人民共和国と国交を樹立することを発表すると、中華民国(台湾)は断交を回避すべく大韓民国側と幾度なく交渉を行ってきたが、韓国側の答えは「断交などあり得ない」というものだった。にもかかわらず、大韓民国は「[[一つの中国]]論」に基づいて中華民国(台湾)との断交に踏み切り、断交したその日のうちに駐大韓民国中華民国大使館 ([[:ko:주한 중국 대사관|韓:주한 중국 대사관]]) の保有[[資産]]を[[中華人民共和国]]名義に変更した。
だが、東西冷戦の終結が近づくにつれ、[[1988年]][[2月25日]]に発足した[[盧泰愚]]大統領による北方外交が積極展開されるようになり、[[ソビエト連邦|ソ連]]や中華人民共和国など[[社会主義国|共産主義国]]との関係改善に乗り出したことは、同時に大韓民国と中華民国(台湾)との関係悪化を招くことでもあった。[[1992年]][[8月24日]]に、大韓民国政府が中華人民共和国と国交を樹立することを発表すると、中華民国(台湾)は断交を回避すべく大韓民国側と幾度なく交渉を行ってきたが、韓国側の答えは「断交などあり得ない」というものだった。にもかかわらず、大韓民国は「[[一つの中国]]論」に基づいて中華民国(台湾)との断交に踏み切り、断交したその日のうちに駐大韓民国中華民国大使館 ([[:ko:주한 중국 대사관|韓:주한 중국 대사관]]) の保有[[資産]]を[[中華人民共和国]]名義に変更した。

2020年9月15日 (火) 14:36時点における版

台韓関係
Taiwan と Republic of Korea の位置を示した地図

台湾

韓国
在外公館
駐韓国台北代表部 (中: 駐韓國台北代表部) 駐台北韓国代表部 (韓: 주타이베이 대한민국 대표부)
外交使節
代表 唐殿文 (中: 唐殿文) 代表 姜永勳 (韓: 강영훈)

台韓関係(たいかんかんけい)では、中華民国台湾)と大韓民国の二国間関係について述べる。

中華民国(台湾)にとって、大韓民国はアジアにおける最後の修交国だった。両国は、第二次世界大戦後の独立以前、共に日本に国家併合され(日本統治時代の台湾日本統治時代の朝鮮)、互いに元大日本帝国外地臣民として同様の文化を共有したことや反共主義を国是としていたなど、歴史的な背景が似ている。1949年10月1日中華人民共和国建国による国府遷台以降から、1988年まで韓国は本土の中華人民共和国(中国)を「中共」と呼称し、中国国民党蔣介石総統と共に台湾に逃れた中華民国を「自由中国」若しくは「国中」と区別した。

しかし、韓国が1992年10月に北方外交朝鮮語版を推進していた大韓民国の盧泰愚大統領が中華人民共和国と国交を樹立したことにより、「一つの中国論」に従って43年7カ月の間続いた両国の外交関係は絶たれることとなった。

2011年時点での韓国の対台湾輸出額は182億0596万米ドル、台湾の対韓輸出額は146億9358万米ドルに達している[1]

概要

1945年8月15日大日本帝国ポツダム宣言受託による朝鮮解放後、朝鮮分割後の南朝鮮では、1945年9月8日仁川に上陸したアメリカ軍によって朝鮮建国準備委員会(建準)が解体され、アメリカ軍政庁による占領統治が続いた。解放後の朝鮮半島には金九金奎植ら中華民国の重慶に所在していた大韓民国臨時政府の要人が帰還している。

1948年5月10日には、国際連合管理下の南朝鮮単独で制憲議会総選挙が実施され、李承晩初代大統領の執政下で第一共和国が成立した。大韓民国の建国の4ヵ月後に、台湾は大韓民国を朝鮮半島における唯一の合法政府であることを認め、1949年1月4日ソウル明洞に大使館を開設した。国際連合は、国際連合安全保障理事会決議82と84の中で、大韓民国に対する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍事行動を非難したが、台湾は両方の国連決議に支持票を投じた。

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した際は、中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を李承晩大統領の「北進統一論」に基づいた国連軍38度線北上に対抗して朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に派遣する一方で、中華民国(台湾)は中華民国国軍(台湾軍)を朝鮮半島に派遣することは無かったものの、在韓の華僑学校の教員や生徒が心理戦要員として、中国人民志願軍兵士に投降を呼びかけるなどの役割を果たした。

その後も両国は、東西冷戦下において非常に緊密な関係を維持し、1975年蔣介石総統が死去した際は、朴正煕大統領が総統死去への哀悼の意を表明する対国民特別談話を発表したほか、金鍾泌国務総理を弔問使節として台湾に派遣した。

だが、東西冷戦の終結が近づくにつれ、1988年2月25日に発足した盧泰愚大統領による北方外交が積極展開されるようになり、ソ連や中華人民共和国など共産主義国との関係改善に乗り出したことは、同時に大韓民国と中華民国(台湾)との関係悪化を招くことでもあった。1992年8月24日に、大韓民国政府が中華人民共和国と国交を樹立することを発表すると、中華民国(台湾)は断交を回避すべく大韓民国側と幾度なく交渉を行ってきたが、韓国側の答えは「断交などあり得ない」というものだった。にもかかわらず、大韓民国は「一つの中国論」に基づいて中華民国(台湾)との断交に踏み切り、断交したその日のうちに駐大韓民国中華民国大使館 (韓:주한 중국 대사관) の保有資産中華人民共和国名義に変更した。

この為、台湾人の対韓感情は著しく悪化し、暫くの間両国間の交流は途絶えることとなり、両国間の定期直航便も12年に亘って中断されることとなり、台湾から韓国へ向かう観光客の年間総数も、1992年には42万人だったのが、翌1993年には20万人にまで落ち込んだ[2]

だが、1993年にはソウル特別市に中華民国代表部、2005年には釜山に事務処が開設され、徐々にではあるが産業・貿易分野での交流が活発になり始めている。また、2004年9月には両国間で定期航空路線が再開されることが発表された[3]

現在、大韓民国には約2万人の中華民国国籍を持った華僑が居住している。彼らのは大部分は、大韓民国で生まれたものの、親が中華民国国籍であるため、出生時に韓国国籍を与えられることは無い。彼らのうち、90%は山東省若しくは東北部にルーツを持つとされている。一方、2010年12月の時点で3,968人(在外国民 3,548人、市民権者 420人)の大韓民国人が中華民国に居住している。

脚注

  1. ^ 국가별 수출입(한국무역협회)
  2. ^ 以降は、台北市ソウル特別市間などではキャセイパシフィック航空香港)やノースウエスト航空アメリカ)をはじめとする第三国・地域の航空会社が運航し、2002年12月からは両国の航空会社が定期便に近い形でチャーター便を運航させていた。また、韓国における年間の台湾人観光客数も、2003年には36万人にまで持ち直した。
  3. ^ Petty, Andrew (2004年9月15日). “Korea-Taiwan flying close to the wind”. Asia Times Online. http://www.atimes.com/atimes/Korea/FI15Dg01.html 2012年8月5日閲覧。 

関連項目